生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

経済的自立できない人は劣っているのか?

 私は大学院を能力不足と精神障害躁うつ病アルコール依存症)のため退学した。それから4年ほど先輩の家にほぼタダで居候させてもらい、その先輩との関係が悪くなり現在は実家に戻り半ニート状態である。働こうにもバイトでも長続きしない。いわば、他人の金で生きてきた身である。他人の金で生きることはどういうことなのか以下で考察してみたい。

 

 生活保護受給者や引きこもり、ニートなどは「穀潰し」と呼ばれ立場が弱い。経済的自立ができないことが悪いことだとされ、経済的自立ができない人に対するスティグマ(負の烙印)が強い。生活保護受給者などは保護費が支給されることで生存は保障されるものの、「他人の税金で飯を食っている」と後ろ指を指されて社会的に承認を得られにくい。ニートや引きこもりも「親のスネをかじっている」と言われ人間以下の存在として扱われる。経済的自立ができず社会的承認が得られないことは苦しさを生み、自殺に至ってしまう場合もある。

 

 人間は生き延びるためにあらゆる手を使うものだ。しかし、他人の金で生きることはなぜ悪いと考えられるのか?それは道徳的に大勢がそうだと思っているからである。論理的には説明することはできず、「よい」「悪い」という道徳の問題に行き着いてしまう。道徳はそれ以上さかのぼることができない最終根拠=公理とされるものだ。道徳には根拠がないと言われるが、どんな命題でも最終的な根拠はない。道徳は無根拠で可変なものである。無根拠ゆえに、常に「何が正しいか」が言い争われ、戦争にもつながる。

 

 

 ある生き方に「よい」「悪い」という価値観が差し挟まれるのはなぜなのか?人は「よい人生」をおくりたいと願い、「よい生き方」とは何かを考える。私たちは「よい生き方」が何であるかを示すために、「よい生き方」でない「悪い生き方」が何であるかを提示する。人間は生きることに意味付けをせずにはいられない。そして、人生をよいものにしたいと願う。近代以降のリベラリズムにおいて想念される「よい生き方」とは「自己決定を自由におこない結果に対して自己責任を負う」というものである。個人は何にも妨げられることなく、その能力を発揮して欲望を達成する自由があると考えられている。そこには、能力主義によって個人として独立することが善だとされ、それが「よい生き方」となる。

 

「よい」「悪い」という二分法による「思い込み」は言ってみれば宗教である。ある事柄を絶対に正しいと信じたり、二分法によって一方がもう一方よりも無条件に価値があるという思いこみから解放されることは容易ではない(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p.259)。社会学者の橋爪大三郎宗教とは信じることが核心であり、「ある事柄を真実と前提してふるまうこと」としている。

 

二分法を打ち崩す方法は、脱構築という哲学上の考えである。あらゆる存在や現象に二項対立を打ち立てて「思い込み」や「決めつけ」によって優劣をつけることが脱構築の考えによって批判された。

 

【メモ】脱構築的アプローチ(N.フレイザーによる)

セクシュアリティを例とすれば、LGBTアイデンティティを強化する再評価ではなく、同性➖異性の二分法を解体していく方法である。

性の領域を、多様かつ脱二項対立された、流動的で絶えず変化する差異によって成り立つものに維持しようとすること。

 

N.フレイザー(1995=2001)『再分配から承認まで?ポスト社会主義時代における公正のジレンマ』原田真美訳(『アソシエ』(5)、御茶水書房に収録)p.116

 

経済的自立ができないのは市場のゲームで負けただけである。勉強・スポーツ・芸術とお互いの技能や能力を競い合うゲームは色々あるが、市場のゲームも色んなゲームのうちのたかだか一つである。その一つのゲームで負けただけで「人としても劣っている」と見られる。経済的自立ができないと人として尊重されないのは、市場のゲームでの勝敗の結果がその人の尊厳にまで結びついていることにある。「経済的自立できていないから人としてダメ」という経済的成功と社会的承認とを無条件で結びつける「思い込み」や「決めつけ」から脱却するべきだろう。

 

「経済的自立ができる人は偉い/経済的自立ができない人は劣っている」という経済的成功と人格を結びつける二分法的な価値観が解体されるべきなのだ。

 

 

私の宗教入門 (ちくま文庫)

私の宗教入門 (ちくま文庫)

 

 

 

 

(※)この文章は、ツイッターの友人さっちゃんの企画「スクリーム 社会的弱者の叫び」に収録された内容に一部加筆したものです。さっちゃんに感謝。

0円マーケットをやってみて

10月24日に京都の三条大橋で0円マーケットをやりました。

 

供出した物品は、アウトドアグッズ、バイク用品、マフラーなど小物、本(旅行系、小説など)でした。

 

今回、0円マーケットをやったのは、鶴見済さんの0円ショップや0円生活の考えに共感したからである。以前からやってみようかなとは思っていた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

0円マーケットを2時間ほどやってもらわれた物品は以下

 

コッヘル、ライター、扇子、マイバック、ライダーグローブ、地球の歩き方(韓国)、バイク旅行の本

 

やってみて単純に良かったのは、要らないものをあげただけなのに「ありがとう」と言われて気持ちよさを感じたことである。

 

一緒にやってくれる人も募集しています。

また、部屋のものが溢れたらやってみたい。

 

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【贈与について】

 

生活に必要なものをなんでも金を払って手に入れる市場経済というシステムでは、貧乏人ほど購買力が低く生活に困ってしまう。市場以外で財をやり取りできることが広がれば、貧乏人も生きやすくなる。

 

これは、『贈与論』でM.モースが示唆したことでもあるようだ。

 

およそ100年前の1925年にM.モースは『贈与論』を書き、未開社会での財の贈与返礼について記した。市場経済によらない財の流通システムに着目して、行き過ぎた市場原理に対して早くもオルタナティブを示そうとしたとも言われる。

 

これについては、カール.ポランニー研究者の若森みどりさんの論文(「贈与 私たちはなぜ贈りあうのか」橋本努編著『現代の経済思想』勁草書房、2014、p.87-112)を参照した。

 

 

市場経済による材・サービスの交換が強まることの弊害を述べる。

 

カール・ポランニーは社会統合の形態を「互酬」「再分配」「交換(市場経済)」の3つに分類した(ポランニー『大転換』など)。この3つが上手くバランスをとることで社会の構成員が幸せになればいいのである。

 

しかし、現代の日本は「交換(市場経済)」が支配的で、「再分配」は弱く、「互酬」はオマケみたいな位置づけである。市場を絶対化する資本の側は、「交換(市場経済)」が全てを解決する万能薬であると言い、他の2つの領域は「交換(市場経済)」を歪める邪魔者として扱かわれる。

 

「交換(市場経済)」によってのみ富を得ることが正しいこととされ、「再分配」「互酬」によって富が分配されることは好ましくないとされる。 だから、生活保護(再分配)には負のスティグマが貼られ、人から物をもらう事(互酬)はズルいとされる。

 

市場経済の問題として、例えば、人々は低価格な商品を選ぼうとするが、商品価格が安くなればなるほどその商品の生産をおこなう労働者の賃金も安く抑えられていくことになる。市場経済において経済的利得で動くようになれば私たちは社会に対して責任を負わなくなってしまうのである(以上は、の若森みどり(2015)『カール・ポランニーの経済学入門』から)。

 

 

「交換(市場経済)」の地位が高くなると、市場経済で評価される商品や貨幣が絶対であるという見方になる。 そのような社会では私たちは商品や貨幣の奴隷となり、人を傷つけたり時に不正義な行動をとることになる。環境破壊なども生じる。商品や貨幣が独り歩きする物象化が進み社会が壊れてしまうのだ。

 

 

「交換(市場経済)」の優位のもとでは、生きていけない人が生まれるし、社会問題も生み出してしまう。「再分配」や「互酬」の地位が低いことの問題だ。そのため、「互酬」である与え、受け取り、与え返すという贈与が広がればと考える。

 

アナキスト人類学者と自らを名乗るグレーバーは、贈与は社会関係をつくりだすという。

 

グレーバーは、新しい社会関係や新たな絆を創出することを「社会的創造性」と定義するが、社会的創造性には「媒介物(medium)」の役割が大きい(若森みどり、2014、前掲論文、p.93)。

 

また、モースによると贈与によって個人や集団間での争いごとを未然に防ぐという役割もあるらしい。贈り合いは平和維持のための行為なのである。

 

物をもらった人は「お返しをしなければならない」という思いに駆られる。 しかし、私たちはすぐに返礼をしてはいけないと考えており(反対給付の原則)、その場では返礼はなされず、時間をおいて別の誰かに贈与がなされることがある。

 

贈りもののやりとりは瞬時におこなわれるのではなく、財と人と生命の循環が一定の期間を経ることで社会関係がつくられる。

 

(若森みどり、2014、前掲論文、p.110)

 

 

このように、物の循環は社会全体に広がり様々な関係をつくる。贈与は人を結びつけ社会を形成すると言える。

 

要らないものをみんなが贈り合い、善の輪が広がればと願う。

 

 

[新訳]大転換

[新訳]大転換

 

 

 

現代の経済思想

現代の経済思想

 

 

 

新書784カール・ポランニーの経済学入門 (平凡社新書)

新書784カール・ポランニーの経済学入門 (平凡社新書)

 

 

「世界」をつくる(『アレント入門』より)

言説実践による社会変革についてハンナ・アレントの考えを私の血肉としたい(中山元、2017、『アレント入門』ちくま新書)。

 

私たちは、言論と活動をもって他者に働きかけることで、自己と他者が立ち現われ、自己アイデンティティを獲得していく。それを通して世界をよりよいものにしていく。

 

アレントは人間の活動性の領域を、労働仕事活動と3つに分けた。

 

 

労働は個人の生命を維持するものであり、個人の生命の維持とともに、その成果は消滅する。そして個人が死去した後には、その痕跡も残らない。しかし、仕事は個人の生命を超えて存続する作品を作りだし、それが人々の間で成立する「世界」を構築する(p.78-79)。

 

この労働と仕事はどちらも人間の生命の維持と世界の確立に貢献するものであるが、わたしたちはこれらの活動性とは別に、人間と人間の間での交流を作りだす行為もまた遂行している。これが「活動」(アクション)である(p.80)。

 

わたしたちが他者と対話するとき、人々の集会で発言するとき、それは生命の維持を目的とした労働でも、作品を製作する仕事でもない。それは他者に働きかけて、わたしたちが生きる世界をよりよいものとするための行為なのである(p.80)。

 

「現われの空間」をつくるのだ。

 

この空間は、たんに政治的な活動の場であるよりも、わたしたちが一つの明確なアイデンティティをもって登場する場である(p.81)。

 

アレントは、この活動と言論という行為によって、初めて人間にとっての公的な領域というものが生まれる一方で、人間がこの「わたし」というアイデンティティを獲得できると考えている(p.81)。

 

「人々は活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す」(p.81)。

 

よりよい生のためには、自己アイデンティティの確立が必要である。自己アイデンティティは真空地帯からは生まれず、言説実践により他者との関係のなかで立ち現れる。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

私も言説実践を通して、他者へ働きかけ、世界を変革する活動をしていきたい。

ニート・引きこもり原論

引きこもりやニートなどの社会不適合者に対して社会の目は依然厳しいが、引きこもりやニートがあまりにも多くなったため、社会もそのような人に対する見方を変えつつある。

 

斎藤環などの「引きこもり」の専門家は、安心して引きこもり生活ができればよいと論を述べていて、以前ブログでも紹介した。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

しかし、今でも「引きこもりやニートになってしまうことは仕方ないが、いずれ引きこもりやニートの人たちは社会に出なければいけない」という考え方は社会に根強い。

 

例えば、表に出てくる引きこもりやニートなどの経験談も、引きこもりやニートを脱出して社会に適応できた人たちが過去の日々を振り返るような形態が多い。

 

引きこもりやニートを脱出できた「成功者」が、過去の引きこもりやニート経験を「挫折経験」として語る仕方が一般的である。そして、しばしばそれらは美談となる。

 

引きこもりニートであったけれどもそこから脱出した人ばかりが称賛される社会は息苦しくないか?

 

引きこもりやニートは脱出「すべき」生き方という見方が強すぎるのだ。

 

引きこもりやニートは必ずしも脱出すべき状況ではない。状況的に脱出した方がよくて、脱出可能ならば、脱出すればよいのである。だが同時に、引きこもりニートのままで生きても問題ないと肯定される必要がある。「何もしない」ことも生き方としてアリである。

 

以前の記事で、生存に条件は必要ないということを書いた。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

引きこもりやニートでも楽しく穏やかに問題なく過ごせるなら、それも肯定されるべきだろう。 仕事をしたり何らかの活動をして社会参画する事のみが生き方の解ではない。

 

つまり、「してもいいし、しなくてもいい。してもしなくても何の報奨も受けず、懲罰(サンクション)も受けない」という選択の自由の問題である。

 

親などに経済的に依存して、「他人の金で生きていくこと」が良くない事と言われるが、それは倫理であって、論理ではない。

 

生き方なんてさまざまである。

 

自分の金で食っていきたければそうすればよいし、人の金で食っていかざるをえなければ、それもまた肯定されるべき。

 

「自分の金で生きること」と「他人の金で生きること」の間に優劣はない。どちらも価値等価である。

 

生き方に優劣は存在しないのだ。

 

引きこもりやニートを叩く言葉で多いのは、「引きこもりやニートは親元でぬくぬくして経済的自立できていないからダメだ」というのものだが、論理的な話ではなく価値観の問題である。

 

「経済的自立できる人が偉い」と言いたいだけで、「偉い/偉くない」は論理ではなく価値観の問題だからである。

 

論理なき言説は信仰である。

 

また、「自分は一生懸命働いているのに引きこもりやニートは怠けてけしからん」という感情があるかもしれないが、働きたくなければ働かない選択はある。働く働かないは「好き好きである」と言える。

 

そういう叩き方をしている人は、他人を叩いて自己の生き方を肯定しようとする方法をとっている場合がある。

 

他人の評価を下げて相対的に自己の優位性を示したいのである。

 

それに対しては、「自己を肯定するために他人を否定しなくてもいい」と言えばいい。

 

他人の生き方を否定することに心血を注ぐよりも、自己を肯定できるのがいい。

 

「みんな違って、どうでもいい」という姿勢が大切である。

「何もしない」という究極のオルタナティブ

1.経済活動ができない人間はつまはじきにされる

 

コミュニティという言葉をよく聞くようになった。

 

今使われるコミュニティという言葉には、人々が孤立しがちな現代において新しい価値観によって人と人とが繋がろうという甘美な意味が匂う。

 

伝統的な村落や町内会などの地縁集団、企業社会といった機能集団などに溶け込めない人たちの集まりや居場所としてコミュニティという言葉が使われる傾向がある。

 

人と人との繋がりの生み出すのがコミュニティだと言われるが、非経済活動で純粋な関係性を作るのは難しい。

 

金がらみの関係は強く、金が介在しない関係はもろくて弱いという公理は重要である。 人との関係を維持するには、与え与えられる利害関係がないといけない。

 

だいたい優良なコミュニティと言われるものは、金稼ぐ能力がある人たちが集まるので、真の弱者は仲間に入れてもらえない。

 

人と人とが繋がりを手っ取り早く作るには、誰かと生産活動をしたり、消費をしたりするといった経済活動をすることである。労働などの経済活動をすれば協働などで必然的に人と連帯することが求められる。また、金でモノを買うにも最低限店員とのやりとりは必要になる。

 

資本主義は実は人との繋がりを必然的に作ってしまうシステムでもある。 だから、生産活動や消費活動が十分にできない資本主義のシステムに適応できない経済的弱者は孤立してしまうのである。

 

 

2.魅力資源が乏しく人との繋がりが作りにくい社会的弱者ほど救済されなければならない

 

人を引きつける魅力資源は、金、地位、オモシロさなどであり、これらは社会的弱者には乏しい資源であるといえる(女性の場合は「性的魅力」で他者を惹きつけることもある)。

 

社会的強者はそれらの魅力資源を持っているがゆえに人が寄ってきて人との繋がりが作りやすいが、社会的弱者はそれらの魅力資源が乏しいのでますます人が寄って来なくなり、孤立を深めていくという救いようのないアリ地獄のような状況が生まれてしまう。

 

つまり、人との繋がりを生み出せるのは、 「金を生み出せる人」もしくは、「オモシロイ人」である。そうでない人(=「金が無くてオモシロクない人」)が他人との繋がりを生めない真の弱者となっていく。 弱者問題の救いの手は、誰とも人との繋がりが作れない「金が無くてオモシロクない人」に差し伸べられなければならない。

 

「金稼げなくてツマラナイ人」が悪いのではなくて、「金稼げなくてツマラナイ人が生きられない社会」が悪いのである。

 

我々が目指すべき社会とは、金稼げなくてツマラナイ人でも不自由なく生きていける社会である。 人間の生存に条件をつけてはいけない。

 

 

金や権力の関係ではなく、支配依存によらない「純粋な関係性」(A.ギデンズ、1995、『親密性の変容』而立書房 )こそがあらゆる人間関係で目指されるべき民主的な関係であり、そういう関係を作るトレーニングを私たちはしていかなければならない。 条件無しで人と人とが認め合うことは民主主義の成熟における命題でもある。

 

 

3.何かをして何者かになることが強迫される社会において、「何もしない」ことはラディカルなオルタナティブである

 

私たちは条件付きで人を受け入れるようである。

 

勉強や仕事などをしろと、私たちは常に「何かをしなければならない」と社会から強迫されている。 そして、何かを成して何者かになることを要請される。「何もしない」という生き方が認められない窮屈な社会だ。

 

何かしなければ、何者かでなければ誰にも認められずに孤立してしまう。 何もしないと人として生存が肯定されることが難しい。

 

良い子でいなくてはならない、勉強がちゃんとできなくてはいけない、金を稼がなくてはいけない、人を楽しませなくてはいけない、そういった何かをしなければ認められないという強迫が存在する。

 

しかし、人が認められるのになぜ条件が必要なのか?

 

何もしなくてもいいじゃないか!!!

 

「何もしない」「何者でもない」ことが肯定されることが必要である。 

 

「何もしない」というのは、何かをしなければならないと強迫する社会に対する究極のオルタナティブである。 「何もしない」はラディカルなのだ!

 

「私は何もしない」と堂々と言えるのが究極の自由である。 「何かをしなければならない」と強迫されてる今の社会には、「何もしない」という自由が存在しないのである。

 

 

親密性の変容

親密性の変容

 

 

摂食障害・セックス依存(1)

女性にとって思春期とは、自分の身体が性的なまなざしで見られることに気づく時期である。

 

思春期とは、女性にとって何でしょう。それは、自分の身体が自分のものではなく、誰かの快楽の道具であり、誰かに見られることに気づく時期を指します。

 

小倉千加子、2001、『セクシュアリティの心理学』有斐閣選書、p.3)

 

   

男の欲望の対象となるとき、人は「女になる」。男の欲望の対象とならなくなったとき、人は「女ではなくなる」。

 

上野千鶴子、2010『ニッポンのミソジニー紀伊国屋書店、p.221)

 

 

 

セラピストのスージー・オーバックは1986年に出版された『拒食症』という本の中で、現代にいたるまで社会が女性に要請してきた無言の圧力を3つに要約している。

 

1.女の子は「他人の意見に従わなければならない」ということ

2.女の子は「他人の欲求を予想して、それを満足させなければならない」こと

3.女の子は「他人との関係の中で自己定義を求める」こと

 

 

小倉は、3番目の「誰かとの関係の中で自己を確認せよ」という圧力が女性にとっていかに強烈であるかについて1997年におこった東電OL殺害事件を例に挙げる。

 

東電OL殺害事件の殺害された慶應大卒で東電に総合職で務めていた女性は夜には渋谷で立ちんぼうをしていた。

 

39歳のエリート女性は、エリートであることで企業社会の勝利者であっても、関係性の中で、つまり男性との性的関係によって自己を定義してもらわない限りは安心感が得られないという「女らしさの病」にかかってしまったのではないか(前掲書、p.9)。

 

上野千鶴子も述べるが、名目上は業績主義の企業社会で頑張ってきた彼女はガラスの天井にぶつかり、気がつけば周りの女性たちはみんな寿退社していた。彼女は能力にプライドをもちながらも頭打ちを強いられ、女性性の価値からも取り残されてしまった。そんな彼女が最後に自分が女だということをもっとも直接的なかたちでつかもうとした行為が、売春でした(上野千鶴子、2008『サヨナラ 学校化社会』ちくま文庫、p.96)。

 

思春期の少女の逸脱病理は、摂食障害と性的逸脱に分かれる傾向がある。セックスに依存するか食に依存するかは機能的に置き換え可能だという(上野、2008、 p.111)

 

さて、摂食障害の原因には女性が感じる股裂き状態があるという。

 

1985年に男女雇用機会均等法ができて女も「がんばって働けばキャリアを積める」という状況が生まれると同時に、一方で旧態依然の「女らしくあれ」という圧力も受ける。「女らしくあれ」とは男を立てるということである。能力と気配りの両方が求められるのだ。

 

現代の日本の社会では女性はこの二つの相反するメッセージを受けとることになる。

 

身体というのは本人にとってたった一つの、自分が思うようにコントロールできるテリトリー(領土)である。身体という自分の領土にたいして暴虐の限りをつくしているのが摂食障害だという説明がある(加藤まどか、2004『拒食と過食の社会学岩波書店←引用は上野(2008)p.103−104から)。

 

 

セックスだと他人から女として値踏みされる。拒食症は女性的身体の持ち主になることを拒否する行為である(上野、前掲書、p.111)。

 

 

臨床心理士信田さよ子によると、摂食障害に悩む女性は加齢とともに症状が収まるという。それは、女性自身が加齢とともに性的魅力が低減して他者から性的にまなざされなくなり、女性としての値踏みから解放されるからであるという。

 

上野千鶴子信田さよ子、2004『結婚帝国 女の岐れ道』講談社

 

 

思春期の逸脱病理として男の子は引きこもりになり、女の子は摂食障害か性依存になるという。いずれも長期化する可能性が高い。これは、他者から自分がどうまなざされるかという自意識から解放されれば解消できるのかもしれない。

 

 

 

セクシュアリティの心理学 (有斐閣選書)

セクシュアリティの心理学 (有斐閣選書)

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

 

 

 

結婚帝国 女の岐れ道

結婚帝国 女の岐れ道

 

 

二流エリートと自尊感情

日本は海外に比べて大学院修了生が少ないとされるが、日本の大学院生は修了してもなかなかいいポストに就けないし、私のように途中でバーンアウトして中退してしまう人もいる。

 

先進国を中心に教育期間(モラトリアム)が伸びている。韓国など兵役や留学、休学などをするので男子の学卒では30近くになることもある。

 

社会学ブルデューは「教育年限の延長というものは、二流のエリートに自分の二流性を納得させるまでにかかる期間の長さである」(上野千鶴子、2008『サヨナラ 学校化社会』ちくま文庫、p.221)と皮肉なことを述べている。

 

私は自分の二流性を認めるまでに11年もかかったことになる。

 

大学や大学院は、二流エリートがもっている潜在的能力なりエネルギーを、反社会的行動に誘導しないための装置として機能している(前掲書、p.222)。

 

二流エリートは歴史的に支配的エリートに対抗する勢力として体制を脅かしてきた。戦前は共産党や労組の幹部も帝大出身であった。オウム真理教なども高学歴の信者が多かった。

 

他人からサリンをまけと言われたら、他人から認められるためにサリンをまいた。

 

自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない従属的な意識は、学校で叩き込まれてきた習い性のようなもの(前掲書「、p.224)。

 

体制に対抗する二流エリートも学校化社会の価値観から自由ではなかったということだ。

 

他人の価値を内面化せず、自分で自分で受けいれることを「自尊感情」という(前掲書、p.224)。

 

他人から尊重された経験がない人は自尊感情をもてない。学校は劣位者の自尊感情

奪うだけでなく、優位者にも何らかの目的のために役に立たなければならないという強迫観念を植え付け自尊感情を奪っていく。

 

上野千鶴子は、自分が二流エリートであることを受けいれたうえで、競争から降りた若者たちとして「だめ連」を挙げる。

 

★だめ連★

1992年に活動開始。もてない、職がない、金がない・・・など「だめ」を自認する人が集まり、孤立して「だめ」をこじらせないように傷を舐めあう交流会。

 

学校行かなくてもいいじゃないか、就職しなくてもいいじゃないか、結婚しなくてもいいじゃないか、ダメでいいじゃないか・・・

 

二流エリートがオウム真理教などに入信してマジメに反社会的行動をするよりも、「終わりなき日常」(宮台真司)をまったり過ごすのがいい。

 

だめ連の人たちは早すぎる老後を生きているのだと(前掲書、p.228)。将来のために現代を犠牲にして暮らすよりも、いま・ここ大切に生きようということである。

 

これは、前にミヒャエル・エンデの『モモ』の書評でも書いたことだ。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

二流エリートは自分の二流性をこじらせないために、競争の風圧から逃れ静かに暮らせたらいいのだ。他人の評価を気にしない自尊感情を育てるトレーニングをしなければいけない。

 

 

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)