生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

即席の居場所をつくる:遊動型アジール

 

【目次】

 

 

1.居場所とは「自立」ができる空間

 

 この社会での人間関係は生産性の論理に支配されている。学校では学力やスポーツ能力、教室で上手く立ち回るスキルなどが求められる。これらの能力による序列づけがスクール・カーストとなり、学生は序列の下位にいかないように能力をつけることに必死になる。仕事では職務能力に加え、組織で上手くやる能力、コミュニケーション能力などが求められる。学校や仕事といった公的領域において評価されなければ家庭という私的領域(=親密圏)でも居場所を失う。自分の立場を失わないために生活のいたるところで自分の有用性を示さなければならず気が休まらない。社会全体が評価原理で覆われていて人の存在そのものが尊重される空間がない。人は生産性の論理に従属することでしか自分の価値を示せなくなっている。つまり、生産性の論理が支配している限り、人は「自立」ができない。

 

 「自立」というのを「支配されていない状態」と捉えたい。「自由」とも言い替えられる。「自立」の反対が、規範や評価原理に支配された「従属」の状態である。「自立」を困難にしているのは個人の能力の問題ではなく、人をある基準により序列づけようとする主流秩序の仕組みである。主流秩序では学力、地位、経済力、ルックス、モテ力、コミュ力など人のあらゆるパラメータが資本の論理で序列づけられる。ランク付けの発想が支配する社会では、人は誰かの上でいることでしか自己の価値を示すことができず、誰かを蹴落としたりディスったりすることを平気でやってしまう。

 

 資本の論理が支配する社会では人の存在が無条件には肯定されず否定されることがデフォルトになる。そのため、社会で下位に置かやすいマイノリティや経済的弱者が常に踏みつけられ自尊感情まで奪われる。その秩序のあり方を変革する試みをしつつも、その秩序の風圧から逃れられる空間も必要になる。評価原理に侵されていない空間において、はじめて人は「自立」ができる。そのようなアジール(=避難所)の重要性を提言することは可能だが実際に作り出すのは難しい。だから、居場所つくりなどが手こずっている。

 

 

2.資本の論理から離れたくて人は居場所を求める

 

 資本の論理から離れた居場所は宗教共同体が担うことが多い。アメリカや韓国など日本よりも新自由主義が強く競争が激しい社会では、キリスト教がバッファーとなっていることで社会がパンクせずに回っている。日常から離れる非日常の空間が宗教的空間となっている。そのような後ろ盾があるから日常でも戦える。逆に宗教ネットワークに属さない人は不利になりやすい。日本では村落社会が近代化によって崩れ、都市に流れた人々は寄る辺を失う。この孤立感を埋めるように創価学会などの新興宗教が発展した。また、資本主義的な価値観を否定するヤマギシ共同体なども生まれた。このように寄る辺のない人や主流秩序で疎外される人々を吸収する形で宗教共同体は成り立った。しかし、オウム真理教サリン事件が起こると日本では宗教に対して悪いイメージがもたれるようになった。金儲けや権力に走る宗教団体もある。宗教は教義を共有することで成り立つ空間であるから、必ずしも生きづらさや社会的価値を共有する場ではない。そのため、宗教によらず、生きづらさやマイノリティ属性を通した繋がりをつくることが志向されている。日本における居場所つくりの盛り上がりは宗教共同体の代替を求めるものなのかもしれない。

 

 

 しかし、当事者の居場所などでも人間関係によって問題が生じやすい。メンバーが対等な関係でいようとつとめても、能力や力関係によってだんだん関係性に傾きが生じやすい。マイノリティの中でも、さらにマイノリティの立場にある人が居場所を奪われやすい(例えば、ジェンダー/セクシャル・マイノリティの中における経済力格差やコミュ力格差など)。どのようなコミュニティも面倒な人間関係がつきものだ。主導権を握ろうとする人が現れたり、上下関係が生まれたり、陰口やいじめなど誰かを「いけにえ」にしてしまうなど(=スケープゴートの論理)。人が集まると群生論理が支配しやすい。人の価値は他者との差異により意味づけられ、その意味づけは資本の論理に支配されやすいため、人間関係は階層的な序列づけに傾きやすい。

 

 

3.遊動型アジール

 

 固定された人間関係だけで居場所をつくるだけでなく、偶然出会った人と一時を過ごして即席の居場所をつくる非日常の実践でも「生きづらさ」は低減されると思う。街で知らない人に話しかけて会話をしたり、旅やブラブラして非日常を経験するなど場当たり的なやり方である。子どもの道草を思い浮かべてほしいが、学校帰りに小川で遊んだり、小さな塀をよじ登ったり、道や空き地で何か見つけて興味を掻き立てられる経験はその場で非日常を作り出す行為といえる。既存の居場所が空間や人が固定された「定住型」とすれば、空間や人が常に変わる居場所は「遊動型」と言える。知らない人や普段会わない人とならば、損得や日常のしがらみを気にせず比較的自由でざっくばらんな会話ができたりする。知らない人とならば非日常モードをつくりやすい。このような、その場限りの非日常もアジールとなる。非日常を経験すると超絶がおこり、もとの日常に戻っても違う自分に生まれ変わっている。このような、ポイント・オブ・ノーリターンを繰り返し自己の更新をおこなう。非日常のアジールを連続させることで、資本の論理からズレた「主体」をつくり上げることができる。このように、オモテとウラの複数領域をまたがる存在となることで、オモテの世界をなりすまして生きることができる。それによって、生きづらさを低減させることができる。

 

 

4.わたしのアジールつくり

 

① 街でゆるそうな人に話しかける

 

 街でブラブラしてるおっちゃんに話しかけたら、たまに会話が続き色んな話を聞くことができて面白い。手持ち無沙汰で誰かと話したい人もいる。そういう人には話しかけたら喜ばれる。

 

* わたしの出会った変わったおっちゃんは4コマ劇場で描いてます。

 

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② 旅をして偶然の出会いを楽しむ

 

 旅をして景色を見たり名所に行くことも楽しいが、普段出会うことのない人と出会える楽しみもある。歩き旅や鉄道旅などで大きな荷物をもっていると、旅モードの非日常感が出て人から話しかけられやすくなる。旅人はその存在が非日常なのだ。旅人でなくても日常から離れた存在になると一期一会の出会いが生まれやすくなる。

 

③ 野外で何かする

 河原でコーヒーを沸かしたりお茶をつくると、その場が、自分のアジールになったような気がする。その場を自分の居場所とする。焚き火などもよいね。

 

 


河原で野外カフェ

 

 

④ 電車でアーレントの本を読んでたおっちゃんに話しかけてみた

 

 電車の座席に座っていると、向かい側に座っていたおっちゃんがアーレントの本を読んでいた。気になったから「アーレント読んでるんっすね?」と話しかけてみた。おっちゃんにはビックリされたが、わたしが「労働主義が全体主義に結びついてますね」などと自分の考えを話したらおっちゃんも同意してくれた。おっちゃんはシャイだったため、あまり会話は続かなかったが、その場でアーレント的な価値をもつ人と一時を過ごすことができたことに意味があると感じた。こういうのを「しょぼい現れの空間」と呼んでみたい。

 

⑤ 変わった格好や行動をしてスキをつくる

 

 わたしはしょぼい女装をしている。女装をするなど変わった格好をしていたらスキができて人が接近しやすくなる。いろんな人から話しかけられた。「あんた、なんやその格好は」とおっちゃんから絡まれワイワイ話したことが楽しかった。変わった人になれば今までとは違う世界が少し開けてくる。

 

 

・非日常にスピンアウトすることの意味を書いた記事

 

nagne929.hatenablog.com