生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

近況(半ニートの苦しみ・・)

弱音をはきたい。

 

大学院博士課程を辞めて2年半が経過したが、状況は良くない。

 

実家ぐらしの半ニートである。

 

私は、徹底的に無能である。仕事はできない起業もできない。ブログもアフィリエイトの審査で落とされた。とはいっても一日100PVもいかない弱小ブログであるが。

 

学生時代や大学院時代の人は離れていった。何もしていない(=生産的で有用なものを生み出せない)私のような人間は、誰からも相手にされない。

 

誰かに会っても「大学院辞めて、何をしているのか?」、「何か面白いこと、有意義なことができなければいけない。金を稼げるような能力がないといけない」という有音・無音のプレッシャーを受ける。

 

人の言葉あるいはネットなどの情報から、「生産的な人間であらなければいけない」、「有用な価値を生み出せる人間ではなくてはいけない」というプレッシャーを受けるたびに、息苦しくて頭が締め付けられるように痛くなる。

 

私は何もできない。生産的で有用なことをしなければ社会的承認が得られないという地獄をこれでもかというほど味わった。

 

私は、以前ブログで「何もしなくてもいい。何かをしなければいけないというプレッシャーから自由になりたい」と書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しかし、一方で何かしら成さなければならないというプレッシャーは隠すことはできない。やはり、人間は承認の生き物であるからだ。

 

今は、ツイッターやブログで知り合ったわずかな人との交流で生かされている感じだ。感謝している。しかし、京都には誰も会ってくれる人はいないので寂しさを感じている。

 

 

 

私は、7月に神戸から京都の実家に帰った。前にルームシェアしてた元同居人から家から出ていくように言われたからだ。元同居人は寂しがりやだったのに私があまり構わなくなったのが原因だろう。しかし、ルームシェア(事実上の居候だったが)していたら、毎日会うから話すことも無くなっていかないだろうか?

 

私は、一人暮らしできるほど労働ができない。前のバイトは9:00-18:00勤務の週3やってたが、体調不良をおこして休んだり早退をよくしていた。稼ぎは月10万もいかない。

 

なので、実家に戻るしかなかった。

 

7月はまるまる野宿旅行をしていた。京都ー和歌山100km歩いたり、埼玉から仙台まで420km歩いたり。琵琶湖に泳ぎに行ったり。

 

旅をしている間は爽快だ。悩みや不安なんて歩いているうちに吹っ飛ぶ。歩き終わったら食事の準備やトイレで体を洗ったり洗濯をしたりして時間はあっという間に過ぎていく。

 

野宿旅は金ができたらまたやってみたい。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

10月からはバイトをようやく見つけた。生活については実家の世話になるが、活動費や通院費は自分で稼ぎたい。

 

私は、もう仕事は全然できないし、本を読んでも頭に入ってこない。ブログでも何か独特な知見を生み出せるわけでもない。諦念を覚えつつある。もがけばもがくほど、何も有為なことを成すことができない虚しさからの苦しみを感じる。

 

しかし、何もせずにじっとしていられないので何かをしてしまう。しかし、人から評価されることは全くできないので、またもや自己肯定感を失い、苦しさが襲う時もある。

 

 

図書館で鶴見済完全自殺マニュアル』を読んで、自殺した漫画家の山田花子さんの言葉に目が止まった。

 

「何の取り柄もなく人に好かれないなら死んじまえ」

 

 

私は言いたい。

 

「何の取り柄もなく人に好かれなくても、ぼちぼち気楽に生きられないものだろうか」