二流エリートと自尊感情
日本は海外に比べて大学院修了生が少ないとされるが、日本の大学院生は修了してもなかなかいいポストに就けないし、私のように途中でバーンアウトして中退してしまう人もいる。
先進国を中心に教育期間(モラトリアム)が伸びている。韓国など兵役や留学、休学などをするので男子の学卒では30近くになることもある。
社会学者ブルデューは「教育年限の延長というものは、二流のエリートに自分の二流性を納得させるまでにかかる期間の長さである」(上野千鶴子、2008『サヨナラ 学校化社会』ちくま文庫、p.221)と皮肉なことを述べている。
私は自分の二流性を認めるまでに11年もかかったことになる。
大学や大学院は、二流エリートがもっている潜在的能力なりエネルギーを、反社会的行動に誘導しないための装置として機能している(前掲書、p.222)。
二流エリートは歴史的に支配的エリートに対抗する勢力として体制を脅かしてきた。戦前は共産党や労組の幹部も帝大出身であった。オウム真理教なども高学歴の信者が多かった。
他人からサリンをまけと言われたら、他人から認められるためにサリンをまいた。
自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない従属的な意識は、学校で叩き込まれてきた習い性のようなもの(前掲書「、p.224)。
体制に対抗する二流エリートも学校化社会の価値観から自由ではなかったということだ。
他人の価値を内面化せず、自分で自分で受けいれることを「自尊感情」という(前掲書、p.224)。
他人から尊重された経験がない人は自尊感情をもてない。学校は劣位者の自尊感情を
奪うだけでなく、優位者にも何らかの目的のために役に立たなければならないという強迫観念を植え付け自尊感情を奪っていく。
上野千鶴子は、自分が二流エリートであることを受けいれたうえで、競争から降りた若者たちとして「だめ連」を挙げる。
★だめ連★
1992年に活動開始。もてない、職がない、金がない・・・など「だめ」を自認する人が集まり、孤立して「だめ」をこじらせないように傷を舐めあう交流会。
学校行かなくてもいいじゃないか、就職しなくてもいいじゃないか、結婚しなくてもいいじゃないか、ダメでいいじゃないか・・・
二流エリートがオウム真理教などに入信してマジメに反社会的行動をするよりも、「終わりなき日常」(宮台真司)をまったり過ごすのがいい。
だめ連の人たちは早すぎる老後を生きているのだと(前掲書、p.228)。将来のために現代を犠牲にして暮らすよりも、いま・ここ大切に生きようということである。
これは、前にミヒャエル・エンデの『モモ』の書評でも書いたことだ。
二流エリートは自分の二流性をこじらせないために、競争の風圧から逃れ静かに暮らせたらいいのだ。他人の評価を気にしない自尊感情を育てるトレーニングをしなければいけない。