生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

居場所イベントします(大津)

1月に大津にて社会で孤立しがちな人たちの居場所をつくる集まりをします。今後月1回のペースでやりたいと思います(アメブロに告知をしています)。

https://ameblo.jp/haruchan19860929/

 

【初回日時】2019年1月14日(月・祝) 14:00〜17:00

【名称】居場所カフェ

【場所】大津市市民活動センター1F 交流スペース(パーティションで区切られた円卓)

http://movementotsu.com/access.html

 

【やること】集まって話したり、ぼんやりしたり(自分の作業をしてもいい)

【対象】どなたでも

   生きづらさを抱える方、孤独を抱える方、「普通」に生きるのがしんどい方

 

【本イベント主催の経緯】

 私は大学院を中退して仕事をしたものの、障害などの理由もあり、どの仕事も中々続かず、経済的自立ができない者です。しっかりできない、頑張れない者です。私自身も社会で居場所がなく、孤独を感じている者です。

 

 社会で「普通」とされる生き方にしんどさを感じ生きづらさを抱えている人たちがいるようです。仕事ができない、あるいは人に認められる何らかの能力をもっていないと他者と繋がることができず、社会で孤立してしまい居場所がなくなってしまう状況です。このように、社会に適応できずに孤立しがちな人の中でも、一人孤独に過ごすのではなく、人との交流を欲している人もいるでしょう。そういう人たちが、がぼちぼち集まってのんびりと交流できる場を設けたいと考えています。

 

・話してもいいし、話さなくてもいい。

・自分のやりたい作業(読書・パソコン・スマホetc)をしていいです。

・言い合ったりはしない。助け合いの精神で。

 

(会場は食べ物禁止です。飲み物は可。100円でオーガニックコーヒーが飲めます)

 

 

質問等ございましたら、ツイッターのDM、もしくはブログトップのメールアドレスに連絡ください。

個性を求められることのしんどさ

以前、恥を覚悟で私の苦しさをブログに書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

この苦しみは、私が自己アイデンティティを確立できていないゆえから生じているのだろう。

 

活動や表現活動がうまくできない、センスがなく他人から反応が薄く自己アイデンティティがグラグラしてる。私には高尚な部分もあるし下劣で未熟な部分もある。どっちつかずであることなど。

 

 

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

アイデンティティとは他者との関係性のなかで立ち現れる。

 

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される

 

千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269

 

 

 

 

自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

しかし、この自己アイデンティティというものを示していく作業はしんどいものだ。

 

自己が何者であるかを表現するのは難しい。自己の内面を表現する言語能力やアートの能力が必要とされるからである。

 

ゆえに、表現能力にハンディをもつ人にとって自己表現は難しく、他者からもその人がどんな人なのかうまく認知されず承認を得ることも難しくなる。このようなコミュニケーション弱者(コミュ障などと呼ばれる)は自己表現がうまくできず、他者との関係の中で自分が何者であり、何を考えているのかを示すことができず、結果、他者から受け入れらない、あるいは、自分が示したい自己とは違うイメージが他者から認知され、居心地の悪さや生きづらさを感じるのである。

 

 

他者から自分を認知してもらうには、絶えず自己アイデンティティ(自分は何者なのか)を示していかなければいけない。自己アイデンティティとは他者との差異=記号である。

 

現代消費社会においては自己アイデンティティも記号として他者から消費されるのである。

私たちは、社会のなかで誰かから反応され受容されるためにも、自己アイデンティティ(=個性=自分らしさ)という記号を他者に示していかなければならない

 

そして、自分は何者であるか自己のオリジナリティが示せないと不全感に陥ることになる。

 

 

現代消費社会においては、絶えず新しい何かを生み出さないといけないと駆られ、私たちは常に他者との差異を示し自己のアイデンティティを際立たせることを迫られているからだ。

 

現代消費社会においては、モノにまとわりつく記号や観念が消費されるというのは社会学ボードリヤールが示している。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

差異の提示、これは、競争(他者と比べて自分はどのように違うか、どのように優位なのか?)、あるいは、成長・改革(過去の自分と比べて今の自分の違いを示す、あるいは、「今の自分のままではダメだ」と思ってしまうこと)といった言葉で語られるのである。

 

 

この社会では他者から承認されるには、金を稼げるか、人の役に立つか、面白いことができるか、など生産性や有用性といった条件を求められる。 ゆえに、それらの魅力資源がない弱者は他者に示せる自己アイデンティティすら持つことができず存在そのものがまなざされることもなく、承認もされない。 それによって、疎外感を覚えしんどさを感じるのである。

 

 

ブログを読んでもらえればわかる通り、私は自己表現が極めて下手くそである。そして、表現能力が乏しいゆえに、何か新しいことを示したり、他者との違いを示すような言語能力をもてない状況にいる(能力をつけるにはトレーニングしかないが、それもキツい人はどうするのか→私は本を読んだり文章を書くのがしんどくなってきている)。

 

絶えずオリジナリティ(=他者との違い)を提示することを迫られるのがしんどいのである。

 

だいたい、自分のオリジナリティを他者との違いによって示せる人がどれだけいるのか。みんな、「普通」や「大きな物語」に合わせて自分を語っているだけで、自分はオリジナルだと錯覚しているのではないか。

 

この記事では、個性(=他者との差異に基づき自己アイデンティティを示すこと)を求める社会は息苦しさを生むという問題を提示した。

 

「自分らしさ(=個性)を示すなんて、こりごりだ」と開き直ってしまうのがよいのかもしれない。

 

有用なことを示さずとも、キャスなどもだらだら気の向くまま適当に語るのがいいのかもしれない。

 

うまい打開策が見つからない。コミュ障の当事者研究などやるのがよいのかも。テキトーになれれば楽になれそうなのだがねー。

恋愛してもしなくてもよい

ネット上で47歳の童貞の人が「もう結婚できない」と嘆いていて、話題になっていた。

 

anond.hatelabo.jp

 

 

童貞の苦しみはあると思う。男性は「女性とたくさんセックスしないといけない」、「結婚できないと恥ずかしい」とった男性性の価値意識を内在化してしまい、こじらせることで苦しみに至る人がいる。

 

「男たるもの女の一つでもモノにしなければいけない」という言葉がよく男たちの間で交わされる。

 

女をモノにすることで、男同士は性的主体としてお互いを認めあい連帯を深めようとする。童貞や非モテは「男になりそこねた者」という扱いを受けて、男の階級の中で劣位に置かれてしまう。男は男同士の中でよいポジションを得るために、男として認められるよう童貞を捨てよう、恋人をつくろうと必死になるのである。

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

そういう男性性の価値意識は、女を性的客体としてモノ化するだけでなく、男は女を支配の対象としてまなざすことになる。それでは、相手を人として尊重する意識がないがしろにされやすい。

 

「童貞は恥ずかしい」という言葉には、「男は女をモノにして当たり前だ」という価値観が前提としてあり、女性の人格や性的主体性は軽んじられ、性的な客体としてのみ女性を対象化している問題がある。童貞いじりは究極のミソジニーであるといえよう。

 

 

 

この社会は「恋愛」を持ち上げ過ぎである。古典、小説、ドラマでのテーマは「恋愛」ばかりであり、文化によって「恋愛は素晴らしい」という価値観が常に生産されている。「恋愛はよい」という価値観はあってもいいのだが、それが強調されることで、恋愛しない人・恋愛できない人が圧迫される。

 

恋愛はみんなができるものではない。性愛にはコードが存在し、人間関係形成のトレーニングあるいはテクニックが求められる。「恋愛工学」という言葉が示すとおり、恋愛は自然発生的に起こるものではなく、作為をもって成されるものである。性愛のコードは論理のコードではない。恋愛至上主義は理知で動く人をますます息苦しくするだろう。

 

恋愛が重視される社会では、性愛の関係があらゆる関係において優位とされる。「異性との親密な関係」に高い価値が置かれる。 あらゆる人間関係の中で「異性との親密な関係」のみが特権化されるが、そこには論理的な根拠はない。 私たちは、この無根拠な価値観によって異性と親密になり恋愛関係にならなければいけないと煽られている。

 

「恋愛やセックス経験の多さなどどうでもいい」と言うことで、社会を支配する異性愛秩序が相対化されるべきだ。

 

 

人から愛されることがみんな素晴らしいというが、誰からも愛されなくても人はそれ自身で尊い

 

「愛されても愛されなくても私は肯定される!」と言おう。

近況(半ニートの苦しみ・・)

弱音をはきたい。

 

大学院博士課程を辞めて2年半が経過したが、状況は良くない。

 

実家ぐらしの半ニートである。

 

私は、徹底的に無能である。仕事はできない起業もできない。ブログもアフィリエイトの審査で落とされた。とはいっても一日100PVもいかない弱小ブログであるが。

 

学生時代や大学院時代の人は離れていった。何もしていない(=生産的で有用なものを生み出せない)私のような人間は、誰からも相手にされない。

 

誰かに会っても「大学院辞めて、何をしているのか?」、「何か面白いこと、有意義なことができなければいけない。金を稼げるような能力がないといけない」という有音・無音のプレッシャーを受ける。

 

人の言葉あるいはネットなどの情報から、「生産的な人間であらなければいけない」、「有用な価値を生み出せる人間ではなくてはいけない」というプレッシャーを受けるたびに、息苦しくて頭が締め付けられるように痛くなる。

 

私は何もできない。生産的で有用なことをしなければ社会的承認が得られないという地獄をこれでもかというほど味わった。

 

私は、以前ブログで「何もしなくてもいい。何かをしなければいけないというプレッシャーから自由になりたい」と書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しかし、一方で何かしら成さなければならないというプレッシャーは隠すことはできない。やはり、人間は承認の生き物であるからだ。

 

今は、ツイッターやブログで知り合ったわずかな人との交流で生かされている感じだ。感謝している。しかし、京都には誰も会ってくれる人はいないので寂しさを感じている。

 

 

 

私は、7月に神戸から京都の実家に帰った。前にルームシェアしてた元同居人から家から出ていくように言われたからだ。元同居人は寂しがりやだったのに私があまり構わなくなったのが原因だろう。しかし、ルームシェア(事実上の居候だったが)していたら、毎日会うから話すことも無くなっていかないだろうか?

 

私は、一人暮らしできるほど労働ができない。前のバイトは9:00-18:00勤務の週3やってたが、体調不良をおこして休んだり早退をよくしていた。稼ぎは月10万もいかない。

 

なので、実家に戻るしかなかった。

 

7月はまるまる野宿旅行をしていた。京都ー和歌山100km歩いたり、埼玉から仙台まで420km歩いたり。琵琶湖に泳ぎに行ったり。

 

旅をしている間は爽快だ。悩みや不安なんて歩いているうちに吹っ飛ぶ。歩き終わったら食事の準備やトイレで体を洗ったり洗濯をしたりして時間はあっという間に過ぎていく。

 

野宿旅は金ができたらまたやってみたい。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

10月からはバイトをようやく見つけた。生活については実家の世話になるが、活動費や通院費は自分で稼ぎたい。

 

私は、もう仕事は全然できないし、本を読んでも頭に入ってこない。ブログでも何か独特な知見を生み出せるわけでもない。諦念を覚えつつある。もがけばもがくほど、何も有為なことを成すことができない虚しさからの苦しみを感じる。

 

しかし、何もせずにじっとしていられないので何かをしてしまう。しかし、人から評価されることは全くできないので、またもや自己肯定感を失い、苦しさが襲う時もある。

 

 

図書館で鶴見済完全自殺マニュアル』を読んで、自殺した漫画家の山田花子さんの言葉に目が止まった。

 

「何の取り柄もなく人に好かれないなら死んじまえ」

 

 

私は言いたい。

 

「何の取り柄もなく人に好かれなくても、ぼちぼち気楽に生きられないものだろうか」

生活保護制度の隠れた問題点

ざっと書く。

 

 

・単身居住を求められる

 

私は、以前役所に生活保護の相談に行ったことがある。その時は、知人の男性の家に同居させてもらっていた。生活保護を受給するためには独身者の場合、単身にならなければいけないと言われた。生活保護制度は本人の「自立」を目指すものであり、誰かと同居していることは「自立」とは認められないためだという。シェアハウスなどで暮らしている人の生活保護受給も認められないだろう。

 

知人や友人と暮らしていた者が、生活保護を受けるために単身世帯となって一人暮らしをするようになれば、ますます社会から孤立していくようになる。生活保護制度はなぜ人との繋がりを断ち切るような仕組みにするのだろうか。一部は仲間に支えてもらい、不足する分は生活保護で助けるという仕組みになればよい。

 

 

 

・モノがもらえない

 

私は、生活保護受給者の知り合いで、受給保護を受けていてもなお生活が困窮してしまう人を見てきた。フードバンクの利用も生活保護受給者は受けられないという話も聞いた。私は、その方への食料などの物資の支援をツイッターで呼びかけたのだが、「生活保護受給者は寄付などを受けるのはルール違反だから、送ってはダメだ」とツイッター上で注意を受けた。生活保護受給者でも最低限度の生活に困っているのに、それは自業自得だからと見殺しにするのか?

 

 

人が生活するにあたって活用するのは「自助」「共助」「公助」の3つである。

 

「自助」は、自身の経済活動や自給などで自分を支えること。

「共助」は誰かに助けてもらうこと。

「公助」は、「自助」と「共助」だけでは足りない部分を公による再分配として支援されることである。

 

人間は生きる上でこの3つを組み合わせて生きれば良い。自力で生きようが人から助けられて生きようが自由である。

ところが、生活保護制度(「公助」)は、受給者に対して「自助」による生活再建しか許さない。他人から助けられて生きることを許さないのである。こういう仕組みも、人との繋がりを断ち切るものとして作用している

 

 

生活保護制度は、憲法における生存権健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)を保障する仕組みであるので、就労意思を問うことや一人暮らしを強制するといった条件をつけることは本来的にはおかしいはずである。

 

そして、生活保護制度のいう「自立」や「自助」を受給者に求めれば求めるほど、受給者が人との繋がりを創造することを妨げたり、繋がりを断ち切る作用があることを指摘しておきたい。

踊れ踊れ!!

しんどい時、モヤモヤしている時、乱れたように体を動かしたり叫んだりしたらよいのではないか。「変な人」になればいいと思う。世の中では「変な人」は異常だとされ精神病院に隔離されるなどされるが、「変な人」は「変な人」として社会に包摂されればいいのである。

 

知人から踊り手の飯田茂美さんの話を聞いた。

 

白目をむいたり、体をぐにゃぐにゃさせたり、「ふにゃ」など声を出したり、普段はしない体の動きをしたり叫んだりすることが日本の村に伝承されていた健康法だという話を聞いた。

 

詳しく書かれたブログはこちら

 

messia.com

 

 

私は、以前、踊り念仏をやっていた一遍上人について本を読んで素晴らしいと思った。踊りながら念仏をとなえ、みんなで狂乱して踊りまくる。圧倒的に無駄であることがよい。

 

 

死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝

 

 

 

この著者のアナーキズム研究者の栗原康は盆踊りについて述べる中で、踊りのラディカルさについてこう答えている。

 

鎌倉時代の一遍が広めた「踊り念仏」は、頭をガクガク、体をグニャグニャにゆりうごかし、まちがった身体のつかいかたに徹していくことで、自由奔放に生きる身体感覚をつかむもの」だったという。

 

 

 

Q.踊りのアナキズム、ラディカルさとはどういうことなんでしょうか?

 

栗原 

圧倒的にまちがえるってことです。まちがった身体のつかいかたに徹していく。ふだん僕ら、自分の身体を有用につかうことばかり考えさせられています。一人前の大人になるとか、カネをかせぐとか、出世するとか、他人によくみられたいとか。できなきゃ、おまえ無用だよということですが、それってどうなんだよと。できないやつが虐げられるし、ずっとオレ役にたつ人間なんだといいつづけるのって精神的にもきびしいですからね。一遍は、そういう身体感覚をぶっ壊そうとします。

 踊るってことは、ひとが子どもにもどることなんだ、獣にもどることなんだと。子どもみたいに、獣みたいに、足をバタバタさせて、ピョンピョン跳びはね、頭はガクガク、体をグニャグニャにゆりうごかす。成長とか有用性ってことからすると、逆をむいているというかムダなんですけど、でもそれがおもしろくてたまんないわけですよね。ムダも無用もドンとこい。なんにもとらわれずに、自由奔放に生きてやるぞと。その感覚を身体でつかみとる。

 

 

bunshun.jp

 

bunshun.jp

 

 

有用性とかそんなものを超越した変性意識状態(トランス)の世界。酒などを使わなくても、思い思いに歌ったり、狂ったように踊ったりすればよいと思う。

 

変な人でいいじゃないか!

 

私はここのところ頭痛などでしんどく、今日は公園で「うぉー」と叫んできた。

 

野外カラオケならタダでもできるしね

 

 

「自由」に生きられるか?

苫野一徳さんの『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)では、「自由」とは何かをヘーゲルなどをもとに述べ、どうすれば「自由」に生きることができるかが書かれている。

 

アーレントの「現れの空間」をつくることや、見田宗介のいう「交響圏」を目指すことにはその通りと思ったのだが、それらを「職業」に見出す方向しか示さなかったのは問題だと最後に少し述べた。今回も勉強ノートみたいな感じになる。

 

 

 

「自由」の本質とは、いろいろな制約がありつつも、「我欲する」(欲望)と「我なしうる」(能力)との一致の実感、あるいはその“可能性”の実感(「諸規定性における選択・決定可能性」の“感度”、p.81)であり、各人に「自由」が保障されるためには、他者とお互いに「自由」を認め合い尊重することが必要である(「自由の相互承認」)。

 

私たちは日本という民主主義社会に生きていて、職業選択や移動の自由も認められている。「自由」に生きることができるのに、「自由」に生きていないと感じているのはなぜなのか?

 

 

「自由」への欲求は「承認欲求」という形をとるという。

 

しかし、他者から「承認」されるために相手に力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む(p.113)。

 

自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる(p.113)。そして、それを回避する方法として「自由の相互承認」の原理(ヘーゲル)が示される。

 

また、あらゆる欲望を完全に満たし、「やりたい放題」ができる「恣意としての自由」(ヘーゲル)など、原理的にはあり得ないという。

 

美味しいものを食べたい、しかし太りたくない。人から愛されたい、しかし自分を曲げたくない、etc...

 

 

 

ルソーの『エミール』における言葉が引用される。

 

わたしたちの欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある(ルソー『エミール』)

 

欲望を満たし「自由」だと感じるためには、欲望と能力を均衡を完全に一致させることにあるとする(ルソー)。欲望と能力を一致させるには、「欲望を下げる」か「能力を上げる」か、あるいは「欲望を変える」ことによってできる(p.168)

 

そもそも自らの「欲望」が何なのかわからないこともある「自由であることの苦しみ」、p.169)

 

「欲望・関心相関性」の原理から、わたしたちは世界の“意味”を、絶えずわたしたちの欲望において見出している(p.177)。

 

喉の渇きを癒やしたいという欲求があるから、わたしたちは目の前の水を飲み水と認識する。虚栄や承認の欲望があるから、小さな装飾品が特別な意味を持つ。恋する人から送られたものだから、ただの便箋一枚が価値を持つ。

 

(p.177)

 

 

 

フランクルの『夜と霧』に見られるように、人は絶望のうちにおいても喜びを見出すことがあるのだという。

 

もしもわたしが、“欲望の中心点”を見出だせないことによる不自由を抱えているのだとすれば、日常の小さな喜びや意味を見出し、これにフックをかけ、“欲望の中心点”を少しずつ結んでいく必要がある(p.186)。

 

“欲望の中心点”がある程度結ばれていること、そしてその上で、その「欲望」と「能力」との均衡がとれていること、これが「自由」の実在的条件の本質である。ただし、どれほど「自由」の実在条件が解明されたところで、それを可能にする社会的条件が整わない限り、わたしたちが十分に「自由」を得ることはできない(p.188)

 

 

そして、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにある。

 

「自由の相互承認」のために必要なものとして、「法」、「教育」、「福祉」が挙げられる。

 

「法」は、わたしたちは相互に「自由」な存在であることを理念的に保障するものだ。そして、法だけでなくわたしたち自身に「自由」になれるための“力”が現実になければ、基本的自由権など有名無実にすぎないからだ(p.192)

 

そして、法はある一部の人の「自由」だけを承認するものであってはならず、成員全員の「自由」を承認し保障するものでなければならないことだ。法の根拠は「自由の相互承認」であり、またこれを保障するものこそが法なのだ(p.194)

 

 

これは、見田宗介が『社会学入門』で述べた「ルール圏」の原則

 

ここで、「福祉」が挙げられるのは、貧困や障害などの理由から、「教育」だけでは十分に「自由」を実質化しえないからである。「福祉」は「自由」を支える。

 

社会の根本原理は「自由の相互承認」であるとして、近代以降においては、「税」の根拠もまた、この「自由の相互承認」の実質化のほかにない(p.212)

 

そして、過度な「自由競争社会」についても「自由の相互承認」の観点からメスを入れる。

 

わたしたちは、どれだけ「自由」だといわれても、結局は社会が決めた競争ゲームの中を生きているだけであり、そして「自由」(自己責任)の名のもとに序列化されている(p..213)

 

もしも、過度な自由競争社会のゆえに経済格差が広がり、そしてそのことによって、「自由」を著しく侵害される人びとが出現したとするなら、その社会は「自由の相互承認」の原理を根拠に是正される必要がある(p.213)。 

 

 

アーレントは私的領域、社会的領域、公的領域の三領域に分類した(p.219)。そして、アーレントは、社会領域、すなわち経済(市場)社会をとりわけ問題とした。

 

経済社会において、わたしたちの多くは、ただ生命を維持するためにのみ労働をしている。あるいはそのような労働を余儀なくされている。それはまさに、わたしたちが資本主義というシステムの歯車と化し、そのシステムの存続のために生きている(=労働している)という実感を与えるような社会である(p.219)。

 

そのような現代の経済社会において、わたしたちは、“who”――「自由」な人間としてどのような個人でありうるか――ではなく、“what”――労働システムのどのような歯車であるか――として生きている(p.219)。

 

アレントは言う

 

「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になるのである」

 

アーレント『人間の条件』p.195) 

 

 

わたしたちはどれほどの「余暇」を得てもなお、結局は労働―消費の歯車であり続けざるを得ないだろう……。P.221

 

ではこの問題をわたしたちはどのように克服することができるのか?

 

アーレントは、「言論」と「活動」の空間を創出することによってである、と言う(p.221)。

 

 

《「言論」と「活動」について》→過去ブログ参照

 

わたしたちが他者と対話するとき、人々の集会で発言するとき、それは生命の維持を目的とした労働でも、作品を製作する仕事でもない。それは他者に働きかけて、わたしたちが生きる世界をよりよいものとするための行為なのである中山元アーレント入門』p.80)。

 

私たちは、言論と活動をもって他者に働きかけることで、自己と他者が立ち現われ、自己アイデンティティを獲得していく。それを通して世界をよりよいものにしてい

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

わたしは、そしてあなたは「だれ」(who)であるか。そのことを、「人間関係の『網の目』」(アーレント、前掲書、297)の中において、お互いの言論と活動を通して見出し合える空間を作り出すこと(p.222)。この空間が「現われの空間」である。

 

わたしたちが押し込められた経済競争社会の中から一歩抜け出し、自らが「だれ」であるかを表明し合える空間を作り出す。それは、経済的な安定を直接もたらすものではないとしても、わたしたちに一定の「自由」の実感を与えてくれるはずである(p.222)

 

デューイの「グレイト・コミュニティ」の創出も取り上げる(剥き出しの市場社会を、文字通り自由な思考と自由なコミュニケーションが可能になるような圏域へと、作り変えていく必要がある、p.223)。

 

一人ひとりの存在や意見が十分に承認されうる機会を充実させ、民主主義――「自由の相互承認」――をより実質化していく必要がある(p.223)

  

 

次に見田宗介交響体(symphonicity)の概念を取り上げている。

 

交響圏は、「個々人がその自由な意思において、人格的personalに呼応し合うという仕方で存立する社会」(見田、p.20)

 

苫野によると、

 

「交響体」は、過度の連帯や同質性を要請するようなものではなかく、わたしの言葉でいえば、あくまでも「自由の相互承認」を基礎とした社会圏域でなければならないということだ(p.226

 

そして、見田は「ユートピアたちを選択し、脱退し、移行し、創出することの自由」(社会学入門、p.182)という「遊動性」を重視する。

 

「交響体」は、ともすれば個々人の「自由」を抑圧する、閉鎖的「共同体」へと変貌してしまうことがある。それゆえ「交響体」は、「自由の相互承認」の原理に基づく限り、出入りや創出の自由にいつでも開かれる必要がある(p.230)

 

圏域の数は複数あり、そらに新たに作られ、その圏域間で自由に行き来できるのが交響圏における重要性。「遊動性」が求められるということだ。

 

 

 

【残念だったポイントと、私の願い】

 

苫野は、「現れの空間」が可能な領域は「職業」に求めなければいけないと言っている。「現実的にいって、わたしたちが“who”(だれ)として現れ出ることのできる可能性の最も高い場合、あるいはできるだけそうあるべきだといえる場面は、やはり市民社会(市場)における「職業」の世界といえるのではないか?わたしはそう考えている」(p.242)。

 

ただ、「市民社会(市場)とは比較的独立したところに、「現れの空間」を作ることも重要である」とは述べつつも、やはり「職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現れの空間」になる必要がある」(p.242)と述べる。

 

苫野が何のためにアーレントを引用したのかが分からない。

 

「職業」の場で自分の欲望と能力が一致し、「自由」を実感できるのならばよいが、それを可能にする「自由な労働」(マルクス)ができる人は能力やリソースに恵まれた人に限られるのではないか。自分のやりたくない不本意な労働に従事して低賃金に甘んじざるをえない人々がおり、私も含め労働市場においては全く使い物にならない人間もいる。

 

ある人にとっては、労働は生に充実をもたらすものかもしれない。それだからといって、苫野のように「職業」に優位な価値をおくことを強調してしまうと、「職業」(市場経済)の世界に生きづらさを感じる人々を圧迫することになる。

 

障害をもっていたり、あるいは、体力がなかったり、どうしても対人関係が円滑にいかずに「職業」の場にとどまることができない人もいるだろう。

 

市場経済の中では息苦しさを持つ者が、市場への〈包摂〉以外でも生の充実を目指すオルタナティブを作り出していく必要もある。

 

市場での評価とは別の尺度で、人と人とが人格的につながり〈包摂〉される社会の可能性も捨てきってはいけない。

 

自分の能力の範囲で社会に働きかけることによって(それは市場に限らない)、つまりアーレントのいう「活動」や「言論」によってお互いの存在を見出す「現れの空間」をつくり、「自由」を達成したいとも願う。

 

 

 

 

 

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)