生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「変わった人」になる:しょぼい境界の攪乱

  

 J.バトラーの『ジェンダー・トラブル』をもとに、規範からズレた「変わった人」になり、「生」を拡張することを通して「自由」になっていく試みについて書いてみたい。バトラーの提示するアイデンティティの攪乱は、あらゆるマイノリティや社会的弱者が規範の縛りから抜け出す実践を後押ししてエンパワーするものになると心揺さぶられる。

 

・J.バトラー、『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社、1990=1999)

 

【目次】 

 

 

1.規範からズレることで「自立」する

 

 この社会はランク付けの発想に染まっている。学力、経済力、能力、立場、ジェンダーセクシャリティ、ルックス、コミュニケーション能力などで優劣をつける主流秩序のランク付け志向が、秩序に適合する特定の人々に特権を与え、それ以外の人々を序列下位に置き差別を正当化している。例えば、偏差値の高い大学に行き、大企業に入社し、ちゃんと金を稼いでいい相手と結婚して立派な家庭を築く標準的な生き方が主流秩序の価値体系では評価される。標準的な生き方をすることにより自己のアイデンティティを正当なものとして示すことができる。主流秩序では勝ち組や支配者を中心に価値体系が形成され、みんなが秩序の上位を目指す実践によって支えられる。主流秩序とは常に序列を巡る競争を生み出し、上位の者が下位の者を見下す差別意識をエネルギーにして成り立つ。主流秩序のランク付け発想を積極的に支持して、自分だけが他者を出し抜いて特権を得ようとする態度は差別への加担となる。主流秩序の規範が人のランク付けを正当化している。主流秩序におけるランク付けの風圧をかわすためには、支配的な価値体系に「従属」せず、秩序から外れて「自立」する実践とアジール(=解放区)が必要である。主流秩序の価値や規範からズレる実践を通して「変わった人」となることで、秩序のランク付けからスピンアウトして「自立」するとともに、秩序の価値体系そのものに小さな亀裂を入れることもできるかもしれない。

 

 

2.規範からズレた「主体」の構築

 

「行為する人」は行為のなかで、行為をつうじて、さまざまに構築されるのだ。

(バトラー、p.250)

 

 

 常識や規範からズレようと思っても、世の中なかなか認めてくれません。でも粘り強くあれやこれやズレるような実践を「反復」していくと、ズレたキャラとして段々定着していきます。これが攪乱的な「主体」の立ち上げであり、「変わった人」になっていくプロセスである。何だか言葉では切り取りがたいモヤモヤした存在として社会にフワフワしておく。「変わった人」は既存の価値体系によっては社会にポジショニングされない「無縁」の存在である。これは、脱・アイデンティティを目指す実践とも言える。その人のその人らしさ(=アイデンティティ)は行為の前にあるのではなく、むしろ行為によってそのつど立ち現れていくものだ。行為に先立って「主体」は存在せず、行為を通して「主体」(=アイデンティティ)は構築されていくのである。

 

 

他者のなかで、他者をつうじて、各人が言説によってさまざまに自己を構築していく。

(バトラー、p251)

 

 

 以上の「主体」を巡る見方に基づくと、わたしたちは、常にすでに何らかの実践を通して不断に「主体」を立ち上げていることになる。そして、この「主体」の立ち上げはわたし一人でおこなわれるのではなく、他者の言葉を「引用」し、他者との相互作用を通しておこなわれる。アイデンティティは真空地帯では立ち現れない。つまり、自己のオリジナリティ(=唯一性)とは他者の言葉の堆積物にほかならない。他者から「引用」された言葉はわたしの中に沈殿し、わたしの歴史(=アイデンティティ)となる。そして、歴史性をもったわたしは、さらに発話や実践をおこない、新たな他者の言葉を引き寄せる。「引用」の蓄積が、次の「引用」を呼び込むのだ。わたしは、「引用」を通して新たなバージョン(異本)となる。このような「反復」を通してパフォーマティブに「主体」は形成されていく。

 

 

3.「主体」の構築は賭けである

 

 人の言葉や実践には水面に一石を投じ波紋を生じさせるように他者に呼びかる作用がある。呼びかけに応じる他者との相互作用で私と他者(=世界)は更新されていく。自己の立ち上げに必要な言語資源は他者(=社会)に依存しているため、「引用」できる言語資源は限られている。しかし、「引用」の仕方次第では意味付けを組み替えられる自由があり、そこにオリジナリティ(=攪乱)の契機がある。ただ、発話や実践が行為者の意図と反する結果になることは常である。他者とは自分と規範や価値体系が異なるゆえに他者であるので、自分の考えや狙いは他者にはそのまま受け取られることを保障しない。さらに、他者の反応は場当たり的であり結果は予測できない。だから、呼びかけは常に「投企(=賭け)」となる。そして、「主体」の立ち上げは、このような自己(=行為体)と他者との応答による「反復」の結果であり、らせん状に巻き上げられてどんどんバージョンが更新されていく感覚である。わたしたちの言説実践は他者からの理解可能性をめぐる「賭け」なのだ。そして、わたしたちは言説実践という「反復」の中にすでに投げ込まれている。だから、わたしたちができることは「反復すべきかどうかということではなくて、どのように反復すべきかということである」(バトラー、p.259)。生きるというのは不確実性の中に身を投じて「賭け」をすることである。そして、予定調和でない場当たり的な出会いや経験を楽しもうという姿勢をもっていたい。意外性が攪乱のあらわれになるのだろう。

 

4.しょぼい境界の攪乱

 

 主流社会の規範に完全に従うのでもなく、完全に存在を消すわけでもない絶妙なポジションで生きたい。モヤモヤな存在として境界を攪乱させる。意識・無意識を含めて言語によって構造化されている領域は「象徴界」と呼ばれ、象徴界によって放逐される混沌たるカオスの領域は「現実界」と呼ばれる。象徴界が支配する主流秩序の言語体系は、その言語で「理解できるもの」と「理解できないもの」をしるしづけて序列づけをおこなう。理解可能なものとは主流の言説で構成されるカテゴリーである。実在はカテゴリー(=言語)を介してのみ認識の中に立ち現れる。カテゴリー以前的な「実在そのもの」にわたしたちは到達することができない。既存の価値体系(=言語)ではカテゴライズ不可なものは、実在はするがわたしたちの認知を越えた得体の知れない存在なのだ。攪乱とは既存の価値体系では理解が届くか届かないかわからない絶妙な存在になりみんなをギョッとさせることである。多数からは理解しがたいものがその実在を示しつつも、完全には理解可能にならないギリギリのところを攻めるのが境界の攪乱であり、そのようなギリギリの実践を通して、常識や規範に揺さぶりをかける。多くの人から理解しがたい「変わった人」は、その実在を示すだけで既に秩序を揺るがしている。わたしの中で境界を攪乱するとは、「象徴界」と「現実界」の狭間でユラユラしている感じだ。完全に社会から不可視化されるのはつまらないので、たまに主流社会にひょっこり顔を出して変わった事をしてみんなをアッと言わせたい。主流の言語によって体系づけられた秩序をカオスの爪で引っかいていく感じだ。秩序の価値に積極的に逆らう力技をするのではなくて、カテゴリーと非カテゴリーの境界でウロウロしてしょぼい攪乱をすることで、主流/非主流を分かつ規範(=カテゴライズ)に対するカウンターをおこなう。秩序の枠組みからフワフワ浮遊してそこにいるんだけどなんだか実体がよくわからないオバケとか妖怪みたいになればよい。

 

 

5.しょぼい女装:生まれ変わり

 

①ホモ・ソーシャルから距離をおくための女装

 

 しょぼい女装を始めたのは理由はジェンダー的な関心からだがミーハー的なノリもあった。ネットで女装している人を見て窮屈な男性性を脱いでる感じや世間から浮いてる感じがいいなと思ったり、男性的な外見があまり好きでないとか、自分の心地よい装いを実践したいという思いから始めたのだと思う。同時に、ホモ・ソーシャルの連帯から外れていこうとねらってもいた。男性が社会で生きていくにはホモソーシャルのノリを求められやすい。女性をひどくすることへの同調、競争や強さの志向、モテ度の競い合いや女性経験を自慢げに話すことなどに加担させられやすい。わたしは男性であることでホモソに加担させられたくないので、ヘッポコ女装をしてホモソの劣位にいる方がまだ気楽である。男か女なのかよく分からない変なやつと見られることで、男性ジェンダーへの同調圧力もやわらぐ。男性として特権的立場を得ることに付随して、たくましさとかしっかりした感じといった「男らしさ」も求められる。しかし、男性の規格から外れると、ホモソの中では序列下位に置かれるが、「変な人」とか「ヤバイ人」として自由度が高い振る舞いもできたりする。劣位のポジションになることで可能性が広がる。

 

 男性が「女装」をして女の要素を身にまとったら、奇異の目で見られたり性的な視線を受けるようになる。自分がしるしづけの対象になると生きるシステムが違ってくる。「眼差す立場」(=主体)から「眼差される立場」(=客体)へと転倒すると、男性として生活していると気づきにくい男性ジェンダーの抑圧性や女性ジェンダーにより被るコストについても経験的に理解がおよぶようになる。街では訳のわからない絡みをされたりスケベ目的で男性が寄ってきたりする。自分が性的なネタやターゲットにされて、男性の態度がバグったりしょうもない振る舞いをするのを見ておもしろさや驚きも感じるが、過剰なからかいの対象になることのしんどさや怖さも同時に体験する。

 

ジェンダー規範からズレる

 

 ジェンダーをズラすとシステムが変わる。これは、相手の態度が男装の時と女装の時とでは異なり、それに応じて自分の対応も変化していくためである。30代のおっさんが「かわいい」と言われるなんて想像もできなかった。「かわいい」とか「お化粧きれいね」とか言われると照れくさくなったり、調子にのってぶりっ子ポーズするのも「男性」からズレた感じを味わえて単純に楽しい。男性的装いの時にはとてもじゃないができない女性的な仕草や言葉遣いもできるようになったのは新鮮であり解放感がある。ジェンダーをズラして「男」とも「女」ともカテゴライズしにくい「変わった人」になることで、主流のジェンダー規範による抑圧から浮き出やすくなる。外見のジェンダーを変えることが、自分のアイデンティティパフォーマティブに変える足がかりになることが実感できる。たかが外見、されど外見だが、男女二元論のジェンダー表象が支配する世界ではカテゴライズは外見に規定されやすい。

 

 わたしのように化粧をしたり女性ファッションを身につけることは「女装」だと言われるが、わたしとしては女性を目指していないから、自分では「女装」とは積極的に言いにくい。「女装」に気合を入れてない。化粧もyoutubeの動画でテキトーにものまねしたくらいで全然学んでない。完璧な女性的装いを目指していないから、化粧がテキトーで落書きみたいでも気にしない(下手だとか自覚できてない・・)。誰かから化粧が下手と言われても、化粧で勝負してないから平気だ。「女装」の競争には参加しない。そういうジェンダーに基づくルッキズムからズレたしょぼい女装の位置にいるのが楽である。しかし、「男装」でもなく「女装」でもない表現がこの社会にはない。人はあらゆる要素で男性か女性かに振り分けられる。わたしは自分の格好を積極的に「女装」とは言わず「変わった格好」だと言っておきたい。こういう格好が自分の心理にフィットする。自分の落ち着けどころ(=居場所)としてのしょぼい女装である。「女装」と表現するのは仕方ないのだが、「女装」と言う根拠を「化粧しているから」と言いがちなのもジェンダー・バイアスなんだという認識も自覚しておきたいところではある。 

 

ジェンダーをチャラチャラさせる

 

ジェンダーは男女の社会的な性差である。ということは、社会のなかに「男」と「女」がいるということである。それはどういうことか?それは、社会のなかに「男」と「女」以外の者はいないということであり、人はかならず「男」か「女」かのどちらか一方であるということだ。したがって「男」でもなく、「女」でもない「中途半端な」人間は、ジェンダー規範のなかでは存在することができない。「気味が悪い」とか「異常」だとみなされる。ある側面をとれば「男」であり、べつの側面では「女」であり、さらにべつの側面では「男」であり……といった混雑的な人間は(しかしすべての人間はこの混雑性を有しているのだが)、ともかくもその混雑性に蓋をして、どちらかのジェンダーに――ジェンダーは生物学的な性であるセックスのうえに構築されるものなので、セックスによって――強制的に振り分けられていく。

 

竹村和子、2000、『フェミニズム』、岩波書店、p.21)

 

  

  人は「男」であるか「女」であるかジェンダー的存在として振り分けられないと社会的存在としてポジショニングされない。ジェンダー二分法に支配されつつも、既存の二分法の規範からはみ出そうとしたりズレる実践の反復により、ジェンダーの境界をモヤモヤさせて、ジェンダー認知のパターンを増殖していく試みが攪乱の契機となりうる。竹村さんの書いたとおり、「男」とか「女」とかにカッチリはまっている人がそもそもいないのだ。「男」と「女」という幻想がまずあり、わたしたちはそれに従って「男」か「女」かのどちらかのカテゴリーにカッチリはまろうという実践をしているにすぎない。そのような実践がジェンダーを再生産する。ジェンダーをチャラチャラさせると「変なやつ」と見られるから、主流社会ではジェンダーを浮つかせることはできない。しかし、ジェンダーが構築物である以上、人のジェンダーはチャラチャラするものだし、チャラチャラしてよいのだ。チャラチャラさせてくれない硬直したジェンダー・システムのあり方のほうがおかしいのだ。「生物学的に男性とされた人は男性らしくしなさい」という社会のジェンダー規範の圧力に逆らっていく行為は、ジェンダー規範をかき乱している。わたしは自分の身体(=生物学での「男性」)とは逆のジェンダー表現である女性的な要素を取り入れて、「かわいい」と言われてチヤホヤされたり、キモいと言われたり、ヤバイ人として避けられたりしているのだ。わたしみたいなおっさんが、そんな感じでジェンダー・バイアスを逆手にとって何だか得体の知れない「変わった人」として社会にフラフラしておくのも、ジェンダーの攪乱にもなるだろう。

 

 

 6.イタイ人になる

 

 「生きづらさ」を抱える人が、その「生きづらさ」を強いる規範から解放されるための戦略が攪乱となる。「変わった人」になるのは生き延びの作法でもある。抑圧されてきた人は世間でいうところの「ちゃんとした人」を実践している人が多いと思う。それが、「生きづらさ」となっている。人は自分の欲望よりも「立場」を基準に行動している。しっかりしなきゃとか思わない方がいいのです。年齢とかジェンダーとか社会的地位を気にして世間から期待される振る舞いをするのではなく、自分の欲望に忠実になり思い切って恥ずかしいことでも堂々とやった方が「回復」していくと思う。欲望を無意識の中に抑圧しようとするとこじらせの原因となる。フロイトの臨床の話でもあるが、無意識の中に自分の欲望を封じ込めようとすると、いろいろな精神的な不調やしんどさとして現出するという。欲望を抑え込んで対処するよりも、むしろ欲望を安全に実行できる空間を探すのがよいのだろう。若いうちにキャピキャピした事やヤンチャな事をしたい欲望を抑圧したまま地味な人生を送ると歳をとってから不全感でしんどくなると思う。そして、「もう30歳でいい歳だから、変わったことはやめておこう」とまた自分の欲望を抑圧するとずっとしんどい状態は続く。40歳になるといよいよ、「ああ、30歳でやりたいことやっとけばよかったな」と引きずると思う。だから、変わった事や恥ずかしい事は今のうちにやっといた方がいい。それで失敗したりやらかしても後々ネタや武勇伝として笑いの種になるので大丈夫である(多分)。わたしは今、20代前半くらいのちょいギャルの気分になっています。「生まれ変わり」を実践している。わたしはイタイ人になることでわたしの欲望を実践したい。

 

 

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↑わたしです。しょぼいギャルを実践しとる。ギャルサーのメンバー募集してます。みんなで路上で集まりたい。