生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

ピル問題から考えるシングル単位の働き方

 

【目次】

 

 

1.ピルを飲んで働けと言うのはジェンダー差別である

 

 ホリエモン東京都知事選で掲げた公約に【低用量ピルで女性の働き方改革】という文言があり、これがめちゃくちゃ批判をあびた。

 

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ホリエモンが掲げた都知事選公約の中に『低用量ピルで女性の働き方改革』とある。批判が噴出した。

 女性が主体的にピルを利用する選択肢は広がるべきだが、ホリエモンの公約におけるピル利用の推進目的が、労働生産性を上げるために女性身体をコントロールするような書き方だったから批判を受けた。これは、女性の働きやすい労働環境をつくるという発想ではなく、男性的な働き方に女性が適合するように女性にコストをかけさせる発想なのでジェンダー差別だといえる。

 

2.労働そのものがジェンダー差別をもつ

 

 ここで分かるのは、資本主義下における労働(とくに、決まった時間に働かせられる賃金労働)は、男性中心のものでありジェンダー差別に基づいていることだ。生理および妊娠・出産・育児(女性に偏重しやすい)などが労働においては想定されていない。女性の経験しうることは「特殊」なことと位置づけられており、男性が働くことしか想定されていないという点で、労働そのものが特定のジェンダーに有利で差別的であるといえる。また、生理および妊娠・出産そのものよりも、それらを理由にした就職差別・就業差別などもある。それらは生物学上の本質的な不利というよりも、「女性」というジェンダーに対する人為的な差別である。このように、資本主義下の労働において、女性は生物学上の身体機能による不利と社会的なジェンダー差別という二重の差別をうけている。

 

3.「障害学」の視点から

 このジェンダー差別の問題を障害学における「個人モデル」と「社会モデル」という視点から話してみる。「障害」を本人に内在するもの(インペアメント)と捉えるか(=個人モデル発想)、あるいは社会のシステムによって「障害」(ディスアビリティ)とさせられると捉えるのか(=社会モデル発想)、という「障害」を巡る2つの考え方がある。【日本人で健常者のシスヘテロ男性】だけをモデルとした働き方をもとに労働システムがつくられると、それ以外のマイノリティとなる外国人、女性、障害者、クィアなどの人たちにはシステムが不利に作用する。男性をモデルとした働き方であると、生理などが想定されていないため、生理が「障害」のように扱われ、生理を我慢したりピルなどを使うことで男性モデルへの適合を迫られる。しかし、労働システムが生理ありきで作られ生理による不利益を被ることがなければ、生理は「障害」のようには扱われない。女性も働きやすい環境を整えることが働き方改革であるとすれば、男性主体の働き方をモデルにするのではなく、女性の経験もビルトインされた働き方がシステムとして確立される必要がある。「障害学」の発想からは、女性が本来的に不利なのではなくて、女性を不利にしているのは男性中心の労働システムであるといえる。

 

4.市場は差別をもたらす

 資本主義において資本は利潤の極大化を目的とする。労働者に対しては長時間労働労働生産性の向上を求める。前者はマルクスのいう「絶対的剰余価値」の生産であり、後者は「相対的剰余価値」の生産として、資本は利潤(剰余価値)を拡大させる。この資本の利潤拡大を放置すると、他の資本との競合のために長時間労働が常態化し(低賃金であるから長時間労働をおこなわざるをえない状況もある)、低賃金にも関わらず労働強度が高くなることで搾取率が上がるなど、労働環境や労働条件は悪くなるばかりである。低賃金の問題が放置され労働強度や労働時間ばかり拡大することで、ますます「弱い者」が働きにくい状況となる。資本の論理(=競争論理)のもとでは「強い者」が生き残るので、規制をしないと、システムは「強い者」を基準としたものにスライドしていく。しかし、「強い者」を基準にしたシステムにすると、無限の競争がおこなわれ最終的に生き残るのは一人となってしまう。一人しかいない世界は社会として機能しない。つまり、「強い者」を基準にしたシステムでは社会は潰れる。資本の自由に任せると労働者の再生産ができなくなり資本主義は存続できない。資本の動きを社会によって歯止めをかけ、労働者の生存権と働きやすさが求められなければいけない。それは、男性(「強い者」)を基準としたものではなく、すべてのジェンダーにとって負担の少ないものとならなければいけない。

 

5.生理による不都合を被らないために

 女性が生理でも無理して働こうとするのは経済的問題とともに、生理がバレるのが怖いという理由があると思う。女性の身体が性的な客体として強く見られる社会では生理は好奇やからかいの対象となりやすく、生理であることを誰かに告げることで不利益を被る恐れがあり生理をオープンにしにくい。特に男性に生理がバレると、生理であることを言いふらされたり、からかわれたり、性的な目で見られたり、嫌がらせを受けることがあるので、大変やっかいである。自分が生理であることすら知られたくないので、バレることやアウティングをおそれ生理でも周りに言えないという事情がある。以前、あるデパートで「生理バッジ」をつけて就業する規則が問題となったが、生理であることを周知させて配慮してもらうというのはリスクしかないので代案にならない。学校の体育や水泳の授業を生理で休むときでも一々生理であることを指導教員に告げなければいけないケースが多いが、それもデリカシーを欠いたものだ。学校でも職場でも、休むことに対して詳しい説明を求められず、「体調不良のため」と一言告げて休めるようにしなければならない。生理を明かさず休める体制が求められる。これにより、女性だけでなく、男性も休みやすくなりすべての人が無理せずに働くことができるようになる。

 

6.シングル単位の労働システムへ

 システムレベルでおこなう女性が働きやすい働き方改革は、現在の家父長制(=家族主義=ジェンダー差別)に基づく労働システムから、個人が経済的自立できる事を想定した個人単位発想の労働システムにすることにある。労働においてジェンダーフリーを実現するというのは、あらゆる人が働きやすくなるシステムとなる。

 

 現在の働き方は世帯主(男性)が一家を養うことを前提としたモデルとなっている(家族主義)。一人で数人分の生活費を稼ぐ発想なので、これが長時間労働の原因となっている。長時間労働は生活の面倒を見てくれる配偶者(女性)の存在を前提としている。身の回りの面倒を見てくれる人がいない女性は男性並に働けず競争に負けてしまう。結果、〈男性は仕事/女性は家庭〉というジェンダーロールができあがり、女性が働くことを想定していない男性中心の労働システムが再生産されていく。女性は家事・育児を割り当てられパート労働も低賃金であり経済的自立ができない。パート労働は世帯主に養われることを前提としているため賃金は低く、最低賃金の下方圧力をもたらしている。このように、家父長制(=家族主義)に基づくシステムがジェンダー差別を帰結している。労働システムを個人単位として、個人が一人で経済的自立することを前提とした賃金設定や働き方を進める必要がある。

 

※日本の労働システムと家父長制(=家族主義)の関係は以下を過去記事を参照

  

nagne929.hatenablog.com

 

 

★★シングル単位の働き方のために★★

 

最低賃金を上げ労働時間を短縮する】

 誰かに養われることを前提にした賃金設定ではなく、個人が働いて経済的自立できる賃金水準にする(最低賃金の引き上げ)。長時間働いてやっと生活できる賃金水準ではなくて短い労働時間でも経済的自立ができるような賃金水準とする。ワークシェアリングの発想で個人の労働強度も下げ、ヘトヘトになるような働き方を避ける。これにより、ワークライフバランスが進み、〈男性は仕事/女性は家庭〉というジェンダーロールも薄れていきジェンダーフリーに進む。

 

 

【休みやすい体制】

 有休取得を容易化。生理などのアウティングがされないように、休むために詳しい理由を問われずに休めるようにする。体調不良や精神疾患などにも適用されうるし、何となく休みたい時も休むことができればいい。健常者男性をモデルとした毎日働き詰めることを前提とした働き方を見直す。在宅ワークの拡充。

 

 

【妊娠・出産・育児により不利にならないように】

 育休などの拡充。子どもを産むことを前提とした働き方やシステムをつくる。ハラスメントをされない社会。個人単位の社会保障子ども手当を拡充して、労働や配偶者に依存しなくても生活保障がなされるようにする。保育園やベビーシッターなどの使用を容易にするための制度をつくる。子どもの生存を親次第にするのではなくて社会でバックアップする発想となれば親も働きやすい。

  

生活保護を前提とした引きこもりの生存戦略

 

【目次】

 

 

1.引きこもり・ニート生活保護を前提として生きる必要がある

 

 引きこもりの生き延びる方法はほぼ生活保護しかない。いまや引きこもりは中高年が多く親亡き後についての生活は親の財産・年金が尽きたら生活保護しかないだろう。むしろ、生活保護を受けることを前提にして生きたほうが現実的であり精神的な安定にもなると思う。だから、困窮したらいかにスムーズに生活保護にスライドできるかがカギなのである。

 

 しかし、斎藤環さんによると、引きこもりの人たちは生活保護を受けるのを申し訳ないことだと思っており、親が死んだあとは保護を受けずそのまま死ぬことになるだろうと言っていた。

 

2.福祉利用をためらわせ困窮者を追い詰める労働イデオロギー

 生活保護の捕捉率は約2割にとどまっている。申請主義による障壁、水際作戦、あるいは恥の意識などが相まって市民は生存権を行使できていない。福祉を受けるのは恥だという意識は、労働によって身を立てなければいけないという労働イデオロギーの産物である。働いていないと社会からは「半人前」と見られ承認が得られない。社会から承認を得るために労働に駆り立てられ低賃金労働にも甘んじてしまう。生活保護基準以下の経済水準で暮らしている人たちでも生活保護を受けたくないという人が多い。困窮者をおいつめるのは労働そのものではなくて労働イデオロギーだと言えそうだ。

 

 (※)さらに、保護を受けない理由に親族に扶養照会され身元がバレるのが困るという問題を抱えている人もいる。それは社会保障が世帯(家族)単位となっていることの弊害でありこれまでも指摘しました。

 

 

 「働かざる者食うべからず」という言葉は、不労所得で暮らす資産家や地主を牽制するためのものだった。憲法27条における「勤労の義務」は、他人の労働力の成果物を吸い上げて生活する富裕層を牽制するために(旧)社会党により盛り込まれたものだ(社会主義的な意味が強かった)。よって、無業者や福祉で生きる困窮者を追い詰めるためのものではない。

 

 「みんな働かなくなったらどうすんだ」と言う人もいるが、今は過労で倒れたり、困った人が福祉利用をためらったり、低賃金でも働かされるなど労働主義による弊害がひどい状況なので、「働かなくていい」と言うくらいで丁度いいあんばいになるだろう。生活が保障されても、労働イデオロギーが強い社会では多くの人はすすんで働こうとする。生活保障されると、人々はマトモな待遇してくれる仕事しか選ばなくなるので、ダメな職場は労働条件を改善せざるをえないので社会はディーセントになるのではないだろうか。

 

 社会には働かない人が一定割合で存在する。江戸時代の村落社会でも公的扶助は存在したし、大正や昭和にも「高等遊民」がたくさん現れた。むしろ、働かない人がいることが前提となって社会は成り立っていると言える。高齢化が進み高齢者はやがて働けなくなる。労働が十分にできない障害者も多い。働いている人口は思うより多くはない。働けない人が一定数いることを前提としたシステムにする方が社会の実態に合うはずである。

 

 社会の成熟とはこれまで生かすことのできなかった命を生かすことを可能にすることである。経済的困窮者には女性、障害者、LGBTQ、外国人などマイノリティが多い。それは、この社会が日本人の健常者男性をモデルとして設計されており、その主流秩序においてエンパワーされにくいマイノリティが劣位におかれやすいためである。このような構造により生まれる経済力の傾斜をならし「公正」を担保するリベラリズム的発想が求められる。

 

 働かず福祉を受けている人は社会のお荷物だと常套句のように言われるが、そもそも働いていない人が社会保障を受けたところで社会の富の総量は変わらない。福祉利用者のもとに降りた税金は消費によって資本に還流する。福祉利用者は金を右から左へと流しているだけである。福祉利用者が地方に住んでいる場合は中央から地方へ富を分配しているともいえる。

 

3.税金を食う巨悪は他にいる

 生活保護利用者にバッシングをする人は、なぜか権力者の税金の無駄遣いや利権については矛先をむけない。「森友」「加計」「桜」など権力者と友だちによって税金が食い物にされている事例はたくさんある。コロナ対策でもお肉券などで税金を利権に誘導しようとしたし、アベノマスクは460億円の税金をつかって市民にゴミを送りつけた。数兆円におよぶオリンピック予算、原発にかかる利権など巨額の税金が政府−大資本の間でグルグル回されている。もっと言えば天皇や皇族も巨額の税金に寄生している。生活保護バッシングはひとえに抵抗できなさそうな弱い立場にある人をたたいて鬱憤バラシをしているのである。

 

4.生活保護への負の意味付けを解消する

 A.ホネットは承認の形態として、①親密圏(家族)/②法制度/③業績(社会的評価)の3つを挙げている。これらが欠けると差別や生きづらさをうむ。①親密圏(家族)と③業績(社会的評価)は人との関係における承認であり不安定であるが、まずは②法制度で差別されないことが平等における基礎となる。

 

 なので、まずは差別のもととなる生活保護制度に対するネガティブな意味付けを解消していかなければいけない。生活保護がことさら騒がれるのは不正受給問題である。しかし、金額ベースで見る不正受給率は0.45%(2015年度)と微々たるものだ。これも、保護利用者の子どものアルバイト代の収入申告漏れなどによるものが多く悪質なものは少ない。目くじらを立てるほどのものではない。むしろ、生活保護利用者は不正受給をしているとネガティブな印象を植え付けられることで、困窮した人が生活保護の利用をためらう効果が生まれてしまっている。保護利用者の落ち度や不正受給などに対していたずらに騒ぐことで救われる命が救われなくなっている。また、生活保護はみじめで酷いものだという印象が強まりすぎることにも弊害がある。生活保護については問題も多いが制度利用によって最低限の生活ができて命をつないでいる人がいる。まがりなりにも困窮者の生存権を保障している点はポジティブに評価されるべきである。安心して制度を利用できるような評価の仕方が求められる。

 

ただ、生き延びるための権利として堂々と福祉が利用できるようになればいい。

 

コロナと街

過度の外出制限は街の人から居場所を奪うこと。コロナ自警団に見られる群生心理のこわさ。安心・安全を過剰に求める社会は逆に安全・安心を損ねること。

など、書きました。

 

 

【目次】

 

 

1.路上を居場所にしている人たち

 

(5/5)

 所要で京都駅に出かけた。京都駅前で座って休めるところを探していた。日陰で座るところを見つけてスマホなどをいじりつつ休憩。数メートル横におばあちゃんが座っていてお弁当を食べていた。たまに目が合ったので思いきって話しかけてみた。「外は気持ちいですね」と話しかけるとおばあちゃんも親しく話してくれた。そのおばあちゃんは着ている服や雰囲気からも貧しい人だというのは分かった。街で強盗にやられて困ったという話をしていた。そこに一人のおっちゃんが通り掛かる。サングラスをして短パン・半袖とラフな格好をしていた。おばあちゃんの横にきて「コロナで企業がたくさん潰れとるわ。休業補償もないからな」と言っていた。話題が気になったので「やっぱり潰れてる企業多いんですね〜」と話しかけてみる。そうしたら、おっちゃんから色々話を聞くことに。このおっちゃんは政権批判的で、給付金は10万円では足りない、給付が遅すぎると話が一致した。京都市の給付金の申請受付が遅くなっているのは、門川市長が道路公団ばかりにお金使って医療などコロナ対策に消極的だからという。その道路公団はヤクザとつながっているという話も。今は京大病院などに研究費与えなあかんのやと言っていた。その他、ヤクザ関連の話を興味本位で聞いた。昔のヤクザは祭りや縁日などのテキ屋で市民を喜ばせて金稼ぎをしていたが、今は闇金融や恐喝(通行人に因縁をつけて金を巻き上げる)など市民を脅かしてばかりいるからけしからんと怒っていた。

 

 そうして話しているうちに別の人がやってきた。若い丸がりの青年だった。足が悪く話すのも得意でない感じだった。そばに来てお菓子を食べていたり一言二言話していた。知り合いなのだろう。さらにチューハイを手に持った別のおばちゃんやおっちゃんもいつの間にかそこに集う。肌の色や着ている服から判断する限り暮らし向きは良くない人たちだろう。その人たちは街を歩いていて知り合いを見つけたらダベっているのだという。路上を居場所にしている感じであった。

 

 

2.西成にて

 (5/8)

 神戸方面に用事があって外出。三宮〜元町の商店街では多くの店先にマスクが売られていた。西成の様子を見に行きたくて阪神電車に乗って難波方面へ。南海電車新今宮のあいりん地区へ。街は閉まっている店も多かったが営業しているスナックからはおっちゃんの歌う声が聞こえてきた。スナックには客が多く昼から酒盛りなどで賑わっていた。商店街も人がたくさんいた。歩く人、自転車で突っ込んでくる人、怒鳴りながら壁をける人などでいつも通り賑わう。公園にはいい天気だったからベンチで話しているおっちゃんたちがいた。昼ごはんを食べる人、ダベる人、大声を出す人、バトミントンをする子ども、いつもとそんなに変わらない光景だった。路上で座って談笑しているおっちゃんが多くいた。知人と一緒に居酒屋に。店員のお兄ちゃんは休業補償がちゃんと無いから休むに休めないと語っていた。この地区は独居の高齢者が多い。家で一人でいるのも寂しいから外に出る。外でブラブラしていると顔なじみに出会うからそこで世間話や雑談が始まる。公園、路上、スナックと街のあらゆるところが居場所となっている。

 

 このような街を居場所にしている人に対して過度の外出自粛を求めるのは野暮であるし、居場所を奪うことにもならないか。みんな感染症のリスクは知っている。知ったうえで外出している。外出する何らかの理由がある。自粛しろと頭ごなしに言われるほどバカではない。みんなからは「不要不急の外出」だと言われるかもしれないが、本人にとっては生きるために必要な営為であるかもしれない。リスクを無くすには家にいるのが合理的だが、合理性だけでは生きられないのが人間である。なにが「不要不急の外出」でありそうでないかも生産性の論理により分けられているのではないか。感染症にかかった人も、仕事や通勤中に感染した人は「名誉市民」と持ち上げられるが、ブラブラしていて感染したら「不届き者」と言われ後ろ指をさされたり、治療なんて受けなくていいという切り捨ての発想にならないか。

 

3.自警団化する自粛ジャンキー

 

 わずかな人がブラブラ外を歩こうが店を開けようが誤差の範囲内だ。「みんなが外出したらどうするんだ」というのは現実的にありえないから言っても仕方ない。外出自粛をしている人が大半であるし、少しの外出でささやかな楽しみを得るくらいは目をつぶってもいいのではないか。リスクは0にはできない。それよりも感染者へのスティグマが強くなり、症状の疑わしい人が安心して申告できず適切な医療が受けられないことが問題である。誰もが感染するリスクはあり、誰が感染しても蔑視しないことが感染症抑止につながる。

 

 感染者へのバッシングや暴力、プライバシーのアウティングがひどい。営業している店に対しても嫌がらせをしたり自治体にチクったりする人が後を絶たない。いわゆるコロナ自警団だ。このような行為をする人は世間や権威のおすみつきを得ている感覚があるからタチが悪い。攻撃する対象は権力者ではなくて攻撃しやすそうな市民に向いている。攻撃しても咎められない対象を「悪」とみなし、みんなで攻撃して「悪」と戦っているような高揚感(=共同幻想)を得ている。パチンコ店、ナイトワークなどスティグマをもつ職業がもっとも攻撃にさらされている。群生心理の暴走といえる。これは、冷静さを欠いたパニックや「正義」の暴走ではなくて、攻撃できそうな人を冷静に選んでおこなわれているので明確な差別である。「正義」の暴走はなく、いつもあるのは「不正義」の暴走だ。学校のいじめやホームレスへの暴行でも同じ論理が見られる。この人たちは普段は穏当に暮らす善良な市民なのかもしれない。しかし、ある場面では世間や組織の「空気」や権威に従い非道な行為もおこなうようになる。「凡庸な悪」である。

 

 コンビニがトイレを閉鎖したのも、感染症抑止を名目に嫌がらせや攻撃をおこなう自警団を恐れて先手を打った感じである。店を営業してもわずかなスキが攻撃の対象となり安心できない。「外出をしない」「マスクをする」「2メートル空ける」などは、コロナ対策やマナーとして打ち出されたものだが、これらを守らない人たちを吊し上げたり攻撃の対象とする人も見られる。マナーを守るのは自分や他者の安全のためというよりも、自分が他者から攻撃されないためという恐怖の論理による倒錯がおこっている。ルールやマナーが人々が相互監視するためのものとなり疑心暗鬼がうまれ皮肉にも安心と安全が損なわれている。今やウィルスだけではなく人からの攻撃にも怯えなければいけない。

 

4.社会には隙間や余剰が必要だ

 

 リスクを完全に0にすることはできない。0に近づけようと思ったら、あらゆるリスクの隙間を埋めるためにかかる費用が天文学的なものとなる。また、リスクがあることに過剰反応して「リスク潰し」を名目に他者への過度の干渉や暴力がなされてしまう。自分も攻撃対象となるおそれから怯えながら生活することになる。安全や安心を過剰にもとめると、逆に安全や安心が損なわれる。何も行動ができなくなり、生活もままならなくなる。社会も回らなくなる。社会は多少のリスクを内包することで成り立っている。ある程度のリスクがある事で社会は張り合い(エロス)を持つことも無視できない。

 

 社会は隙間や余剰によって成り立っている。そこに人々の営みがある。外出が制限されている今、あえて外出をしている人を見るとどんな人が街を必要としているのかが分かるかもしれない。そこに、社会を底で支える「溜め」が見えるのかもしれない。

トーン・ポリシングについて

 

【目次】

 

 

1.トーン・ポリシングとはマイノリティ封じ込めの手段

 

社会問題や権利要求について発言をすると、発言した内容自体への反論ではなく、相手の態度や立場をつつくことで、相手の主張をおさえこみ無効化させようとする人がいる。こういうやり方はトーン・ポリシングと呼ばれる。

 

女性や障害者、セクシャル・マイノリティ、在日外国人、生活困窮者といったマイノリティ属性にある人が権利の主張、差別の告発などをおこなう時に、「そんな言い方じゃ誰にも聞いてもらえないよ」などと言って、その人たちの態度をつつくことで主張を封じ込めようとする。「マジョリティの人たちの機嫌を損ねるようなやり方をするな」と言うような感じで、マイノリティは礼儀正しく謙虚であればその主張を聞いてあげようという上から見たような言い方をする(でも、結局は言い分を聞いてくれそうにないと思う)。しかし、マイノリティにかかる不利益やこうむっている差別について今まで声が出てきたのに、その声が聞かれなかったり封じ込められたりしてきた。だから、多少口調が荒くなったり怒っているのである。そこでは、丁寧に言ったり温和に受け答えしても、無視したりつけ上がることをマジョリティがしてきたという経緯もあるだろう。マジョリティはマイノリティの主張に対して聞く耳をもたない態度をとりやすい立場にある。そうであるがゆえに、いくらマイノリティの側が説明をしたところで理解しようともしない場合がある。マイノリティは自分たちが踏まれてきて名誉を傷つけられてきた事に対して、どういう点が問題であり、どういう点で差別になるかを言語化して説明するためのコストをかけさせられてきた。言語化には知識と能力が必要とされる。立場の弱いマイノリティが追い打ちをかけられるように言語化や忍従のコストがかかっている現実がある。

 

2.トーン・ポリシングの類型

トーン・ポリシングの目的は、ひとえに相手の主張を封じ込めることにある。そのため、この目的にために、相手の態度・立場・弱み・ミスなどあらゆる点を足払いのチャンスとする。トーン・ポリシングは日常の人間関係に溢れている。以下は、代表的なトーン・ポリシングのやり方である。

 

①相手の態度に対する攻撃

②相手の立場に対する攻撃

③違う話題をぶつけることで相手を封じ込める

 

 ※③は【ワット・アバウティズム】と呼ばれるそう。私は【わんこそば論法】と読んでいる。

 

①相手の態度に対する攻撃

 

「そんな言い方じゃ聞いてもらええない」

「態度がなってない」

「不真面目だったら何を言ってもダメだ」

 

などなど

 

 

②相手の立場に対する攻撃

 

「子供のくせに生意気だ」

「学生なのに一丁前のことを言うな」

「新入社員のくせに偉そうだ」

「引きこもりで親のスネをかじっているのに生意気だ」

 

などなど

 

 

③違う話題をぶつけることで相手を封じ込める

 

こちらが、Aの主張をすることに対して、「Bについては言わないのか?」などと言って、こちらの主張を無効化させようという魂胆がある。その人は、Bについて積極的に何かをしたいわけではなく、ただこちらの主張を無効化する目的でBを利用している場合が多い。今はAについて話しているのにBについて持ち出す必要はあるのか??。Bについて関心があるなら自分が率先してやればよいのに、Aを話題にしている人になぜわざわざ迫ってくるのか??。難癖を付けて口を塞ぎたいだけだからだろう。

 

【例】慰安婦問題

日本の植民地支配における従軍慰安婦問題(A)を話題にしている際に、韓国軍もベトナムで強姦をしていたという話(B)をしてくる人がよくいる。これは、韓国のおこなった非道を持ち出して、日本の戦時性暴力の責任を曖昧にしようという意図がある。日本も韓国もどっちもどっち、戦時における性暴力は仕方ない、という方向にもっていくために言われる。こういう人たちは別に戦時性暴力を告発することが目的ではなく、ただ日本の加害責任をないことにしたいだけである。

 

 

3.私の受けたトーン・ポリシング

まず、私は実家ぐらしの引きこもり(少し働いてる)であり親の世話になっている。この立場について、「ぬるま湯にいるから何言っても説得力ない」と言われたり、「自立できないくせに大きな事ぬかすな」とか言われたりする。これは②の【立場に対する攻撃】である。こちらの言ってる事を無化するために立場をつつくのである。

 

また、2020年1月31日に路上で「最低賃金を1500円に上げよう」というアピールをおこなった。その際に、通りがかりのおっさんが突っかかってきて、「お前、そんなことよりもビニール袋削減のことやれよ」と何度も言ってきた。その、おっさんに対して「そんなに声高に言うなら、ご自身でやったらどうですか?」と言ったのだけど、ちゃんと応えない。ええかげんうるさいので、「もうええわ、あっちいけよ!」と追い払った。そしたらおっさんは、「お前、そんな態度やったら結果出えへんぞ」と言い放って去っていった。ここでは、③の【違う話題をぶつけることで相手を封じ込める】ことと、①の【態度に対する攻撃】の両方をやられたわけである。こういうのは、ネットでもよく見る典型的なトンポリだったので打ち返せた。素直に立ち去ってくれたのがよかったが(笑)。トンポリ野郎は迷惑ですね〜〜

 

4.トーン・ポリシングはなぜおこなわれるか?

「権利の主張」を「目上の人へのお願い」と勘違いしているからである。権利の主張はマイノリティのマジョリティに対するお伺いという見方が支配しているから、権利の主張者に対して低姿勢や誠実さを求めてくるのである。だから、マイノリティが「権利を保障しろ」と声をあげた時に、マジョリティは「それが人にお願いする態度か?」と言わんばかりの高圧的な姿勢をとるのである。「権利の主張」は「お願い」ではない。権利の主張とは「本来あるべきものが奪われているから、それを保障しろ」と言っているだけなのである。マジョリティは当然のように享受している権利をマイノリティが主張すると、あたかもマイノリティがマジョリティを脅かすことであるような図式で語られがちだ。しかし、マイノリティが求めているものはマジョリティとの対等な関係である。マジョリティ中心の社会システムにおいて割を食わされ権利を奪われてきたマイノリティがその立場上のマイナス(−)をマジョリティと同じ地平(±0)にしろと言っているだけである。特権=プラス(+)を求めているわけではないのである。

 

 

というわけで、トンポリ野郎に何か言われたら、「その話は、今関係ないですよね」とか、「それは、立場とか関係ありますか?」と言ってバイバイしましょう〜〜

生存権の保障【労働システムの脱・家族主義】

1.日本の最低賃金生存権を保障しない水準

 

 国連から2013年に日本の最低賃金は「最低生存水準および生活保護水準を下回っている」と勧告されている。2019年度における最低賃金は東京が1013円、最低は沖縄など790円である。全国加重平均は901円となっている。

 

厚生労働省:地域別最低賃金の全国一覧】

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/minimumichiran/

 

 全労連が2017年におこなった最低生活費の調査によると、25歳単身者がいわゆる普通の暮らしをするには税込み月収で22万〜24万円が必要であるという。最低生活費は都市部と地方であまり差はない(地方は家賃が安いが、自家用車が必要であり冬の暖房費などがかさむ)。この最低生活費を維持するには173.8時間労働(参考:8時間×22日=176時間)だと時給1300〜1400円相当の賃金が必要だという。つまり、現行の最低賃金は最低生活費(生存権)すらも保障しない水準となっている。また、都市と地方で最低生活費があまり変わらないにもかかわらず、最低賃金に大きな差があることで都市と地方の生活格差を生んでいる。

 

www.rengo-news-agency.com

 

 

2.非正規労働者の賃金が低いのは世帯主男性に養ってもらうことを前提とした水準に設定されているから

 

 日本の最低賃金はなぜ生存権を保障しない水準に設定されているのか。それは、日本の賃金体系が家族単位の発想から設計されていることが大きな原因である。パートやアルバイトなど非正規労働者の賃金が最賃レベルで低水準なのは世帯主(男性)に扶養してもらうことを前提としているからである。一方、世帯主となる者は年功制度の正規雇用として家族を養う水準の比較的高額の賃金が支給される(最近は、正規雇用者でも手取り10万円台などの「名ばかり正規職」も多くなっているが)。つまり、家族単位の賃金体系のもとでは、正規雇用者である世帯主が家族を扶養する水準の給与を得るが、世帯主に養われる配偶者や子どもは経済的自立することを想定されず低水準の賃金でも構わないということになる。男性に正規労働者(基幹労働者)が多く、女性に非正規労働者(パート、補助的労働)が多いのも、このような「男=養う者、女=養われる者」というジェンダーロールが根強いためである。

 

 

3.家族賃金制は性差別を生んでいる

 

 年功制度のもとでは終身雇用が前提とされていて勤続年数に応じて賃金は上昇する。しかし、その上昇の仕方も社内でのポジション如何で変わるので、昇進のために常に出世競争をしなければいけない。社内で昇進するためには上司から評価を得なければいかず、会社への貢献度を示すために長時間労働を厭わなかったり、上司や同僚との関係を良好に保つために酒や食事などの付き合いをするなど、一日の大半の時間を仕事と仕事上の付き合いに費やす会社人間となる。このような長時間労働が可能になるのは、家事・育児をすべてしてくれる配偶者(妻)がいるからである。つまり、日本企業の年功制度自体が「男=仕事人間/女=主婦」というジェンダーロールをもとにつくられており、男性を経済的優位にして女性を無償労働や低賃金労働においやる性差別を生み出している。一家の大黒柱となる男性は家族を養わなければならず、会社からクビにならないよう会社に尽くさなければならない。残業や転勤にも応じなければならない。男性が結婚し、子どもができると、住宅費や教育費が増えてくるので、それに合わせて昇給がおこなわれるのが年功システムである。若いうちは低水準の給料に抑えるが、年をとり昇進すると相対的に高賃金がもらえ退職金ももらえる。このように将来の高い利得をエサとして労働者を企業に縛り付けておくのが家族主義に基づく日本の年功システムなのである。

 

*日本型雇用システムと性差別の関係については前回のブログ記事を参照。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.年功制に基づく各種手当ても家族単位となっている

 

 扶養すべき家族がいる者に加算する「家族手当、扶養手当」といった手当も、同一労働をしているのにシングルには不利になっている。住宅手当も世帯主に多く支払われたり、既婚者が優遇される傾向にある。社宅が借りられるのも世帯主に限られており収入の低い女性はアクセスができない。企業が福祉の機能を果たしており、それも標準家族(男女のカップルとその間の子)をつくる者だけが恩恵を得られるものとなっている。本来は国家が保障すべき福祉が企業に丸投げされている状態でもある。企業が正規労働者を削減し非正規労働者を増やすことは、労働者に家族をつくるなと言っているのに等しい。このような新自由主義による雇用崩壊を放置したまま、結婚して子どもを産み育てよと促しても無理なのである。

 

 

5.賃金体系を年功システム(家族単位)から同一価値労働同一賃金システム(個人単位)へ

 

 長時間労働が家族単位の発想に基づく働かせ方そのものである。長時間労働者は家事・育児をする暇がないので、配偶者にそれらを任せなければならず、家事提供者としての配偶者を主婦やパート主婦という経済的に弱い立場においやっている。主婦パートやアルバイトがあまりにも低賃金であり生存権が保障されていないため、彼・彼女らを扶養する世帯主が多く稼がなければならず長時間労働を迫られるという構図がある。パートやアルバイトなど非正規雇用者も経済的自立できるように最低賃金を上げることが世帯主の労働時間短縮にもつながり、家事や育児などの負担の平等化にもつながりジェンダーフリーに近づくことになる。

 

 さらに、正規雇用と非正規雇用の間の差別をなくすためにも、年功=家族賃金制度(職務とは関係なく家族を養う水準の賃金を与える)に基づく賃金システムを改め、同一価値労働同一賃金(実際の仕事の質や量に見合った賃金)にすべきである。パートやアルバイトを「労働時間の短い正規労働者」とみなす方向にする。賃金を上げ短時間労働でも経済的自立ができるようにすべきである。経済的自立ができる水準にするためには賃金体系が家族単位ではなく個人単位とならなければならない。生存権の保障のためには労働システムにおける脱・家族主義を進めなければいけない。

 

 

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このブログにおける労働システムの脱・家族主義(=個人単位化)については、伊田広之さんの『シングル単位の社会論』(世界思想社)や『はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店)を参考にしました。

性差別と生存権

 生存権の保障は経済基盤が脆弱になりやすい女性にこそ求められる。資本主義のシステムにおいては女性が不利な立場におかれる。労働がジェンダー化されており女性を低賃金・構造的劣位の地位に押し留めている。このため女性が経済力をもつのが難しく、女性が男性に経済的に依存する状況がなかば強制され女性が自立できなくなる。生存権の保障により個人の経済的自立を達成することで他者への従属が排除され、個人の自由が確保される。生存権に基づく生活保障がなされることが性差別の解消に寄与する。

 

・女性の仕事は安くてキツイ

 

 育児(保育)・介護・看護など女性ジェンダーがつきまとう労働は賃金が低く抑えられる。女性が担う労働とみなされているがゆえに賃金が低いのである。これらの仕事は家事や育児など無償労働の延長として見られ二流労働として扱われる。ケアは女性が無償で提供すべきというジェンダーロールがあるため、それらを労働化したら安価になってしまうのである。保育士資格をもつが実際に保育士として働いている人は5割程度である。安すぎる給与水準であるにもかかわらず重責を任されるなど労働条件が悪いため保育士の就業希望者が少ないのだという。待機児童問題は保育士不足が大きな原因であるが、保育士の労働条件が悪いという職業におけるジェンダー差別が保育士不足をもたらしているのである。介護士不足も同様に低賃金問題に起因している。

 

・キャリア女性も困難である

 

 男女雇用機会均等法の成立以後に、女性にも総合職という働き方が広がるようになった。それまでは企業に入社する女性は男性社員を和ませる「職場の華」という位置づけであり、男性社員の花嫁候補であった。女性が企業の中でキャリアを積むことは念頭に置かれてなかったのである。女性にとってもOLという立場は結婚までの腰掛けとして機能していた面もある。均等法の成立以後、女性にもキャリア社員となる道が開かれたが、女性社員は男性並みの働きぶりを期待されつつも女性として男性社員に気配りする能力も求められる。女性社員を男性社員の補助的な立場におしとどめるジェンダーロールも根強い。まだまだガラスの天井は分厚く、女性が企業の重要ポストに就く機会は十分に開かれてない。育児・家事が女性に求められるジェンダーロールは根強く女性は育児などに時間を取られて男性社員並に働けない現実もある。

 

 そもそも、総合職は男性に有利な働き方である。総合職=年功システムとは家族主義(=性別役割分業的な発想)に基づく雇用形態である。年功システムは家族賃金制を採用しており、給与取得者が家族全員を養うことを前提に給与水準が設定されている。比較的高い給与を得られるかわりに一日のほぼ全ての時間を労働に費やすことを求められる。このような仕事一辺倒の働き方は労働者のケアや家事を担う配偶者の存在を前提としている。男性は仕事/女性は家事というジェンダーロールがまだ強い中、総合職社員には男性が多くなり、総合職男性の妻となった女性は家庭に入り家事・育児の担い手となる。総合職的な働かせ方とは企業のために生活の全ての時間を捧げる男性と、その男性を家事によって支える女性の存在がいることで成り立っている。女性が総合職となり男性社員と伍して働こうとしても、妻が何でも世話してくれる男性社員と同様には働きにくい。総合職は男性優位の働かせ方であり、女性が勝ち残れない仕組みとなっている。このため、女性は働き続けることへの意志を冷却させられ結婚することに希望を見出すのである。女性の専業主婦志望者は現代でも多いのである。

 

 家族において「夫が仕事/妻が家庭」という役割分担となっても夫婦で話し合って決めたのならば民主的だと言えるだろうか?否である。男女の賃金格差が大きく、企業における昇進システムも男性優位になっており、職場環境やビジネス慣行は男性的にできており、女性が働くには不利である。女性が男性集団の中で働くことで感じる居心地の悪さ、女性ということで見くびられたりセクハラを受けること、妊娠中や育児中における女性の働きにくさと周りの無理解や嫌がらせ、などなど労働において女性の置かれる条件は悪い。結婚をする際に男女のどちらが離職するかとなると女性が働き続けるより男性が働き続けたほうが経済的なメリットとなるため、大抵は女性が職をやめ家庭に入ることになる。社会における性差別構造によって性役割分業(男は仕事/女は家)が強制されている。民主的な家族というのは幻想である。

 

生存権の保障は支配/従属の関係からの解放をもたらす

 

 以上、述べたようにジェンダー化された労働システムにおいては女性が不利になる。そもそも資本主義というシステム自体が本質的に女性差別を生み出すのである。「生む体」をもつ女性は労働生産性において不利であり二流労働者の地位に陥りやすい。資本主義の中で男女が非対称的な労働者となり、ジェンダー構造上不利な立場におかれる女性は貧困に陥りやすい。貧困になり経済的自立ができない者は誰かの経済力に依存せざるを得ない。ここに、経済的に弱い女性が経済力のある男性に依存・従属する仕組みができあがる。つまり、結婚が女性にとっての生活保障として機能しているのである。結婚して家庭内暴力などが起きてもすぐに離婚ができないのも女性が経済的自立しにくく福祉など生活保障(生存権保障)が乏しいからである。このような性差別構造がある中での結婚システムは男性に女性を従属させるように機能している。

 

 貧困は自立の妨げになる。経済的な自立ができないことで誰かの経済力に依存せざるを得ないからである。経済力の格差は権力勾配を生み出す。養う/養われるという関係は支配/従属の関係を生み出す。生存権の保障はこのような支配/従属の関係を解消する。つまり、自由が保障されるようになる。

 

 日本における社会保障は個人単位ではなく家族単位でなされ、一人一人が経済的に自立することを目指すのではなく家族単位で経済的に充足していればよいという発想である。この発想では家族の中の個人の貧困が見逃されてしまうし、問題化もされない。実家ぐらしの引きこもりやフリーター、経済的ネグレクト、主婦の困窮などは家族単位発想により問題化されない貧困である。特に主婦の貧困・孤立については結婚しているから問題ないとみなされている。個人単位発想に基づく生存権の保障こそが求められる。

能力主義(近代合理主義)を問う

1.能力主義による序列づけの正当化

 

 出自やジェンダーなど属性によって人の間に序列をつけることは差別として非難される。しかし、能力については、それが劣ると本人の落ち度として責を問われてしまう。能力というものは本人の努力によって変えられると思われており、それが変えられないのは本人が努力を怠っているからだと非難が正当化されてしまう。才能があり努力をして能力をつけた者が上に立ち、能力のない者は下に甘んじる。人を価値づける最大の基準が能力であり能力による序列づけは正当化される。

 

 我々が一般的に評価する能力とは、今の資本主義システムや差別的秩序の中でうまく立ち回ることができる能力である。勉強ができる/スポーツができる/文化的素養がある/仕事ができる/コミュニケーション能力、などである。それらもパターン=型が限られる。多様性がないのだ。さらに、世の中でうまく立ち回ることができる能力というものは時代や地域の文化によっても変わる。求められる能力とは今の社会の価値体系を表すものである。今で言ったらホリエモン的な自己責任論的な価値体系に基づく能力が求められのだ。それはマジョリティにとって有利な価値体系なのである。そのような能力を信奉することで主流の価値体系を強めてしまいマジョリティをますます有利に、マイノリティをますます生きづらくする。

 

 自己責任論は能力主義にもとづく。能力のない者は努力のできない落伍者としてスティグマを貼られ、生存も脅かされ人としての尊重もされにくい。事実、生活保護の給付水準は低く人が人らしく生きることを保障していない。福祉の給付水準は最底辺の労働者の生活水準よりも低く抑えるべきという「劣等処遇の原則」が未だにまかり通っている。福祉を受けるにあたって剥奪される権利も多く、プライバシーは侵害され世間からの非難がなされる。

 

 能力主義は近代において強まった。前近代では出自や身分により本人の生き方は決まっていた。職業選択の自由もなかった。農民の子は農民として生き、商人の子は商人として生きることが決まっていた。生まれた村の共同体に属し、村の成員としての立場を生き、村の中で生涯を終えた。そのような前近代の時代には、いかに能力をつけても階層や共同体の越境ができない(インドなどカースト制が残る国もまだある)。しかし、近代に入ると個人のライフコースは出自や身分で決まるのではなく個人の能力により作り出すものとされる。能力主義封建社会を脱却するための革新的な考えとなった。能力がある者は階層を上昇させ、逆に能力が無い者は階層の下位に甘んじなければいけないという発想から格差が肯定されるのである。

 

2.「意志の力」の信奉

 

 能力主義は「意志の力」の信奉に基づく。近代社会が想定している個人とは、選択の自由がある中で自ら意志をもち自己決定する主体というものである。近代主義のもと意志をもち努力をして有用な成果をあげるという考えが支配する。自分の運命は自分の意志で切り開くという観念が強まり、立身出世の考えが支配した。その裏返しとして不運で不本意な人生をおくるのは努力が足りない=意志の力が弱いからだという非難が正当化される。意志によって自己決定をして自らの生き方をよいものにできるという観念は、よい生き方ができないのはしっかりとした意志をもたないからだと生きづらさを個人の内面の問題に還元させる。

 

 しかし、確固たる意志というものは万人に期待できるのだろうか?意志の力はもろい。意志の力で何事もできるのならば、みなダイエットに成功しているはずである。依存症においては意志の力というのは否定されている。薬物依存になり厳しい刑罰を受けても薬物を手放せない人もいる。アルコール依存症と診断を受けても断酒を続けられる者はわずかである。酒をやめなければならないと思っていても、ついつい酒に手が伸びてしまう。

 

 近代における自立した個人を特徴づける「意志の力」は疑問にさらされているという。自らの意志でやるor誰かにやらされるという能動/受動ともきれいに判別しがたい行為を私たちは日々おこなっており、『中動態』という概念が哲学者の國分功一郎さんにより提示されている。

 

「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志”の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志”の存在を前提とした“常識”が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」(引用記事)

 

https://bunshun.jp/articles/-/2461?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink

 

 

3.中道態のススメ

 

 自らの意志で主体的に何らかの行為をしている【能動】の状態ではなく、さりとて、他者から何かをやらされている【受動】という状態でもない、何かに取りさらわれる感覚で無意識的に行為をおこなっているという【中動=能動とも受動とも判別つけがたい】の状態において、人が人らしく快をもって生きられるという考えもある。

 

 依存症治療においてもこのようなアプローチが採用されている。アルコール依存症者の断酒も、酒をやめようと前のめりのなるのでもなく、人から強く酒をやめるように言われて断酒をするのでもなく、何となく気がついたら断酒が継続したという状況が多いのではないろうか。

 

 人は何かを為さなければと躍起になったり、人から命令されたり、何かをせざるを得ない状況に追い込まれたら抑圧を感じる。能動や受動により人は自由から疎外されているともいえる。自分が無意識のうちに何かに夢中になる(=とりさらわれる)空間や状況に自分が置かれることで、人は時を忘れるように何かに集中したり気づいたら何かをやっていることがある。それは、勉強でも趣味でも芸術鑑賞でも、いろんな場面で生じる。意志の力に裏切られた者の居場所は中動態的な世界にあるのではないだろうか。

 

 人は思い通りに動けない。図らずして不遇になってしまうこともある。意志の力を前提とする近代合理主義に基づく社会システムも見直されるべきである。

 

 

◆ 能力主義について続編も書きました。

 

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