生きるための思想

大学院博士課程を中退してフラフラ生きてる31歳の男です。社会学などの知見をもとに市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます(低所得、精神障害、非モテetc)。もともとは韓国で農村移住者を研究してた。ゆるく生きたいフェミニンな仲間が欲しいです!ツイッターで思う所をつぶやいてる。

マイノリティと自己アイデンティティ

1.自己アイデンティティの確立

 

私たちは、「自分らしさ」とか「ありのままの自分」という言葉が好きだ。今の時代に象徴されるのは「個性」という言葉だ。

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

「人は一人で生きていけるか?」という命題があるが、生を充実させるなら「親密な他者が一人は必要だ」と私は考えている。

 

人は自己アイデンティティが他者から肯定され承認されることで、安心感を得ることができて喜びを感じるのだろう。

 

自己アイデンティティの確立は一人ではできない。他者の存在を必要とする。

 

「自分らしさ」、本来の自分なんてそもそも存在しない。

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される、というアイデンティティを巡る知見が定着しているようだ(千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269)。

 

アイデンティティは真空地帯のなかで獲得されるのではなく、他者との関係のなか、社会関係のなかで作り続けられるものである。

千田有紀、前掲論文、p.269)

 

 

 

自己アイデンティティの確立は最重要である。自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

また、他者や社会との関係は常に変動するもので自己アイデンティティは流動的であるといえる。

 

現代のジェンダー研究における構築主義という立場からは、自己アイデンティティパフォーマティブ(行為遂行的)に構築されるものである。

 

私が他者や社会に対して、どのような言葉を発し、どのような行動をおこなうのかで、他者や社会との関係のありようもつくられていく。

 

女は「女」としてあらかじめ存在するものではなく、女として生きることで「女」になる。つまり、女が何かを発言し行動すると、後からそれらが「女」の発言や行動としてジェンダー化されていくのだ。

 

アイデンティティは言説実践によって生産・再生産されるものであるなら一貫性はもたない。場当たり的に変化していくものである。

 

以上から言えるのは、他者との関係で立ち現れた自己は絶えず変動するが、立ち現れる自己が他者から承認されることで、「自分は今の自分でいいのだ」と安心できるようになるということあろう。

 

 

2.自己アイデンティティの抑圧

 

前近代における村社会の人々は、自分が何者かであるかは考える必要はなかった。

 

前近代では、人々は生まれた村から移動することもなく、村の規則に従いながら村の一員として生きていき、自分の果たすべき役割は村によって決められる。

 

自分が何者であるかは一義的に決定されており、自分の生き方を自分で主体的に選択しなくてよいし、できない社会である。

 

さらに時代を経て、近代と呼ばれる19世紀から20世紀を支配していたのは「大きな物語」(A.ギデンズ)である。

 

戦時では、日本人全員が皇国臣民としての役割を与えられ、「戦争に勝つ」という物語を共有していた。戦後の復興そして高度経済成長の時代には「頑張れば豊かになれる」という物語があった。

 

男は会社人間になってよく働き、女は主婦になることが人生のストーリーとしてあった。

 

全員が就職できて仕事をすれば豊かになり、全員が結婚して子どもを産み育て、マイホームやマイカーを備え、定年まで勤め上げることが「幸せ」だとされた。

 

大きな物語」が支配していた時代には、個性は求められず生き方も画一的だった。みなが共有する目標に自分を重ね合わせて、皆が同じことを一心不乱に努力する時代である。

 

しかし、現代では終身雇用制の崩壊によってサラリーマンとして一生を過ごすことは当たり前ではなくなり、就職難や非正規雇用の拡大によって、正社員のサラリーマンという今までの「正規」とされる生き方ができない人が増えている。

 

日本社会の組織や集団に馴染めなかったり、低賃金や非正規、過度な労働など新自由主義的な構造で市場経済から疎外され「規格外」となる人が溢れている。

 

引きこもり、ニート、低収入労働者、精神障害者などの人々は、資本主義的な枠組みでは多数派に馴染めず、「規格外」として生きづらさを味わうことになる。低収入、障害、非モテなどの「規格外」とされる人々は、他者からその存在を認めてもらえずに、自己アイデンティティの確立に苦しむことになる。他者から肯定されないと、自己に否定的になり生きづらさを過重させてしまう。

 

皆が同じような人生をおくる前近代や「大きな物語」の時代が終わり、「自分らしさ」が強調される現代では、自己というものが他者から承認される必要があるが、社会的弱者は他者からの承認が得られにくく苦しむことになる。

 

つまり、社会的弱者にとっては自己アイデンティティの確立が迫られることは抑圧となる。

 

3.自己アイデンティティの撹乱

 

自己アイデンティティは他者との関係性によって生まれるが、他者から自分へのまなざしや、関係性によっては息苦しさや苦痛がもたらされる。

 

他者からどう見られるかを自分がコントロールしたり、他者からの見え方を変えるために自己アイデンティティの撹乱という戦略がとられうる。

 

自分のポジティブな部分だけを相手に示して、その部分だけで自己アイデンティティとされることは、それが本当の自分とまなざされるようになり息苦しさを感じるだろう。しかし、自分の生きづらさについて語ることは、「恥ずかしいこと」や「みっともないこと」とされて言うことを憚(はばか)られる。

 

何らかの障害をもっていたり、社会に適応できず生きづらさを感じている人は、自身の正直な気持ちや感情を抑え、一般社会の通念に合うように自己を見せようとする。

 

自分の正直な気持ちは他人から受け入れられず、理解されるのが難しいと思ってしまう。

 

マイノリティにある人は、多くの人に理解してもらえる言葉を発せられるかといった(話が上手いとか)「言説の資源」の点でマジョリティに劣るとされる(齋藤純一、2000、『公共性』岩波書店)。

 

「言説の資源」という点で劣位にあるマイノリティにとっては、そうした限界に挑むうえで、自分たち自身の言説の空間を創出することが有効である(p.14)。多数派からは、「異常である」「劣っている」「遅れている」といった仕方で貶められてきた自分たちの生のあり方を肯定的にとらえ返し、優生な多数派の言説とは異なった言説のモードで語っていく(p.15)。

 

社会的弱者などマイノリティとされる人々は、強者であるマジョリティの人々に受け入れられたいという理由に、マジョリティの言語コードで語り、マジョリティと同じような行動をして、マジョリティの仲間として自己アイデンティティをつくり認められたいのだろうか?

 

そうすることは、結果的にマジョリティへの従属につながり、マジョリティから支配されて抑圧を増大させる結果になるだけだろう。それでは、マイノリティはマジョリティの侍女に成り下がるだけだ。

 

マイノリティである「規格外」の人は、「規格外」のまま肯定され居場所がつくられればよい。

 

ならば、「規格外」の人は、自分に正直に「規格外」の言説実践をおこない肯定される方向で自己アイデンティティをつくっていくのが生きやすい。そうやって僅かながらでも肯定し合う仲間をつくっていくしかないだろう。

 

 

【参照文献】

 

 ● 上野千鶴子編、2005、『脱アイデンティティ勁草書房

脱アイデンティティ

脱アイデンティティ

 

 

 

 ● 齋藤純一、2000、『公共性』岩波書店

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)