生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

多様性の尊重

ツイッターでは、生活保護受給者をクズと呼び、「働いてないのに社会に物申すな」と言うなど、他人を否定し権利を剥奪する差別的な言説が目につく。

 

差別とは、人を属性や条件を理由に否定・冷遇することである。

 

ヘイトスピーチのように他者をその属性や条件(エスニシティ、社会的地位etc…)でもって、否定し、攻撃・貶めをおこなうことは正当化されない。

 

「このような言説も表現の自由として認めてもいいじゃないか」という人もいるが、差別的な言動はいかなる理由をもってしても正当化されない。

 

属性や条件によっては他人を否定したり貶めていいことが認められれば、公理として自分も属性や条件によって否定され貶められる。

 

自分と他者とを二分して、一方は優れており、他方は劣っているという決めつけをおこない、他者の権利を剥奪し、支配しようというのは、他者の自由の侵害であり、戦争を生み出す。

 

差別をしないということは、相互を尊重するということであり、お互いの尊厳と自由を守るためにも必要となってくる。

 

重要なのは「多様性の尊重」である。どのような属性の者であっても否定されず、権利が尊重され、自由でいられることである。それは、秩序の下位に置かれているマイノリティの権利が認められる方向でなければならない。

 

また、自分の正義を他人に押し付けることもあってはならない。私たちは自分の「自由」な言動をおこなうために他人からの「承認」を求めるが、相手を力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む。

 

自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる。そして、それを回避する方法が「自由の相互承認」である。

 

 

 

・「交響圏」と「ルール圏」

 

多様性が尊重されるための他者との関係のあり方について、見田宗介社会学入門』(岩波新書、2006)における「交響圏」と「ルール圏」という概念が重要になると考える。

 

社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。一方は、歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。

見田宗介、前掲書、p.172)

 

 

この二つの課題は、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応している。

 

他者の両義性(p.173)。

 

・他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。

・第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。

 

 

他者は、互いに共感し、歓びを共有できる存在でもあれば、対立し、傷つけ合うこともあり、一方が他方を支配する抑圧をも生み出す。また、ある人たちの歓びが、他の人たちの歓びであるとは限らない。自分たちの歓びを望まない人たちにも強いることは〈善意による抑圧〉を招きうる。

 

見田は、共鳴する他者とは歓びを分かち合い、そうでない他者との間での不幸や困難を最小化するために、他者との関係のあり方に対して二つのモードを提示する(p.178)。

 

歓びや感動を共有する他者とは〈交歓〉という関係のモードで繋がり、これを「交響圏」とする。この圏域の外部の他者との関係とは、相互にその生き方の自由を尊重し侵害しないための協定agreementを結び、このような自由を保証するための、最小限度に必要な相互の制約のルールのシステムを明確にする。これは〈尊重〉という関係のモードであり、「ルール圏」とする。

 

 

つまり、すべての他者たちは相互に、

 

〈交歓する他者〉and/or〈尊重する他者〉

 

として関わる。

 

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「交響圏」(〈交歓〉のモード)と「ルール圏」(〈尊重〉のモード)

 

 

この「交響圏」とは、家族(ジェンダー家族だけでない)、友人、仲間、アソシエーション、宗教、コミューンなどとなろう。

 

もちろん、この「交響圏」の中の人間関係においても相互の自由は保障されなければならない。また、「交響圏」は自由に出入りできるものになる必要もある。

 

価値体系を共有する関係であっても、ともすれば、抑圧的な関係に転じやすい。支配-被支配の関係は生まれやすいし、外部から見えにくい集団や家族はブラックボックス化しやすい。宗教であれば教義によって「自由」が抑圧されることもある。

 

そのため、「連帯」や「友愛」よりも、個々人の「自由」が優先されるべきである。

 

 

・自分とは異なるゆえに他者

 

愛し合うカップルはお互い一つになり溶け合いたいと願う。組織や集団も皆が一枚岩にならなければいけないという志向性をもっている。しかし、それは原理的に無理である。すべての人が自分と同じ規範をもっていると、他者は存在しないことになるからである。自分と全く同じ価値体系をもつ人間は自分の分身以外に存在しない。

 

ある人にとってもっともな理由は他の人にとっては納得のいかない理由である。納得のいかない理由によってなされた行為は不可解な行為であり、しばしばそのような行為をおこなう人物は不可解な(分けのわからない)人物である。要するに、ここで問題となっているのは人間の従う規範なのであって、異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである。したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味で他者は存在しないことになる。

 

永井均(1990)「他者」『現代哲学の冒険④ エロス』岩波書店、p.211

 

親密な間柄であろうと他者との関係のとり方は、他者が自分とは異質な存在である事を認め、お互いを尊重する所からスタートしなければならない。 相互の異質性が尊重され、権利が認められることで「自由」が保障される。

 

「自由」は相互の尊重がなければ実現されない。。

逆説的だが、「自由」とはルールがあって成り立つのである。

 

 

 

 【参考文献】

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

 

エロス (現代哲学の冒険 4)

エロス (現代哲学の冒険 4)

 

 

引きこもりデモ@厚生省前

4/1、4/2に厚生労働省前で「引きこもりに福祉を! 社会保障を家族単位から個人単位へ」という訴えをおこなった。

 

厚生省職員が出所する時間帯で、職員たちに訴えるかたちとなった。

 

カンパなどで金が貯まったら、また東京の厚生省前で訴えをおこないたい。

この活動は継続していきたい。

 

【カンパ】もお願いします。交通費と宿泊費に使わせてもらいます。

 

 

●ゆうちょ銀行(普通)

 金融機関コード:9900

店番:448

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「引きこもりに福祉を」訴えるプラカード

 

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経済困窮者に対する福祉を家族に押し付ける家族主義を批判します。

 

 

●デモの様子です(動画)

 


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 ◎ 厚生省職員たちに訴える


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【デモ声明文】

 

私は、「引きこもりに福祉を! 社会保障を家族単位から個人単位へ」という訴えをしています。

引きこもり問題とは貧困問題です。

具体的には以下の施策を要求します。
生活保護を個人単位とする
②住宅政策(賃貸・家賃補助+賃料の抑制)

 

これこらのアクションを通して、福祉の家族主義(無業者の面倒を家族に押し付け国がノータッチであること)を批判します。 これは、経済的自立できない障害者、主婦、介護者なども対象になる。

 

民法の扶養義務は、経済困窮者に対する支援を家族がおこなうように定めている。このような、福祉の家族主義によって、国は家族に福祉の機能を丸投げしており、経済困窮者に対する福祉を回避している。

 

福祉の家族主義(扶養義務)によって、家族のうち誰かが障害をもつなどで働けなくなると、家族が経済的に支えることになり、家族の共倒れをも招く。
 
これは、社会保障が家族単位であることの弊害である。
 
働けない者が家族に頼らなくてもよい生活保障を求めるのは、このためである。

 

家族から離れたくても、生活保護や住宅支援が受けられないため、家族から離れて「自立」した生活ができない。このように、当事者は家族に頼らざるをえず依存的弱者になってしまう。当事者がどのように生活したいかという自己決定ができない状況を生んでおり、「自立」を妨げられている。

 

「養ってもらっている」というのは自分への負い目となるだけではなく、相手に対して弱い立場となる。
 
また、社会からは「半人前」と見られる。「半人前」と見られることは、差別され尊厳を傷つけられることである。
 
このように、家族主義(扶養義務)は差別を生んでいる。

 

家族主義は性差別をも生み出している。
 
現在の、「男女とその間の子」を標準家族として、「男性:稼ぎ手/女性:家事・パート」をモデルとするシステムでは、経済的自立できない女性と引きこもりなどは家族の中の男性稼ぎ手に経済的に依存することになり依存的弱者になる。

 

社会のシステムが家族単位であることで、家父長的(女性抑圧的)な構造が作られ、男性に対して弱者(女性や障害者、引きこもりなど)を従属させるようになっている。

このように、家族単位のシステムは、性差別をもうみだしている。

 

社会保障を個人単位として、「自立」した生活が可能になるよう制度改革を求める

・国は福祉の機能を家族に丸投げしない=家族の扶養義務を緩める。

・誰と住むか、あるいは一人で住むか自己決定の自由が権利として認められ、必要な生活保障(生活保護+住宅政策)がなされる。

引きこもり問題は家父長制が生み出している

日本における引きこもり問題は、家父長制に基づく家族主義的な社会保障制度によって生じていることを指摘しておきたい。

 

「引きこもり」が問題とされるのは、以下の2つにおいてである。

 

①金の供給源がないこと

②居場所がないこと

  

※今回は①を取り上げる、②についてはアイデンティティの確立との関連で述べられるべきことであり、おいおい整理したい。

 

 

●働けない者の面倒を国は家族に押し付ける

 

働けない者に対する経済的支援は国に先立ち家族がおこなわなければならないとされており(民法における扶養義務)、家族に扶養能力が認められると生活保護は支給されない。障害年金が受け取れなければ、社会保障の網の目から漏れて金の供給源がなくなってしまう。

 

 

厚生労働省による生活保護制度の説明にも以下のように記されている。

 

生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します。

 

www.mhlw.go.jp

 

 

日本では福祉の機能を家族に過度に依存しすぎである。障害者、高齢者、ニートや引きこもりなど、その福祉(世話)を家族にばかり押し付けてきた。家族主義を都合のよいイデオロギーとして、国家は生産性のない者に対する福祉を回避してきたのだ。

 

引きこもりでも「家族に養ってもらっているから問題ないでしょう」と言われるが、私が問題としてるのは今の家族単位に基づく社会保障のあり方です。引きこもりなど経済困窮者の支援(福祉)を家族に押し付け、国が支援にノータッチであることを批判している。

 

 

●引きこもり問題は家父長制により生まれている

 

引きこもり問題で何が批判のターゲットにされるべきかというと家父長制である。

 

日本の税制や社会保障は家族単位でなされている。単位となっている家族とは、「男女のペアとその間の子」である。

 

「男女のペアとその間の子」を標準家族として制度的特権を与えている家族主義的な現行制度は、家父長的(女性抑圧的)である。

 

年金の第3号被保険者制度や「103万円の壁」と呼ばれる税制も、稼ぐ夫とその経済力に依存する妻という構造を前提としたものである。

 

戦後のサラリーマン(年功制)という働き方は、長時間働く男性とそれを支える主婦というジェンダー秩序を生み出し、主婦パートの低賃金や103万円の壁によって、女性の経済的自立は阻害され、女性は男性に経済的に従属する立場に置かれる。

 

 

伊田広行『シングル単位の恋愛・家族論』では、以下のように指摘される。

結局、職場における年功システム(年功序列賃金、終身雇用、家族賃金)は、家族単位で考えている制度で、男性を会社人間にする一方、女性を中核ルートから排除し、女性を二流の労働者(パート、補助職、一般職)とする制度である(p.13)。

 

男女のどちらが稼ぎ手になるかは制度では決められてないが、男女の賃金格差は大きく【注1】、男性が稼ぎ手となる方が世帯収入が有利となる。男性優位の経済構造が男性が稼ぎ手となるようプッシュしているのである。

 

扶養義務により、女性だけでなく、経済的自立ができない者も家族の中で経済力がある者(=稼ぎ手男性)に依存することになり、従属的な立場に置かれてしまう(養われていることは、それだけで負い目を感じさせる)。

 

このように、経済的弱者が家族の中の男性稼ぎ手に養われ依存することで、ますます稼ぎ手男性の立場は強いものになる。現在の家族主義的な社会保障のあり方は男性稼ぎ手の権力を増長する仕組みになっていることから家父長的であると言えるのである。

 

【注1】

男女の賃金格差(男性を100とした場合)は73.4となっている(賃金構造基本統計調査、2017)。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2017/dl/01.pdf

 

 

 

●家族主義が依存的な弱者を生み出し、差別を助長している

 

社会の最小単位が家族となり男女の二人がペアである事が標準とされることにより、ペアにならず一人のままでは不完全な状態であるという意識が生まれる。

 

男女で一つの単位とする家族主義的な発想こそ、差別を生み出しているといえる。家族主義が強いと、未婚者やシングルの人が「半端者」と見られる。

 

家族主義は、経済的自立ができず家族をつくれない者をも差別する。

 

経済的自立ができない障害者、引きこもり、無業者などは「半人前」と言われて劣った者とされる。

ある属性に属する人を劣ったものと見なし、冷遇することは差別である。「半端者」「半人前」という言葉には差別が含意されている。

 

日本では民法における家族の扶養義務のため、経済困窮者(経済的自立できない者)は家族に支えてもらうことになる。他人に養ってもらってる者は「半人前」と見られてしまう。他人の経済に依存することによって、「自立」ができず、従属的な地位に置かれてしまう。

 

このように、家父長的な家族主義的制度が、引きもりなど「半人前」と呼ばれる依存的弱者を生み出し、差別を作っていると言える。

 

家父長制に基づく家族主義的な社会保障システムにより、経済的自立ができない者への金銭支援がなく、福祉の空白が生まれている。引きこもりの人の「自立」のためには福祉が必要である。


家族主義は男女を一つの単位する発想であり、男女の二分法を前提として成り立っている。経済構造と制度が相まって性別役割が生み出され、女性(経済的弱者)を男性に従属させることで、性差別が維持・強化されていることも指摘した。

 

差別を生み出す男女のジェンダー二分法を乗り越えるためにも、家族主義を見直さなければならない。

 

 

 

※引きこもり問題が家族主義・家父長制に基づくことについては、伊田広行氏の『シングル単位の社会論』を読んだことで得た知見から導き出した結論です。今後の引きこもり問題への議論の切り口となってほしいところです。

 

 

 

 

 

※過去関連ブログ記事

 

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キムチ作り

韓国の家庭では冬にキムチを漬けます。

 

キムチ作りを何度かしているので作り方を載せます。材料の目分量は適当です。適当でも美味しくできます。動物性のものを使ってません。

 

【材料】

 

白菜1/4玉

玉ねぎ  1/2

人参  1/2

大根  1/4

にんにく 3かけ

しょうが 5切れ

りんご 1/2個

ニラ  5本

 

唐辛子の粉 50g

 

水 200ml

塩 大量

 

※ にんにく、しょうがなどは面倒ならチューブでもいけます。

 

(1)白菜を塩漬けにする

白菜の葉っぱ一枚一枚に塩をまぶしていきます。塩を塗る感じです。芯のところにも塩を練り込む感じで塩を惜しみなく使う。

 

 

(2)塩をまぶした白菜を一日常温におく

ボウルなどに白菜を入れて袋などに包んで、半日〜一日常温で放置します。時間が経つと白菜から水分がたくさん出て、しんなりします。

 

 

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塩漬けで一日おいた白菜はしんなりする

 

 

(3)ヤンニョムをつくる

ヤンニョムにするものをボウルに入れていく。

 

・玉ねぎ、にんにく、しょうが、りんごは摩り下ろす。

・大根、人参は短冊切り

・ニラは5cmに切る

 

以上に水と唐辛子を入れて混ぜる。ヤンニョムの出来上がり

 

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(4)ヤンニョムを白菜に練り込む

白菜の水分を切ってヤンニョムを練り込む。

白菜の葉っぱ一枚一枚にヤンニョムを塗っていく。

芯の方にヤンニョムを押し込むように塗る。

 

 

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(5)3〜5日ほどで完成

常温あるいは冷蔵庫に2〜3日ほどおけばキムチの完成です。白菜を包丁やハサミで切って食べやすい大きさに。

 

キムチは保存がきくので便利。そのまま食べてもよいし、焼き飯、チゲ、スンドゥブ、炒めものと色々調理できます。冬はラップをかけて常温でも大丈夫。

 

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手作り味噌

味噌を自分で作ってみよう。

 

年明け頃が味噌の漬けどきです。

 

市販の味噌は、化学的に培養された菌を使い、味噌のタンクを温めて無理矢理に発酵させ3ヶ月くらいで作るそうだ。自分で作る味噌は化学薬品を使わず、自然発酵の過程でアミノ酸もたっぷり出る。カメひとつ分でかなりの量の味噌ができます。

 

 

【材料】(できあがり4.5kg)

大豆1kg、塩500g、米こうじ1kg

 

 

【用意するもの】

・鍋(圧力鍋が便利)

・バランなど味噌をカバーするもの。

 →私は山の中で笹の葉を取ってきてカメの口に合うように切った。

・小石(重石用、その辺で拾う)

・ボウル

・ゴンベラ

・マッシャー

 

 

(0)前日に大豆を水につける

※圧力鍋の場合は水につける必要はない

 

(1)カメや小石等を洗う

・カメはお湯をかけて消毒。

・小石は沸騰させたお湯に入れ、取り出したら塩水に浸す→石の表面に白い食塩がうっすら付きカビ防止になる。

・バランは塩水に浸す。

 

 

(2)大豆を煮る

圧力鍋なら10~15分くらい。普通の鍋なら5時間。

 

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(3)大豆をつぶす

煮上がった大豆をザルにあげる。煮汁は使うので保管しておく。

大豆をマッシャーなどで潰す。ビール瓶の底でもいける!

 

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(4)つぶした大豆に塩と米こうじを混ぜる

とっておいた煮汁を少しずつ入れながら混ぜていく。

 

 

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(5)30分ほど放置

 

 

(6)かめに仕込む

①カメの側面に味噌が付かないように丁寧に入れていく(内側が汚れたら食塩水で濡らした布などでふく)。

②ゴンベラで表面を整える。

③バランで隙間なく敷き詰める。

④小石をのせる。

⑤カメにラップをする(発酵液の蒸発を防ぐ。ハエなどの侵入を防ぐ)。

⑥カメに蓋をする。

 

 

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①②の過程

 

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味噌の表面を笹の葉で敷き詰める

 

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小石を敷き詰める

 

 

 

(7)日の当たらない常温下で保存。一年おけば出来上がり

 

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一年おいたら出来上がり

 

社会保障の強化のために

現代社会では金は生存に直結する

 

障害はインペアメントとディスアビリティに分けられて考えられる。

 

社会モデルは、社会が負担を負えば解決する障害のことをディスアビリティと呼ぶ。そして社会が負担を負っても解決しない障害はインペアメントとする。

 

(「まえがき」石川准・倉本智明編『障害学の主張』、p.3)

 

 

 

現代資本主義社会では、金が無いと生きられない。金は命に直結する。

 

野菜の自給をしようにも、自然の別名であった土地は市場経済の中に組み込まれてしまい、金と社会的信用がなければ土地にはアクセスができない。

 

障害など何らかの事情で働けずに稼得能力がない者は、金を得られず死んでしまう。金があれば生存はできる。経済困窮者への再分配は、ディスアビリティの問題だと言えないこともない。

 

すべての生の生存が保障されるためにも、「金がなくて生きられない」というディスアビリティが解消されなければいけない。そのために社会保障がなされるべきである。

 

「命は最上位におかれ、人はその業績や属性に関わらず無条件に尊重されなければならない」というのは生の道徳であり、これ以上はさかのぼれない最終的な公理と位置づける。

 

私たちは、殺人や差別を禁止している。これは、人権が根拠となっている。

 

他者の人権を尊重するのは、自分の生命や尊厳、自由が守られるためでもある。

 

他者を否定したりおとしめることが許されると、公準として自分も否定されたりおとしめられる。

 

これは、戦争になる。

 

自分の存在が肯定され尊重されるためにも、他者に対する否定やおとしめがなされてはいけない。自由の相互承認が求められるのだ。

 

自由の相互承認が守られなければこの世の不幸は無くならない。

 

 

 

 ●財の配分のあり方を見直す

 

 社会保障が拡充されるためには、所有を正当化する論理を組み替えることにある。

 

 所有とはなんだろうか。所有は持っていることと同じではない。たとえば、あなたが隣に座っている人から黙ってペンを取り上げたとしても、あなたがこのペンを所有していることにはならない。

 なぜだろうか。それは、持っていることを他人から承認されていないからだ。持っていることを他人から認められて、はじめてそれは所有となるのである。つまり、所有とは承認された占有にほかならない。

 

佐々木隆治『カール・マルクス』p.160

 

 

 

 

現代における資本主義社会では、市場を通して得た財や貨幣の所有こそが正当なものとみなされる。市場を媒介とした所有が正当であるという観念が強すぎるから、生活保護など市場を媒介しない所有が非難されたりする。

 

しかし、所有を成り立たせる承認のあり方は、もともと市場によったのではない。

前近代において、所有は人格的関係に基づいていた。封建領主の土地の所有権は封建領主としての身分に基づいていたし、古代ローマ市民は、彼がローマ市民であるがゆえにローマの土地の私的所有権が認められた。

 

 

原始社会では集団の中で互酬や再分配が働き、集団の飢えはあっても個人の飢えはなかったとされる。ポランニーは、利得を目的とした商品の交換をおこなう市場経済が浸透してから個人の飢えは生じたと述べている。ポランニーが引用したが、人類学者マリノフスキーによる原始社会とされるカフィール族の社会では「窮貧生活はありえず、援助が必要なら誰でも問題なくそれを受けられる」と飢えの脅威がなかったと報告された。

(カール・ポランニー『経済の文明史』) 

 

 

資本主義社会においては、商品や貨幣という物象の力が所有を成り立たせるようになる。

佐々木隆治、前掲書、p.161)

 

 

財の分配のなされ方が市場経済に強く依存している社会、つまり市場の論理が強い社会では社会保障(市場を介さない財の分配)は貧弱になる。そして、その社会に適合できずに生存を脅かされたり、生きづらさを抱える者が出てくる。

 

既存の財の配分のあり方では《ある人》が生存できなくなることが問題なのである。その《ある人》が「生きさせろ」と声をあげて、既存の財の配分のあり方に対して批判することはもっともだ。そういった主張をもとに障害者運動があった。

  

しかし、今、市場の論理を全面否定するのは現実的ではない。まだ可能性のある方向として、市場の論理を弱めるか(相対化)、それとは違う論理を付け加えることが挙げられる(価値の増殖)。

 

生の肯定、つまりすべての人の生存が保障されるように再分配が強化されるためにも、能力主義に基づく私的所有の原理が弱まる必要がある。

 

まず、本人の能力で得た富は本人が独占してよいとは言えない。その人の能力はただ一人の努力によってのみ形成されたのではない。その人の能力も親、学校、環境など社会によって培われたと言えるからだ。ならば、能力で得たものはある程度は社会に還元すべきである。

 

自分の能力で得たものは自分だけが所有してよい、そのような能力主義に基づく私的所有の原理が強すぎては、金を生み出す能力がない障害者などは何も取り分が無くなる。

 

立岩真也さんの話(「ないにこしたことはない、か・1」『障害学の主張』)

から私も思った事は以下である。

 

本人ができるようになる事で、本人の快や便利さが増すならできた方がよいが、その必要以上には、できても、できなくてもよい。できなくても、他の誰かが負担して社会の総量でできるようになったらそれでよいのではないか。

 

みんなが能力をもつようにしよう、落ちこぼれを出さないようにしよう、という考えが強すぎる社会は、できない人を抑圧する。 みんなが有能でなくてはいけないという能力主義への信奉が強い社会では、真の落ちこぼれはより疎外される。 目指すべきは、落ちこぼれても安心して生きていける社会である。

 

財の所有の正当化の論理は歴史によって変わった。ならば、財の分配のあり方を組み替えることはこれからも可能である。

すべての人が生存を保障される社会になるためにも、財の分配のあり方が見直されるべきだろう。

 

 

 

 

※財の配分のパターンについては以下を参照ください。

 

nagne929.hatenablog.com

 

家族と同居する経済困窮者が社会保障を受けられない問題

民法における家族の扶養義務が家族と同居する経済困窮者を追い詰めるという問題を提起する。これは、実家ぐらしの引きこもり・無業者などの経済的問題を生み、「自立」の妨げとなっている。経済的自立できない主婦や介護者も対象にする問題でもある。

 

私は、実家ぐらしで月6万円のアルバイトをしている。経済的自立ができない者である。

よく実家から離れたいと思うが、貯金がなくアパートすら借りられない。保険などでアパートの部屋を借りたとしても、一人暮らしができるほど稼げない。

 

私は、自身の陥っている問題と、その問題を生んでいる社会保障のあり方について指摘し、そして実家ぐらしの経済的困窮者への施策としてなされるべきことをツイートで提言した。

 

このツイートは少し注目された。

 

 

 

 

 

https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085478058851586049 

 

結論、すなわち政策提言から言うと以下の通りである。

 

https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085519008235810819

 

 

私は、障害者手帳の等級は3級だが障害年金はもらえそうにない。以前、役所に生活保護の相談に行ったが「家族に面倒見てもらえ」と言われ引き返さざるを得なかった。

 

【余談】

その時は、友人とルームシェアしていたのだが、ルームシェアしている状況でも生活保護は認められない。生活保護を受けるためにはカップルや友人同士の同居が認められず、保護を受ける代わりに人間関係が分断される問題がある。これは、ますます保護者の孤立につながるという問題がある。

 

 

 

経済困窮者はまず家族に面倒をみてもらえ、それが無理なら国が面倒を見るという家族主義が強いため(家族の扶養義務=家族を福祉の機能と位置づけている)、経済困窮者は経済的支援を家族に依存せざるを得ない。家族間に軋轢があり同居が難しいと認められれば、生活保護を受けられる場合もあるが、家族とそこまで衝突がない場合、扶養義務により家族に経済的に頼ることになり、家族との同居しか選択がなくなる(実家に縛り付けられる)。生活保護受給者や年金受給者の場合とちがい、経済的支援がない実家ぐらしの人は金の供給源がなく、家族に頼らざるをえなくなる。

 

民法の「家族の扶養義務」があるため、経済困窮者を家族が養うことが義務とされ、実家から離れ一人暮らしをしたくて生活保護を受けたいと思っても、実家から離れられないという問題がある。

 

また、実家に暮らしており家賃や水光熱費がかからないとしても、金がなければ何もできない。所得0の人は親などから小遣いをもらうことになり負い目を感じながら生活をしなければいけなくなる。人としての尊厳が失われうる。

 

 

反貧困ネットワーク埼玉の代表をされている藤田孝則さんからも若年層の社会保障の未備として引用RTで紹介され、多くの人から反応をもらった。

 

 

 

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私のツイートに対し、ブログなどで交流のあるよしりんさんが日本の社会保障の問題を的確に指摘いただいた。

 

 

 

 

 

 

↑ 訂正 リプ元ツイートの「親兄弟」→「親子兄弟」(正確には先程の民法の項目参照)

 

 

 

 

よしりんさんは、障害学や社会学などをもとに「生きづらさ」についてはてなブログに記事を書いておられて、卓抜した知見を提示されている方です。

 

以下の記事は、「すべての人が生を否定されず、尊重されなければいけない」ことを丹念に論じられている内容で、「生存権」(社会保障)と「個人の尊重」といった私たちの生の根幹となる部分をどのような考え方で支えられるかが述べられています。 

 

tunenao.hatenablog.com

 

 

 

 

●「自立」の意味と、家族と同居する経済困窮者に求められる施策

 

僕は就労困難で経済的自立ができない者を、現代の社会システムに適合できない者として制度上は「障害者」と扱い、社会保障がなされるべきだと考える。

 

その上で、障害者の「自立」がどのようなものか、自由の保障という観点から定義づけて良い。

 

自分がどのような生き方をしたいか自己決定の自由が尊重され、それが保障されるという考えにのっとって、「自立」の意味は以下でよいと考える。家族の扶養義務は「自立」への障壁として機能していると言える。

 

障害者の「自立」という言葉は、近年、経済的な自活という意味ではなく、自らの生活を自らの意志で決定するという意味に用いられるようになった。

 

立岩真也『生の技法』(第二版)p.91-92

 

 

● 家族の扶養義務が生み出す問題

 

生活面、経済面に困っている人に対して家族が優先的に面倒を見るべきだという家族主義はイデオロギーであり、家族の扶養義務には論理的根拠はない。

 

障害学の分野では、立岩真也さんが家族の扶養義務には正当性がないと主張する。

 

 

 ここで問われているのは家族の義務である。家族に義務が課される根拠はあるか。

   法律的な根拠という意味なら義務はある。民法は義務を課している。生活保護法、その他福祉関係の法律もこれを受けている。しかしそれに正当性はあるか。家族が家族の面倒を見るのはよいこと、うるわしいことかもしれない。しかし、ある人達が家族を形成すること、家族という関係の中にあること、その家族のメンバーに対して相互に「義務」を課すことをつなぐことができるか。夫婦であることと、一方が他方の面倒を見ることとは別のことでありうる。無論、面倒を見ようと思う人がいてもよい。しかし、そのことと面倒を見る義務を他人が課すこと、国家が課すこととは全く別のことだ。夫婦の間に義務を課すことを正当化する根拠は見つからない。親が自らの選択で子を持つ以上、子に対する親の義務の全面的な解除はできないという考え方はありうる。しかし、少なくとも成人後、家族のもとで家族に面倒を見てもらって暮らさなければならない理由はない。子の障害によって必要になることを親がしなければならない理由はない。

 

立岩真也『生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(第二版)p.361-362

 

 

▼ 家族の扶養義務があることでむしろ、家族をつくり維持することの障壁となる

 

例えば障害のある人とない人が結婚した場合、介護加算を含む生活保護費が支給されなくなるので、生計も介助も一方の側が支えなければならないことになって、生活の維持が難しくなるという。扶養義務が結婚(同居)や出産を抑制させてしまう。

 

(立岩、前掲書、p.362参照)

 

▼ 扶養義務があることで子の自立が妨げられる

 親との関係では、障害がなければ、成長するにつれ、身のまわりのことで依存することがなくなり、そして経済的にも独立し、その上で親との関係がつくられていくのに、その関係が成り立たない。それはまたその人自身が家族をつくっていくことを困難にしていく。家族によるべきでないのは、家族の負担が大きすぎるからという理由だけからではない。負担可能であっても義務を課す理由はなく、家族とのよい関係を保っていくためにも、義務を課すべきではない。

 

 (立岩、前掲書、p.362より引用)

 

生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学

生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学

 

 

▼ 介護疲れ、引きこもり家族の疲れ、など

 親の面倒を子は見なければならないという家族主義を内面化した意識が強いがために、認知症や高齢の老衰した親につきっきりで介護をして、介護疲れで親を殺したり心中する事件が相次いでいる。

 引きこもり家族が関係をこじらせ、家族と離れたほうがいいのに離れられず、暴言や暴力、さらには殺人にまで至ることもある。

 

 ●社会保障は家族単位からシングル単位にすべき

 日本の社会システムは家族単位でできている。

 

家族が社会での単位であることは、単位の中の構成要素(夫、妻、子、障害者、高齢者など)は部分でしかなく、各人(家族の個々のメンバー)は一人前(主体)ではないとみなされる。また標準家族をもてない者は「半端者」と見られる。「半端者」見られるとは差別されることである。家族単位の社会は差別を生み出している。

伊田広行、前掲書、p.40-41)

 

経済力格差は自己決定・自由・権力の基礎である。「養ってもらっている」というのは自分への負い目となるだけでなく、権力関係から相手に支配されうるし、支配されても従わざるをえない時が多くなる。

 

扶養されるということはこういう問題をはらむ。そして、扶養を法によって義務とすることで支配ー被支配の関係がつくられ、いびつな人間関係や人権侵害が生まれる温床になる。

 

愛の名のもとで、干渉や強制や依存、暴力が悪気なくおこなわれる。家族はブラックボックス化しやすく、市民社会ではあり得ないことが起こっても明るみにならず、外部の者が介入しにくい。治外法権になりやすい。

 

このように、扶養義務が強ければ経済困窮者は家族に経済的に依存せざるをえず、弱者に転じうる。個人単位で社会保障生活保護など)がなされれば、家族への経済的な依存を減らし、「自立」もできるようになる。

 

シングル単位化は、高齢者や子ども、障害者、疾病者を「家族による保護の客体=弱者」とみず、「権利行使の主体」とみることを意味する。

伊田広行、前掲書、p.138)

 

当事者が、依存的弱者になるのではなく、「自立」=自己決定の保障がなされるように制度改革が必要である。

 

私は家族主義を否定しているのではない。家族の扶養義務によって当事者が「自立」できなくなる、つまり選択の自由がないことを問題としている。

 

社会保障は家族単位でなされるべきでなく、シングル単位でなされるべきである。