生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「利他」の原理

 

 街で物乞いする人がいると、わたしはよくお金を渡してしまう。でも、通行人みんなが100円ずつあげれば、その物乞いをしている人も生活に困らなくなるはずだ。みんなが僅かな「利他」を発揮すれば物乞いの人も生活がよくなる。なぜ「利他」は生じないのか。

 

 夜回りなどをしている人は、自身が必ずしも余裕があるわけではないのに、それでも路上の人たちを支援している。福祉が脆弱であることや、みんなが困窮者に知らんふりすることで、あまり余裕のない人の手により路上生活者のケアがなされている現状がある。

 

 どうして、「利他」はおこりにくいのか。伊藤亜紗さんたちによる『「利他」とは何か』(集英社新書、2021)を読みながら考えたことを書いてみる。

 

【目次】

 

 

1.立場が「利他」を抑え込む

 

 人の行動を規定するのは内発的な動機ではなく立場によるところが大きい。立場には直接的な命令・役割だけでなく、「見えない権力」も働く。「見えない権力」とは、その人の社会的な立場に求められる規範であり、階級、職種、ジェンダーエスニシティなどで規定されがちだ。その人が世間から求められる思考や行動規範を知らず知らずのうちに内面化していて、それがあたかも自分の意思による主体的なものだと思い込ませているのがフーコー的な権力作用なのだろう。いわゆる「オトナになる」とは、社会で割り振られた立場をちゃんと遂行することであるようだ。逆に、与えられた立場を果たせていれば、他の活動をしないことが正当化される。男性であれば仕事で一家を養っていると、一人前の男性として社会的役割(=ジェンダー役割)を果たしていると見られ、家事や育児の免責が正当化されやすい。

 

 社会的立場を得るには義務を果たすことを求められる。しかし、一般的に義務として挙げられるのは、「勤労の義務」や「納税の義務」という労働者としての義務である。社会における市民は、労働だけに限らず、広く公益を高める営為によっても社会の共通善に資することができる。労働のみを義務とみなす狭い義務観念により、それ以外の活動が過小視されてしまう不均衡が生じる。労働という狭い義務を果たすことで社会的な立場を得られるため、労働者という立場から離れた行為は余計なことと思って避けたがる。自分は義務を果たしているから、困った人や社会問題を目にしても国や他人が何とか解決するだろうと、我関せずの態度をとることもできるようになる。立場でしか動かないことがかえって社会的無責任を正当化することにもなる。

 

 街で物乞いをしている人を見ても、多くの人は素通りするが心の中はゾワゾワする人は多いのではないか。良心に何かしら働きかけるものがある。しかし、自分が素通りした事を、自分一人が金を与えても解決にならないとか、何かしら合理的理由で正当化してしまう。「利他」は良心など合理性では説明できない働きによりなされることが多いが、この場合、むしろ合理的発想が「利他」を妨げる作用をしてしまう。また、働かずに金を得るのはケシカランという「勤労の義務」の側に自分を置く選択をして、物乞いに関わらないことを正当化することも多いだろう。つまり、立場が「利他」を押し留めているのだ。

 

 

【過去のブログ記事】

社会で規定される義務の範囲が狭いため、各々が自分の能力に応じた社会的役割を果たすことの妨げになっていることを指摘した。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

2.「利他」によるユートピアの生成

 

 先に書いたように、人は自分の行動を立場という枠内に閉じ込めがちなので、立場を超えた利他的振る舞いが抑制されている。しかし、例えば災害ユートピアは、有事の際に立場を超えた利他的振る舞いが可能になることで立ち現れるものだ。つまり、災害時などの非日常のレイヤーに飛ぶと人は「利他」を発揮できる。

 

 人は、日常では利他的振る舞いを自発的にすることは少ないが、なんらかの非日常状態や危機に陥ると利他的振る舞いを当然のようにおこなうようになる(それが、真の「利他」と言えるかはビミョーだが)。例えば、戦時中には日常にはない高揚感があったという。村八分や監視による暴力や抑圧はひどかったが、物資が不足していることでの相互扶助や、一体感などでユートピア的な感覚をもった人もいたのではないか。戦争というのはある種の祭りだとも言える。「希望は戦争」というロスジェネ論客の言葉も、現代の閉塞や自分たちの不都合な立場をひっくり返すような破壊的な形でのユートピアを求めるものだったんじゃないだろうか。 

 

 

3.自己犠牲の形では「利他」感情は生まれにくい

 

 わたしが路上での生存権アピール(路上一揆)をしていた時に、一人の友人が来たのでだべっていた。そこにある社会問題でデモなどを主催するアクティビストの方が通りがかり話しかけた。生存権の問題にも適格に指摘をして、大変スマートだ。わたしが自分の活動で掲げるのは「生きづらさ」なので、そのアクティビストの方に「生きづらいですか?」と問いかけてみた。すると、「この社会ではみんな生きづらいですよ」と答えた。少し話を交わした後、その方は去っていった。友人と話を再開すると、友人からこんな言葉を投げかけられた。「彼のような意識も高く能力もある人の生きづらさと、わたしの感じる生きづらさとは質が違うだろう」と。

 

 その友人は社会的孤独でしんどさを抱えている。わたしと同じく稼ぎや能力により人がランク付けされるのを嫌う人だ。アクティビストの人が言うことは素敵でありその一貫した態度に尊敬したが、わたしは友人の言ったことにも大きな思い入れをもった。それは、その友人の心から出た一人称(自分自身)の重いホンネであり、言語化しにくい「生きづらさ」を吐露したものだ。しかし、社会ではこういう個人的な苦悶は自意識の問題だとあっさりと片付けられがちだ。そんな個人的な悩みより大きな社会の課題の方に目を向けなければいけないと圧力がかかる。むしろ、社会的な課題を解決することが個人の生きづらさの解消になるんだと。しかし、それを頭では分かっていても、大きな社会的課題の前に今の個人の孤独といったしんどさは些細なことだと矮小化されてしまうのか。みんなが大きな話題にばかり関心を向けがちなると、自分が置いていかれるように感じてしまい、居心地が悪くなり疎外感をもってしまうのではないか。自分の抱える「生きづらさ」には関心を持たれていない中で、大きな社会問題にコミットするのを求められるのは、自分のリソースが一方的に奪われていると感じるようになる。それが、自己犠牲になると感じてしまうことがある。

 

 わたしも多くの社会問題に目を配る気持ちの余裕がないためか、そのような気持ちになることがしばしばだ。ツイッターでも、大きな問題ばかりがタイムラインに流れ、引きこもりや、承認に悩むこと、孤独といったものが取るに足らない問題だと言われているように感じる。みんながそう言ってはいないが、自分の抱える属性や問題群などの言及がないと自分たちにももっと気を払ってほしいという思いがあふれる。何が言われているかよりも、何が言われていないかの方が個人の尊厳には重いのだと思う。

 

 人を動かすのは大きな課題提起といったシステマティックなものではなく、個人そのものに呼びかけるような言葉なのかもしれない。マスではなく個。自分の存在そのものに気をかけてくれること。人は自分に殻をまとい赤の他人には無関心をよそおう。しかし、その殻が思わぬキッカケで揺らいだりしてその人そのものに触れることがある。そこで、相手を社会問題のことだけ言う自動機械ではなく一人の個人として対することができ、自分の内部に迫るものを感じられるのかもしれない。その社会問題について言う相手は、自分ではなく誰でもいいんじゃないか。自分そのものに呼びかけてこないから、応じる気になれないのではないか。人は自分が一人の人間として関心をもたれている感覚をもててこそ、はじめて他者やその他者に関わる問題にも目を向ける余裕ができるのではないか。ただ、社会問題に関心を向けない人を「意識低い」と切り捨てることもできないのではないだろうか。こういうことからも、「利他」がどういう機序でなされるのか、なぜ社会的課題やインテリの言葉にみんなが惹かれないのかも分かるかもしれない。

 

 

4.「利他」は立場を超えた内発性動機から生じる

 

 他人のためにやる行為といっても、対価を求めたり、期待を求めた行為は、相手への支配となりがちだ。そうではなく、「利他」は自分の中から湧き出る何かに突き動かされてなされるものだろう。國分功一郎さんの言う中動態的な、何かにつれさられる感覚でなされる。カント的には「仮言命法」(条件付きの命法)ではなく、「定言命法」(無条件の命法)だ。これは、自分の立場を離れた純粋な動機からなされるものだ。

 

 伊藤亜紗さんは、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということを指摘する(p.51)。自分の行為に対して相手が喜ぶことを期待すると、利他が自己犠牲となり、見返りを求める押し付けや暴力となる。自分がなにかやって相手はどう反応するかわからない。わからないけど、それでもやる。不確実性を前提にやってみて、相手に委ねる。伊藤さんは利他の基礎にあるのは、相手への信頼だともいう。不確実性はあるが思い切って相手を大丈夫だと信じてみる。信頼とは、相手の自律性を尊重することであり、支配するのではなくゆだねることだという(p.49)。信頼において、利他的行為が可能になる。

 

 利他とは弱目的性に基づく。自分の目的通りに他者の行動に期待しすぎるのをやめる。他者への期待は操作欲求でもあり、パターナリズムとなる。これも、自分が何らかの形で相手の上にいたいという立場の問題と言えそうだ。

 

 わたしたちは立場にがんじがらめになっている。立場が「利他」の発動を邪魔している。だから、利他的振る舞いをするには、立場からジャンプする勇気が必要になる。「利他」は自分の立場を超えたところで発動する。立場という殻を抜け出し、内発性に突き動かされることで「利他」は可能になるのだろう。

 

 

【参考文献】