生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

脱〈男らしさ〉のファッション

「男としての行動をやめたとき、僕は男でなくなるのだろうか?」(No.968)

 

クリスチャン・ザイデル(2015、長谷川圭翻訳)『女装して、一年間暮らしてみました。』(サンマーク出版Kindle番)を読んでみた。

 

 

女装して、一年間暮らしてみました。

女装して、一年間暮らしてみました。

 

 

 

 

私は、女装までは行かないが、綺麗で鮮やかな服を着たいし、華やかな外見になりたいという欲求があった。大学のサークルのメンバーで男の人で柄シャツや花柄の服を着ていてオシャレを楽しんでいる人がいていいなと思った。大学生時代は花柄の服や、ピンクやパープルなどカラフルな服を着ていた。

 

なお、大学院生になってからは服装の派手さは抑圧していた。卒業論文の研究でつまずきを感じてから、大学院時代におけるプレッシャーにより、うつ症状はじめ自己肯定感が一気に低下し、能力も何もないのに外見で目立ったことをしてはいけないという抑制が働いた。

 

目立ったことをして、叩かれたりしたくなかった。「出る杭は打たれる」が怖くなってしまった。

 

大学院生〜今までは地味でユニクロ的な服装であった。というか服装に全く気を使う余裕がなかった。

 

さて、最近はオシャレ欲求が高まり(笑)、以前のような派手な服は着れないが、鮮やかな服を着たいという思いが強い。

 

私は30歳過ぎているミニオッサンであるが、綺麗に見せたいという欲求がある。

 

男がこういうことを言うと気持ち悪がられるが、この「キモい」という反応については後に述べよう。ミソジニー女性嫌悪)が関係しているようである。

 

 

 

このクリスチャンの女装の本の簡潔な概要は以下(訳者あとがき、より)

 

 

男性が女性として生活したら、心に、体に、そして生活にどのような変化が生じるのか、男性と女性とのあいだの垣根は一般に思われているよりも低いのではないか、という個人的な考えをもとに、著者が自分自身の身体を使っておこなったおよそ一年間の実験

(No.3394)

 

 

 

クリスチャンの女装の始まりは、冷える足元を何とかしたいと、デパートで女性用ストッキングを恥ずかしさとためらいを感じながらも購入したことから始まる。

 

私もストッキングまでいかないが、レディースの服を買ったことがある。男性用よりも女性用の方が、色が鮮やかでかわいかったからだ。店員にどういう反応をされるか少しドキドキしてレジに持っていった記憶がある。

 

 

クリスチャンは女装をすることで、妻や友人から気持ち悪がられ、次第にみんな離れていったという。女性に見られ街で暴漢に襲われたこともあった。女装で窮屈さも感じたこともあったが、女らしくなることの快感もあったという。

 

男のファッションには多様性がない。服装は、軍隊や肉体労働由来のものが多く、カラーも目立たないものが多い。

 

私も女性のファッションは多様で、色合いも鮮やかなものが多く、女性のファッションコーナーをチラッと一瞥し羨ましく思うことがある。

 

クリスチャンは妻のマリアにストッキングを履いていることを告白したら、絶句されたそうだ。

 

 

「あなた、本気なの?」マリアは呆然としている。

ストッキングをはいた僕の足を目にしたとたん、彼女の表情は凍りついてしまった。これまで信じ切っていたもの、当たり前と思っていたものに裏切られた、そんな表情だ。

男は強く、たくましくてはならない。ナイロンのストッキングははいてはならない。男とはそういうものなのだ。それなのに……。(No.117-124)

 

 

 

妻のマリアは言う

 

「でもどうして、よりにもよって女性用下着なの?変態チックなことをしたければほかにも方法があったでしょ?」

 

「ホント、みっともないわ。あなた、男でしょ?」(No.142)

 

 

 

クリスチャンは以下のようになった。

 

だんだん腹が立ってきた。誰もわかってくれないだろうと予想はしていたが、予想どおりの言葉が返ってきた。

 

彼女は「変態」「目立ちたがり屋」と言った。ほんの少し普通とは違うことをしただけで、そんな言葉でレッテルを貼ろうとする。普通でないとレッテルを貼られた者は、ほかの人々から隔離される。そこに交流はない。社会から締め出され、忘れ去られる。マリアとの会話で僕が感じたのはそんな不安だった。すべてを失う怖さ。妻を、そしてそれ以上のものも。ストッキングをはいて、ただそれを告白しただけなのに。(No.148)

 

 

ストッキングが―初めは単なる思いつきだったが―僕のなかにある壁を打ち破った。自由を感じた。男として、いや、人としての自由を。(No.326)

 

 

クリスチャンの女装の実験はますます進む。化粧、ペディキュア、スカート、ハイヒール、メーキャップ、乳房などなど。

 

日を追うごとに、「社会における男女の役割」について考える時間が増えていった。考えれば考えるほど、“男の役割”が人工的で不自然なものに感じられる。能力、成績、評価。そうした言葉が、僕も含め男たちを縛りつけている。(No.326-332)

 

 

テレビ業界で働いていたことから、僕はいやと言うほど男の醜さを目の当たりにしてきた。

常に他の人よりも気の利いたコメントを発し、機知に富む(あるいはそう聞こえる)ジョークを飛ばさなければいけない。誰もが実際以上に自分を大きく見せようと必死だ。そういう男たちを見るたびに僕は「痛々しい」と感じていた。腐った友情を捨てられない男や、自分と違う意見をもつ相手はこてんぱんいやっつけなければ気がすまないやつらも同類だ。そんな連中とは距離を置きたいと願うようになった。(No.338-344)

 

 

 

男らしく振る舞うことに息苦しさを感じたクリスチャンは、女装を通して「男らしさ」を考えていった。女性となり、自由度の高いファッションや化粧をすることで、解放された気分を味わえたそうだ。私もBBクリームをぬって肌がスベスベになったときは、なんだかテンションが上り、思わず自撮りしてツイッターに載せてしまった。 

 

本書でも書かれていたが、男性が女性のような格好をすると、「気持ち悪い」や「変態」と言われることだ。

 

学生時代に赤いバラの柄シャツや、原色のカラフルなシャツを着ていたのであるが、そのような服装に引いたり、茶化したりするのは男性が多かったように記憶している。

 

女性からは、「似合っている」とか「綺麗だね」とか肯定的な声をかけてもらったことが多い。

 

これは、ホモソーシャルな男社会のありようと関係しているのだろう。女性らしい格好をした男が生きづらさを味わうのは、「男」という規格から外れて居場所がなくなるからだ。

 

男が男たちから「オンナ」、「ホモ」と言われることがいかに侮蔑的意味をもつかを私たちは経験している。ホモ・フォビア(同性愛嫌悪)である。

 

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

上野(2010)によると、男の値打ちは男同士の覇権争いで決まる。男に対する最大の評価は男から「デキる」と認められることにあるという。男は男同士の連帯から外れることを恐れる。それは、ファッションにおいても「男らしい」と認められる装いを強いられ、知らず知らずのうちに外的表現も抑圧される。

 

私にあるのは、ただただ、少し綺麗に見せたいという欲求である。

 

男はこういうファッションをすべきだという空気に抑圧されずに、自分の好きなように服を買ったりしていきたい(オッサンで、顔が不細工なのはゴメンナサイ)。