生きるための自由研究

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能力主義を問う(2)

 

 能力主義が強調されると社会の不公正が問いにくくなる問題を指摘する。新自由主義の競争主義によって、貧困に陥るのは能力がないからだという語りがなされやすい。この発想からは、貧困化しないためには個人の能力をつけさせようという能力主義的な解決が目指されやすい。しかし、貧困は構造的な差別が生み出しており、能力主義が強調されることでかえって差別の問題が問いにくくなる。貧困問題は再分配の問題であるが、能力の問題にすり替えられてしまっている。また、「能力」のつけやすさにも格差があり、社会的弱者やマイノリティほど構造的差別で不利になることを指摘する。

 

 

【目次】

 

 

1.能力主義が社会の不公正を問いにくくする

 

 新自由主義では市場原理が強調され、貧困に陥るのはその人に市場価値が無いからだと能力の問題とされやすい。しかし、能力をつけろと言われても、能力をつけても最低賃金を上げなくては安く買い叩かれるままとなる。低すぎる最低賃金こそ企業が労働者を安く雇うことを正当化しているからだ(非正規は昇給すらしない所が多い)。賃金があまりにも安いことや、生存保障が不十分であるために貧困が生じている構造的問題が、能力主義を持ち出されることで問えなくなっている。最低賃金の低さを指摘せず能力主義だけ煽るのは、資本の搾取を正当化するロジックにはまることになる。

 

 新自由主義により能力主義が都合よく本質化されている問題がある。以前も指摘した通り、最低賃金が低すぎるのはジェンダー差別に起因する。女性は男性に養われるから賃金が安くてもいいという発想が、最低賃金を低く押さえているのである。最低賃金が低いことや生存権保障がないことは、個人の能力の問題ではなく家族主義に基づくジェンダー差別の問題である。つまり、差別が貧困を生んでいる。能力主義が貧困の本質的原因とすると差別構造が問えなくなる資本のトリックがある。ジェンダー差別の問題を個人の能力の問題にすり替えて、自己責任化するのが新自由主義で浸透している能力神話である。

 

 LGBTQ、外国人といったマイノリティ属性にいる人たちは、スティグマや制度によって不利になっている。そのため、主流社会でうまくやっていくには不利な立場を押し返す労力が求められる。能力や経済力のあるマイノリティは社会の表舞台に立ちやすいが、それは、必ずしもマイノリティ属性そのものの地位が上がったわけではなく、能力や経済力が評価される状態にとどまる事もある。マイノリティのもつハンディを能力や経済力で代替する能力主義的な発想の差別解消に向かいやすくもなる。つまり、能力主義によって差別構造がうやむやにされやすくなるやっかいな問題がある。

 

 

 

※このブログで何度も繰り返して言っていてしつこいのが、貧困問題は家族単位のシステムが生んでおり、貧困問題の解消には個人単位のシステムにすることが前提である。

 

【当該記事】

  

nagne929.hatenablog.com

 

 

2.見かけ上の自由が差別を問いにくくする

 

 「職業選択の自由」において個人の自由が保障されているように見えるが、内実は不平等である。タテマエは大事なのだが、タテマエだけ自由であるだけでは、かえって不平等が問われにくくなる問題がある。労働者がひどい労働条件に置かれても、ひどい労働環境を選んだのは個人の選択の責任(判断ミス)とされやすい。つまり、「選択の自由」が不正を問いにくくさせている。低賃金の労働をしている人に、「能力をつけたらいい条件の仕事が見つかる」と能力主義的な解決を求めるのは、構造的な不平等を等閑視させる効果をもつ。イス取りゲームの発想では全員の生活水準はよくならず、誰かが必ず貧困に陥ることを正当化する。貧困を前提としているシステムは差別そのものだといえる。能力主義に基づく自己選択の責任という考えが、自分が能力をつけるだけの見せかけの問題解決に向かいやすく、構造的な不平等が問いにくくなる問題がある。

 

 

3.ケイパビリティの欠如が「自由な選択」を阻害している

 

 ケイパビリティが不足しているマイノリティや経済的弱者は自由な意思決定がしにくい。何かをなすための能力や経済力、人的資源が乏しいために現実的にとれる選択が限られてくる。他者との関係や状況によっては自分に不利になる行動をしなければいけない。例えば、学校に行って教育を受け、専門性を身につけて就職する方が経済的には安定しやすい。しかし、経済力に余裕がない、精神的な余裕がない、あるいは能力を活かせる場がないなどの問題で、目先の安定を優先し時給1000円くらいのバイトでしのいでくことになる。生涯年収を考えると、学歴や職務能力をつけ働くほうが圧倒的に高くなるののだが、いろいろな事情が重なり合理的な行動がとりにくくなる。これは、本人の意志や能力の問題だけではなく、ケイパビリティの問題が大きい。ケイパビリティの格差により「自由な選択」が保障されにくい現実を見ると、不本意な結果に対して本人がすべて甘受すべきという自己責任論は成立しなくなる。

 

 社会的な立場が強く選択肢が多い人は「自由な選択」がしやすいが、弱い立場の人には「自由な選択」がないという構造的な非対称性がある。この構造的非対称性が等閑視されたまま、リベラリズム的発想による「自由な選択」が強調されると、選択と決定において不利なマイノリティの脆弱性に目が届かなくなる。「自由な選択」による結果責任は、構造的な差別とリソースの偏り(格差)が是正されない段階では、本人に全的に帰すことはできない。

 

4.主流秩序の価値体系が最適行動をとれなくさせている

 

 また、主流の価値観や世間からの目線を気にして、自分の意志とは異なる行動をとり、結果自分をさらに不利にしてしまうこともある。あるいは、主流秩序の価値を内面化してしまい、能力主義的な行動をとることでかえって状況を悪化させることがある。あるシンポジウムで困窮者支援に携わる人の話を聞いたのだが、路上生活者が体を悪くしても「医療にかかるのは恥」という自己責任論をもっていると、支援者がすすめても医療機関に行かずにさらに体を悪化させてしまうこともあるという。自助神話は自助に結びつかない弊害がある。

 

 困窮したり自由が奪われると、次第に自分の欲望が分からなくなっていく。そうすると、自分の意志を持ちにくくなり、判断・決定する能力も衰えていく。このため、被抑圧者(=マイノリティ)ほどマジョリティの意思決定に振り回されやすくなる。生存権が保障されていないことで、マイノリティの主体性が奪われていく。社会的弱者は物質的なリソースが不足しているため取れる選択が限られていることと(物質的欠乏)、主流の考え方に抑圧され自分の欲望に従った行動が取りにくい(精神的支配)という二重の差別を受けている。経済力や能力の問題だけでなく、弱者を低い位置に留めおこうとする主流秩序の価値体系そのものも突いていかなければならない。

 

 

◆◇◆関連記事◆◇◆

① 意志の力だけではうまくいかない事について

 近代合理主義の発想により自己責任論が正当化されがちであるが、人は必ずしも自由な意志と自己決定で能力形成ができるわけでないことを指摘した。

 

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② 社会的弱者やマイノリティが這い上がれない構造的問題について

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