生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

非日常へのスピンアウト

 

【目次】

 

 

1.非日常へのスピンアウト

 

 日常は退屈になりやすい。日常世界では人は合理的な存在としてしか生きられない。生きづらい退屈な日常に置かれ、「変化」が感じられない時に人は窮屈さを感じる。日常からスピンアウトするような行動をすることで思わぬ非日常が現れるかもしれない。人間は同じような生活をしていると生活の「型」ができてしまい惰性化しやすい。毎日、同じ所を往復し同じ人と会うというのを繰り返す。その「型」どおりに生きていては同じような日常の繰り返しだろう。計画通りに事を進めると計画通りの事しか起こらない。決められた事だけをすると予定調和な結果しか生まれない。だから、意識的にズレることで「型」を破ってみる。意識的に日常的慣習から脱線してみる。無駄と見える寄り道や道草に思わぬ出来事が起こる可能性がある。このようなスピンアウトの実践・反復が「生まれ変わり」をもたらすかもしれない。ズレる事によって起こる出来事に戸惑うかもしれないが予想外の体験を楽しんでみる。非日常をキャッチするには誰でも何でもどんと来いという「構え」(=姿勢)が求められる。

 

2.大きな非日常から小さな非日常へ

 

 日常における退屈さというのは一万年前からの定住社会により始まる。所有の観念が生まれ、法(言語プログラム)が支配し人々の生活が硬直してしまう。このため、共同体は意識的に法から外れた非日常を用意する。祝祭がそうである。若衆宿により夜這いや無礼講など性愛の非日常も用意された。今も祭りはある。しかし、社会が用意したオリンピックやワールドカップなどの祝祭は資本まみれで主流秩序的だ。みんなで一丸となるのも抑圧的だ。ついていけない。だから、そういった大きな非日常に依存しすぎず、自分のこじんまりした小さな非日常をつくる。社会全体でつくる共同幻想ではなく、個人の文脈でつくる自分の物語としての非日常だ。

 

 

3.非日常は複数性を担保する

 

 日常は交換原理(=理性)で構成され、非日常は贈与原理(=過剰)で構成される。日常は「法内」の領域でシラフな状態であり、「法外」の非日常には享楽がある。人は「過剰」な存在であるから、「法内」(=規範、理性)には収まりきることができない。非日常(=法外)へとあふれ出そうとする。その「過剰」(=欲望)が抑圧されたり、はみ出すことができる場がないと息苦しさが生まれる。

 

 人は複数性をもつ。日常(=主流秩序)では常識やルールに従う「マトモ」な人格として生きなければならない。「マトモ」を装わなければ自分の立場が危うくなったり、時に処罰されてしまう。しかし、人は「マトモ」であるだけでは楽しく生きられず息苦しくなる。人の中には常識では認められにくい性向もあるし、アカン事をしたい願望もある。人には「マトモ」で「シラフ」のオモテの人格だけでなく、ウラの人格を含んだ多面性がある。人の複数性とは「日常の仮の姿」と「非日常の真の姿」により構成される。人の現実は実部と虚部により構成される複素数である。複数の自己(=キャラ)がそれらにふさわしい場で承認されることで、複数の自己が統合され一つのアイデンティティができる。人は複数の世界(=レイヤー)を生きることでバランスを保てる。主流秩序(=日常)では「標準」に擬態しているが、ウラの世界(=非日常)では「標準外」の人格を生きる。市民社会のオモテの部分(光の領域)だけでは人は生きられず、ウラの部分(闇の領域)を必要とする。「日常/非日常」というのは「大っぴらにできる事/してはいけない事」のゾーイングなのである。

 

4.非日常はなぜ楽しいのか

 自分を揺るがすからである。言葉を越えた非理性の領域。予期せぬハプニングに刺激を感じる。非日常には身の危険をともなう。毒や菌がある。登山家があえて危険な雪山を登る。わざわざ物騒な繁華街に出向く。危険のある出会い系サイトをつかって人と会いたがる。みんな、危険と隣合わせで何かをすることに‘快’を覚える。「夜の街」もそのような非日常のパワーに満ちている。バーやスナック、クラブなどに行く人は、お酒が飲みたいというよりも、予期せぬ出会いや出来事を体験したいという動機が大きいのではないか。だから、「夜の街」がなくなると偶発性の楽しみが喪失し、居場所を失う人も出てくる。

 

 

5.非日常に誘う人の存在

 

 自分を揺るがし動機づける他者に出会うと、その人の言葉や行動、姿勢からミメーシス(=感染)を受け自分も「変化」するのを感じる。このような、自分が参照する対象とできるメンター的存在を「準拠他者」という。他者の考えややり方を自分に取り入れることで新しい自分を作ることができる。それまでしなかった事やできなかった事を、他者から触発されてするようになり自分の可能性が拡張される。自己とは他者のコピーである。自己は複数の他者の言葉により構成される。自己の確立とは他者の言葉の「引用」と「実践」によりなされる。日常では接しない他者と非日常で偶然に出会うことで(=エンカウンター)、自分が揺るがされ自己破壊と「生まれ変わり」をもたらす。日常から非日常(=カオス)を経験したあと、日常に戻ったように見えて、実は違う自分へと移行しているのだ。

 

 わたしも、ネットなどを通して偶然出会った人から聞いた経験が楽しそうで自分も実践したくなった。学問の話を聞いて学んだりした。いろんな経験も聞いた。ヒッチハイク旅行している人の話を聞いてヒッチハイクをやってみたし、街で知らない人に声をかけて談笑する人を見て自分も実践している。路上ミュージシャンをしていた人の話を聞いて楽しそうで自分も路上で歌を歌ったこともある。とにかく、刺激のある他者の話は自分の可能性を広げてくれる。ささいな事でも今までできなかった事ができるようになったことに自信をもつ。それが自己の拡張だろう。

 

 非日常の出会いでは、普段の人間関係では話せないような個人的な話やここだけの話が聞けたりする。ヤバイ事を教えてくれたりもする。オモテの社会で人は「立場」によって生きていて、同僚、家族、友人など周囲の人には自分の「立場」を踏まえて上っ面の事を話す事が多くなかなか本音が言えない。だから、非日常で出会う人に対してぶっちゃけ話をしたがるのだ。人は非日常の出会いを求めてバーやスナックに行くし、知らない相手とぶっちゃけ話ができるSNSやチャット、匿名掲示板が無くならないわけである。

 

6.非日常いろいろ

◉ 知らない街に行く

 思わぬ風景を目にしたり、街の様子を見れて面白い。知らない街は歩くだけで新しい情報が飛び込んできて大脳に刺激がある。何も予定を立てずブラブラして行き当たりばったりがいい。思わぬ出会いもある。

 

◉ 街で知らないおっちゃんに話しかける 

 街でゆるそうなおっちゃんに話しかけてみる。河原でブラブラしてる人や橋の下で寝ている人など。なにかしらスキのある人は話しやすいし応じてくれやすい。リアル・ドラクエだ。前話しかけたおっちゃんは、「あなたみたいに話かけてくれる人はいない。こうやって知らない人と話すのもええな。これも何かの縁やな」と大変よろこんでくれた。みんな寂しさを抱えている。日本では外で気楽に見知らぬ人同士が話しにくい。突然話しかけられるなんてナンパか勧誘か変な人と思われる。相互不信がある。人に話しかけたら変な人と思われてしまう。だから、みんな話しかけられない。もっと街でみんな気楽に声かけれたら孤独感も軽減し生きづらさや自殺なども減るのではないか。

 

【西成】

 

三角公園のステージに段ボールを敷いて寝てたおっちゃんに話しかけてみたら、西成事情を話してもらった。西成に滞在するのは金がかからないのだと。シェルター、飯付き寮で泊まり、メシは公園や教会の炊き出し、西成警察署に行ったら服ももらえるのだとか。福祉住宅の話も聞けた。3畳の部屋で窮屈だという。

 

・夜に路上でワンカップを飲んでいたおっちゃんに話しかけた。野宿しているのだそう。「どこで寝るの?」と声かけたら「そのへんや」と返される。昔は無銭旅行して寺に行ってタダで泊めさせてもらったとか。「旅の者やけどメシ食わせてもらえへんやろか」とお願いしていたそうだ。

 

 

【京都の河原】

・河原でおっちゃんに話しかけた。この辺は自転車放置してたら撤去されやすいかを聞いたら、駐輪取り締まり厳しいなという話から路上で色んな事しにくいなという話に。話を聞いたらおっちゃんは昔ホームレスしてて路上で物乞いをしていたそう。景気のいいときは一日5万円もらったこともあったという。キャバクラの姉ちゃんが一万円くれたとかいう話も。でも、お金が尽きると万引きして暮らしたそう。万引きで3回捕まり刑務所に入った。京都の河原の橋の下は昔はホームレスの人が住んでたけど今は橋の下に柵が張られ寝られなくなった。ホームレスの人は追い出されたが生活保護になったのではと話してた。

 

 

街で会ったおっちゃんとの話はyoutubeに載っけてます。

 

 


街でおっちゃんと話す(2)

 

 

◉ 旅先のゲストハウス

 非日常空間として人と打ち解けやすい。人生の話など突っ込んだ話が聞ける。

  

◉ ヒッチハイク

 これも、一期一会の出会い。以前、noteにヒッチハイクの体験を書いた。

https://note.com/haruka0929/n/n9a906a4aed29

 

 

7.まとめ

 

 人は日常を生きているだけでは「変化」がなく退屈だ。計画や予定どおりに生きていては予定調和な結果しか生み出さず日常は変わらない。しかし、意識的に日常からズレることで予想外の偶然性を楽しむことができる。日常の行動パターンから思い切ってスピンアウトして自分を外へ投げ出してみる(=投企)。思いがけない体験や普段知りえない人と出会い触発される。その出会いにより他者の言葉が自分の中に「引用」され、自分の可能性が拡張されることで、より豊かな生き方ができるようになるのではないか。スピンアウトの「反復」により予定調和でない「生」の可能性が開ける。

 

 

【参考図書】

宮台真司二村ヒトシ『どうすれば愛しあえるの』 KKベストセラーズ

4コマ劇場(3)

わたしの経験や聞いた事を4コマ漫画にした。

他愛のない、しょうもないことが好きです。

11〜15作目

 

 

◉ 困ったときの西成

 

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◉ お触り

 

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◉ 鳩使い

 

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◉ 釣りのおっちゃん

 

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◉ タカリのおっちゃん

 

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「引きこもり」はなぜ這い上がれないのか?

 

 「引きこもり」を事例に、社会的に低い立場に置かれたり周縁化された人(=サバルタン)がなぜ社会の中で這い上がれなくなるのかを文章化したい。「引きこもり」の問題だけでなく、マイノリティ全般のエンパワーの課題についても多くカバーできると考える。マイノリティは力をもっていないから弱い立場にいるのではなくて、マイノリティを弱い立場に追いやる構造によってマイノリティのもつ力が上手くエンパワーされないのだ。能力主義による人の序列づけが正当化され、金を稼げない引きこもりなどは差別されても仕方がないと意識が高めのリベラル層にも思われている。このような能力主義による抑圧が正当化される社会では、抑圧される側も抑圧されるのは仕方ないと受け入れてしまい抑圧的な関係性や社会構造を問えない。これは「象徴的暴力」(ブルドュー)と呼ばれる(詳しくは文末のネット引用記事)。このような抑圧を生む構造が「引きこもり」を社会に浮上させにくくさせている。

 

【目次】

 

 

1. 能力評価のシステムがマジョリティ優位にできている

 

 マイノリティは社会的に劣った人たちと見られやすく信用も低くなりがちだ。そのため、スタートでマイナス地点に置かれやすい。マイノリティがプラスの評価を得るためにはそのスティグマ(=マイナス評価)を挽回する必要に迫られる。±0地点からゲームを開始するマジョリティにはない労力(=コスト)がマイノリティにはかかる。マイナス評価を振り払いプラスの評価を得るためにはマジョリティが求められる能力以上の能力が求められる。このように、マイノリティは厳しい能力評価におかれるために、マイノリティの中でも能力主義の考えが強くなりやすい。このため、マイノリティの中でも能力を基準にした分断がおこりやすい問題がある。

 

 また、この社会(=主流秩序)において評価されやすい「能力」は恣意的である。同じ「能力」をもつ人でも立場や状況によって評価されたりされなかったりする。また、コミュニケーション能力が過度に求められる社会なので、その最低条件をクリアーしない人は社会の表舞台では生きていけないようになっている。引きこもりなどの人にはパソコンに詳しい人、語学ができる人、音楽や芸術の才能がある人など何らかの得意分野をもっている人が多いと聞く。しかし、対人関係において困難をもつなどで、それらの能力を上手く社会で活用できない状況が生まれる。この例からは、当事者本人に能力がないわけはなくて、対人関係能力に偏重した社会が当事者を無力化していると言える。能力評価システムは全員に平等であるわけではなく、マジョリティがもちやすい「能力」を基準にシステムがつくられ、その「能力」をもちにくいマイノリティを低い位置にとどめ置く。また、引きこもりの人や働くことが困難な人は、労働ができないハンディを巻き返すくらいの能力がないと他者から認められにくい。その能力も人並みでは評価されず、平均を大きく上回ることでやっと評価される。ただでさえ不利な立場にあり能力を身につけにくいから引きこもった人が多いのに、「人」として扱われるためには能力で多数をしのがなければいけない不利な状況におかれる。

  

 引きこもりの人などは、どの人間関係ネットワークにも属せないことが大きなデメリットとなる。この社会の経済は純粋な市場主義ではなくて人間関係ネットワークに依存してチャンスや資源配分が偏っている。個人が自分の能力をいくら鍛え上げたところで人間関係に恵まれないと社会的な評価はされにくい。また、むきだしの市場原理から個人を守ってくれるのもネットワークである。だから、ネットワークに属していない人は不利な立場におかれる。では、そのような孤立している人が新たに人間関係を築くのが容易かといえば、かなり難しい。もともと人と接することやコミュニケーションが苦しかったりする人は主流社会の容赦ない人間関係には耐えられない。また、主流秩序に嫌気がさしてどの集団にも関わりたくないという人もいるだろう。そういう人は現実に存在しているので、生存権の観点から誰にも依存しなくてよいように生活保障が求められる。

 

 

2.自分が何者かを示せないため他者とつながれない

 

 人は他者からの承認によってアイデンティティを構築する。他者からの承認は主流秩序で価値があることを実践することで得やすい。仕事や家族形成ができることで初めて社会の一員として認められる。引きこもりの人たちは仕事や家族形成といったオーソドックスなライフコースを歩めない。引きこもりの人たちも生きている中で何らかの経験を培っている。じっとしているだけかもしれないし、ゲームやネットをしたり、読書や勉強をしたり、ブラブラしているのかもしれない。しかし、それらをしていても仕事をしていなければ「ただ遊んでいるだけ」と有意な経験とみなされない。このように、引きこもりの人たちの経験は他者からは承認されにくく、他者に自分を語る言葉が見つけられない。人は自分のアイデンティティを元にコミュニケーションをする。自分が何者であるかをちゃんと言葉で示せない限り、他者は自分に応答できず深いコミュニケーションがしにくくなる。アイデンティティの立ち上げが困難であるために他者とつながれないのである。これは、「その人そのもの(存在)」が承認の基準となっておらず、承認のパターンが「生産性の論理」に偏っている社会秩序の問題でもある。

 

 

3.存在が尊重されにくく声が聞かれない

 メディアなどで引きこもり問題はたびたび取り上げられる。しかし、引きこもりに対するひどい見方は根強い。「引きこもり」の存在が社会に知られるようになっても、あわれな存在として見世物的に消費されやすい。存在がただ認知されるだけでは、好奇心や見下しの意識を生むだけで当事者のエンパワーにはつながりにくい。引きこもりの当事者が声をあげても、その声はかき消されやすい。それは、多くの人が引きこもりなどを劣った存在と見ているため話を聞くに及ばないと判断しているためだ。マイノリティの声を聞くか聞かないはマジョリティが恣意的に選択できる。これは、マジョリティの特権だと言われる。

 

 この関係の非対称性の問題については、西洋先進国の人々が東洋を物珍しさや見下しの対象として眼差すオリエンタリズムの発想を参考にできそうだ。オリエンタリズムという概念はサイードによって提示され、西洋が東洋を経済的にも政治的にも劣っているとみなし、不平等な権力関係を強いるのを正当化してきた構造だといえる。西洋の東洋に対する想像力(=イメージ)も歪曲されたものとなり不均衡な関係が再生産されている。

 

 

ひとつは、東洋人を西洋人より劣った存在であるという想定だ。よって東洋は西洋による支配の対象とされ、東洋の人種や性格、文化、歴史、伝統、社会などが西洋的知識によって解明されるべきであるとされる。もうひとつは、オリエントと概括して呼びうる地域は、インドであろうとエジプトであろうと、アフリカであろうと中国であろうと、だいたいどこも同じなのだという決めつけである。この二つの発想、つまり他者の主体性を無視し、他者同士の違いに目を向けようとしない姿勢がオリエンタリズムの根本にあるのだ。

 

(本橋哲也『ポストコロニアリズム』p.115-116)

 

 

 オリエンタリズム的発想とは、マイノリティを一人一人の違う個人ではなく画一化された表象とする。このような表象は「言説」としてマジョリティの知識体系(=主流秩序)に支えられ、利害関係の中でマジョリティを利するように機能する。つまり、「引きこもり」の表象は現実の引きこもりの人たちの姿が描かれたものではなく、劣った存在と位置づけるような表現がなされる。「引きこもり」とは自らがそうあってはならない負のイメージの束なのだ。「引きこもり」を劣った存在と位置づけることにより、社会の多くの人たちは自己を正当な存在だと定義できる。このように、マジョリティが自分を映し出す鏡としてマイノリティは表象される。「引きこもり」に能力不足、不合理、無知、無気力などの好ましくない性質をはりつけることで、その反対側として「マトモな我々」というアイデンティティをマジョリティは確保する。「引きこもり」を定義し代弁する言葉も主流秩序の価値基準(合理性、理知性など)により否定的なものとなり、引きこもりの人が尊重されるための言説資源が不足し不利な構造に置かれる。「生産性の論理」による言語体系が、引きこもりの人から自らを肯定的に語る言葉を奪っていて、否定的な表象として他者の言葉によって代弁されている不均衡な構造を問題としたい。

 

 

4.ラベリング効果

 

 引きこもりや生活保護利用者は経済的な問題だけでなく、生きているだけで負のレッテル貼りをされプラスの評価がされにくい。失点ばかりが他人の目につきやすく、下へ下へと追いやられる構造的な問題にさらされる。何かやらかさないか常に監視されているようなパノプティコン状態に置かれて安心して行動ができなくなる。また、少しでも失敗すると咎められたり懲罰的な扱いを受けるため失敗が許されなくなり行動も抑制的になってしまう。これは多くのマイノリティが被る問題である。例えば、サラリーマンの人が犯罪を犯してもサラリーマン全員が犯罪者視されることはないが、引きこもりの人が犯罪を犯すと引きこもり全員が犯罪者予備軍であるかのようなスティグマが貼られる。あるマイナス評価をもつ属性の誰か一人の失点はその属性全員に対する失点となる。このようにマイノリティが常に不利に置かれるのは差別構造であり、マイノリティを押さえ込み弱い位置にとどめおくように機能している。差別構造があると、レッテル張りを受けた人は何をするにも逆流状態となり前に進みにくく、エネルギーだけを消耗するアリ地獄のような状況に陥る。

 

 

5.能力の替わりに内面を差し出すことになりやすい

 

 この社会では自分の経済的価値を示すことで承認を得られる。経済力が劣る者は、その代替となる承認資源を示さなければならない。引きこもりの人などは肩書きや立場といった自分を守る鎧すらないので自分の内面がむき出しにされる。能力の代替として性格や態度のよさを求められる。マイノリティはマジョリティの秩序を脅かさない存在だと示すために品行方正さを強く求められる。特に、引きこもりの人は社会のお情けによって生かされていると思われている。従順さ、惨めさ、大人しさ、純朴さなど温情を買うような態度をとり、強者のパターナリズムをくすぐる弱者像が求められる。この像に背いた態度や行動をとると、ひどく非難されるかないがしろにされる。行儀よく振る舞っていても付け入られることもしばしばであるが、そのような行動が生き延びのために迫られることもある。毒親や暴力支援員などに支配されて暮らすのはこのような状況だろう。つねに、生殺与奪の権を握られる側にあり善良な態度を示すことでなんとか生かされる存在である。

 

 引きこもりの人たちに対して、「かわいそうな人」や「劣った人」という一方的な弱者視は、当事者から自尊心を奪うことにもなっている。「そのままではダメだから働いてしっかりしろ」というメッセージを投げかけると身動きの取れない引きこもりの人には抑圧になる。支援者などが引きこもりの人を画一的に見て、個人の意思が尊重されないパターナリスティックな支援となると、引きこもりの人の主体性(=個人の自己決定権の尊重)が奪われることにもなる。一方的な弱者視は、当事者の不幸な側面だけが予定調和的にフォーカスされ、幸も不幸も両面ある当事者の姿が見えにくくなってしまう。もちろん、引きこもりの人たちは自分に負い目を感じ、しんどい思いで生き延びている人が多い。しかし、そんな中でも趣味を楽しんだり、友人と交流したり恋愛をして楽しんでいるかもしれない。引きこもりの人は社会や家族に負い目を感じやすい立場にあるので、楽しんでる様子をオモテに出しにくく、下を向いて生きなければならない存在だと当事者も思い込みやすい。このように、引きこもりの人が自尊心を低められやすい状況で当事者に対する過度な弱者視(=ステレオタイプ化)は、より当事者を弱い立場にとどめおくことになってしまわないか。生活保護利用者バッシングでは、利用者は社会に申し訳なさそうに生きるべきで少しでも利用者が楽しそうにしていると気に食わないという思いが見られる。誰もが前を向いて生きられるようになるべきだ。人の生きる命題は、いかに不幸を減らし安心して生きられるかである。だから、できるだけ多くの引きこもりの人がそこそこ楽しく暮らせる社会こそめざされるべきだ。楽しむ権利は誰にも奪えない。そのためにも、個人の生活を経済的に支える生存保障は必要になる。

 

 

6.モラル・キャリアの問題

 

 モラル・キャリアとは社会学者ゴフマンが提唱した概念で、ある特定のスティグマをもつ人は、その窮状をめぐって類似の学習経験をもち、考え方にも類似した変遷をもつ傾向があるという。

 引きこもりなど人生の半ばで主流社会について行けず「落伍者」となった者は、特殊なモラル・キャリアをたどる。人生半ばでスティグマをもった人は、生まれつきのスティグマをもつ人とは異なり、自分のアイデンティティの再構築を迫られることや、それ以前のような社会関係の作り方が難しくなるという問題をもつ。例えば、横山麻衣(2013)は、性暴力被害をモラル・キャリアの視点から論じている。他者と親密な関係を築くためには自分のアイデンティティの核となる部分を開示することが迫られる(カミングアウト)。しかし、性暴力被害などは中々他者に開示しにくく、開示してもその後相手との関係がそれ以前と同じように維持できるかが分からないなど不安がある。また、平然さをよそおい自分が何も問題を抱えていないふりをするパッシング(=素性を隠しての越境)も心理的負担となる。このようにネガティブな属性をもつにいたった人は、これまでと同じような安定した社会関係が築きにくくなり回復も難しくなるという。性暴力被害と同列の語りはできないが、このモラル・キャリアという概念は引きこもり経験においても適用できる。

 

 ある段階まで主流社会に適応できていた人が「引きこもり」となると、それまで仲のよかった人や同輩との経験の共有ができず、それまでの人間関係は維持しにくくなる。また、自分のネガティブな立場性ゆえ他人とも顔を合わせにくくなる。実家の世話になって働いてないない、家にこもりがちなど、広く「引きこもり」と名付けられやすい状態は他人に開示しにくいものだ。自分の事情を知らない人と会い話すときには「職業」が聞かれやすい。人は相手のことを知るために相手の社会的な立場を判断基準とするが、相手の立場を手っ取り早く知れるのが「職業」となる。「職業」を問われると、自分が「引きこもり」であることを明らかにしにくいため誤魔化したり嘘をついてその場をしのぐことになりがちだ。自分のアイデンティティの核は「引きこもり」であっても、その部分を触れられたくないため自己の開示ができず、相手との深い関係をつくりにくい。自分の立場を理解してくれそうな人以外には自分の立場が否定されることを恐れて自己開示ができない。そのため、不本意な嘘をついたり、嘘や経験の帳尻合わせをして自分の素性をごまかすのに心理的な負担がかかる。人間関係そのものがストレスとなり余計に引きこもり状態になりやすい。

 

 

7.聞く側に倫理が求められる

 

 引きこもり問題が正確に社会に知られるためには、引きこもり自身やアライの人が声をあげたり自己のおかれた状況の説明のために言語能力をつけるだけでなく、語られること(=呼びかけ)に誠実に応答するかという聞く側の倫理も問われる。引きこもりやマイノリティが這い上がれない滑り台的な社会構造を知る必要がある。

 

 

他者から学ぶとは、社会体制のなかで搾取され抑圧され自己決定権を持たない他者(=サバルタン)になり代わって語ろうとすることではない。むしろ彼女たちが自ら語ろうとしても、その声を聞かないでいられる特権的な状況に置かれた私たちのほうにこそ問題があると知るべきなのだ。

 

(本橋哲也、前掲書、p.158)

 

 

「倫理的である」とは道徳的に正しいというよりむしろ、そのような他者との関係を作ろうとする営みを怠らないということである。他者の声が、黙殺でも代弁でもなく、都合のよい一方的解釈でもない形で聞かれた時、はじめて倫理的な関係が生まれる。

 

(本橋哲也、前掲書、p.158-159)

 

 

 相手の呼びかけに誠実に応じ、相手の等身大の姿に対しようと努めることは相手を対等な「他者」として尊重する態度である。人は声を発して、それが誰かに聞かれ誠実な応答がある時に、自分が一人の人間として尊重されたと感じ、社会の中にいる手応えを覚えエンパワーされていく。存在が尊重され自立した個人とみなされることで、人は「市民」(=権利行使の主体)として立ち現れる。存在が尊重されないことは権利が剥奪され差別された状態であるといえる。社会には倫理(=他者と対等に関係しようとする姿勢)が求めらる。当事者もマジョリティに対して倫理を求める呼びかけが必要となる。やはり、しぶとく引きこもりの尊重や生存権保障を求める言説実践を続けていき、この問題について聞く耳をもつ誰かに声がキャッチされていくのがよい。いろんな方向に自分を投げ出すように声を出す。どんな結果になるか分からないがとりあえずやってみる(=企投)。思いがけないチャンスがおこる可能性を広げたい。人生を変えるのは予定調和を破るような偶然性である。予測できない偶然の展開こそ引きこもりの人生には必要なのだろう。

 

 

◉ 参考文献

・本橋哲也『ポストコロニアリズム岩波新書

・横山麻衣「性暴力が人格を侵襲する」とはどういうことか―「性=人格」議論とゴフマンの社会学」『ソシオロジ』第57巻3号、pp.21-37

 

◉ インターネット記事

・構造的暴力とは?:医療人類学による社会構造の批判

https://anthrojp.com/2019/11/01/structural-violence/

婚姻主義が生むセックスワーク差別

 

【目次】

 

 

1.セックスワーク廃止論では誰も守れない

 

 コロナ禍で性風俗や接待業など「夜の街」に補償なき営業自粛の圧力がかかっている。「夜の街」はいかがわしい部分として切り捨てられようとしている。「昼の街」の方が常に濃厚接触状態なのに、あえて「夜の街」のリスクばかり強調するのは、単純にセックスワークや夜職のスケープゴート化だ。これを機にセックスワーク廃止論ももたげている。セックスワークが禁圧されている国では性サービスは闇にもぐり、マフィアがはびこる危険な環境にワーカーは置かれるという。また、著しく悪い条件で性サービスが取引されるようにもなる。正当な労働と認められないため市民的権利も行使できず売り手はますます弱い立場となる。セックスワーク廃止論は女性を守るように見せかけるが、実際は婚姻主義に基づく性規範を守るだけであり、女性を守ることにはつながらない。

 

 性風俗が暴力や性搾取の温床となっているという見方は根強い。それなら、セックスワークからそのような不当な部分を取り除き、まっとうなワーク(=労働)として確立していくのがワーカーの人権を守ることにつながる。搾取とは、正当な対価を支払わずこきつかう事だが、性搾取は性風俗だけでなく恋愛や家族においても蔓延している。恋愛や家族での性行為は不本意になされるものや暴力となっているものも多いが「愛」の名の下でうやむやにされている。性搾取(=性暴力)は社会の性差別秩序がつくりだしているので、ある業種(=セックスワーク)をやり玉に上げても社会全体の性搾取は無くならない。人権教育などで性秩序の上位にいる人(多くはシスヘテロ男性)の性差別意識を是正することでしか性搾取は無くしていけない。

 

2.セックスワークを「労働」と認め権利保障することが性搾取の低減になる

 

 資本主義社会では、労働者は資本に自分の「労働力」を使用する権利を売って賃金を得る。前近代の奴隷制は誰かが別の誰かをモノのように所有し使役することを正当化するシステムだった。「労働者」という立場の打ち立てにより、奴隷的処遇(=搾取)を廃止して自身の「労働力」の提供を超えたひどい扱いや生活や内面への干渉を振り払うことが目指された。奴隷制から賃金制への移行である。性風俗に従事する者がひどい目にあっても、自ら危なそうな業界を選んだのだから仕方ないと自己責任化されやすい。性風俗をしていたら、「風俗ではないマトモな仕事をしろ」とも言われやすい。「職業選択の自由」という原則により、労働とみなされにくいセックスワーク労務条件に手がつけられにくくなる。「労働者未満」とされたカテゴリーの者への奴隷的処遇(=搾取)が正当化されやすくなる。これは性風俗だけでなく外国人技能実習生制度や障害者作業所なども同じ問題系にある。家事を無償でやらされる主婦や無償のケアを要求される介護者も「非労働者」と見られているからタダ働きが正当化されている。つまり、ある労役に従事している者へ正当な対価を払い待遇を改善をするには、従事者が「労働者」として認められることが必要である。

 

 

 恋愛・家族外での性行為がいけない事とされているため、性風俗を秘匿の領域とすることで男性が利用しやすくなる。逆に、性風俗が公然化されたら男性は女性を自分の都合のいいように使い分ける「身勝手さ」を認めることになるから渋い反応を示すのではないか。性行為に対価を支払うことは恥であるという性規範が、セックスワーカーの労働者視を阻んでいるのではないか。性行為は金で取引されるべきではないという発想により性サービスが安く買い叩かれてしまっている。セックスワークが「労働」として認められると、セックスには対価が発生するのだと自覚させられ、家父長制の性規範が揺るがされる。婚姻主義が性サービスの無償化を正当化する搾取原理だったと気付かされる。セックスワーカーを一人前の「労働者」ではなく「奴隷」のように見ているから、ひどい扱いをしてもいいのだと思い込むスキも与えてしまう。

  

 何を「労働」として賃金の発生を正当化させるか、何を「非労働」として搾取を正当化させるかは恣意的に決まる。セックスワークを「非労働」にとどめおき搾取を正当化するのは以上のような家父長制の性規範がテコになっている。その方が、男性が無償もしくは安く性サービスを享受できたり、女性をモノ化(=奴隷化)することが可能になるからだ。ある行為を「労働」か「非労働」かに分けるのは政治的なものだ。ある労役に従事する人を「労働者」とみて権利行使の主体と位置づけるか、タダ働きやひどい扱いをうけても仕方ない「非労働者」(=奴隷)の位置に甘んじさせるのかは本質的に決められているのではなく、構築的(=意図的)に決められる。セックスワーカーを性搾取の被害者(=「奴隷」)と見ることは、「労働者」としての主体性を認めない発想にもなり、「労働者」としての権利保障や待遇の改善を阻むバイアスとなっている。セックスワーカーを奴隷的処遇に追い込むのは、セックスワークを「労働」とみなさず、ワーカーを「労働者」という市民的権利をもつ主体だと認めない発想である。

 

 

3.社会の性搾取はセックスワーク自体ではなくシスヘテロ規範(=家父長制)が生み出している

 

 性愛を異性愛の二者関係にコントロールする婚姻主義は、セックスを「正しいセックス」と「正しくないセックス」に二分する。セックスワークは婚姻主義の副産物である。「正しいセックス」なるものが、「正しくないセックス」を何であるかを決める政治によって生まれるものだからだ。婚姻外のセックスを「正しくないセックス」と劣位に置くことで、結婚制度の上にいる人が権威づけられるのだ。つまり、セックスワーク差別は婚姻主義がおこなっている。逆に言うと、婚姻主義はセックスワークを差別をしないと成り立たない。婚姻主義をテコに女性が分断されていると言える。恋愛や結婚によって男に囲われ所有の対象となる「貞淑な女」と、恋愛・結婚外の「遊びの女」とに分けられている。これは、男性優位の性規範にモノを言わせた二重の搾取(=女性の都合のいい使い分け)であるといえる。

 

 以上から、社会の性搾取(=性差別)をもたらしているのは異性愛カップルを性愛の「正しい」単位とする家族主義(=婚姻主義)である。これは、恋愛(=異性愛カップル・家族)の中における性行為を道徳的に「よい」と位置づけ特権化し、恋愛や家族外での性行為を道徳的に「わるい」と劣位におくこと成り立つ。異性愛カップル家族の性行為は結婚制度によりオーソライズされ、不倫や性的奔放さの非難、婚外子差別など家族(=婚姻)の枠を離れた性行為に対しては社会的な制裁を加えてくる。これは、生殖に結びつく性行為こそ「正しい」ものだとする生殖主義イデオロギーであり、家族を生殖・子育ての単位として正当化する家族主義の発想である。この家族主義は「性」を家族内に押さえ込む性規範を同時に必要とする。異性愛カップル家族の「愛」の領域に「性」を落とし込み、生殖を「愛」と結びつけ子どもや高齢者へのケアを家族に無償で担わせることを正当化させている。「愛」を家族による無償のケアや性関係を引き出すためのテコとするのが近代の標準家族システム(=シス・ヘテロ規範)である。

 

 「愛」と「性」は一体であるというロマンティック・ラブ・イデオロギーは、「愛」の名のもとでの無償の性行為を正当化している。これは、主婦の家事労働が「愛」の名のもとで無償化されているのと同じだ。性行為を「愛」に付随させることで男性の性的ケアを家族内の女性が無償で担うことになる。恋愛・家族の中でのみ性行為をすべきという性規範により家族の中で「性」をコントロールしようとする。妻が家事をしないのは「愛」がないからと言われたように、妻がセックスに応じないのは「愛」がないからだと非難される。カップル間のセックスは「愛」にみせかえた自由な行為ではなく一方的で無償の奉仕にもなりやすい。仕事や家事で疲れているのに夫からセックスを求められたり、断ると相手の機嫌が悪くなるから断りにくいものになったり、楽しくないのにセックスをさせられたり、不本意なプレイを強要されたりする。避妊などセーファーセックスもなおざりになることもある。「付き合っているから」、「夫婦だから」と言われ不本意なセックスを無償でさせられる事こそ性搾取と呼べるのではないか。このように、恋愛や家族においても性搾取は頻繁におこる。恋愛や家族での性行為を神聖化し、それ以外の性行為はひどいものと前提する家族主義(=婚姻主義)の性規範は親密圏での性搾取を見えづらくしている。性風俗を性搾取の元凶だと槍玉にあげるだけでは、かえって社会にあふれる性搾取(=性暴力)を見えにくくしてしまう。

 

 

4.セックスワーカー差別への対抗言説

 

 セックスワークに従事する人は無知で判断力がないから業者や構造に付け込まれているんだと見られることがある。また、従事者に障害をもつ人が多いなどと言うことで職業やワーカーの貶めとなっていることもある。セックスワークによってひどい目にあったり健康が悪くなった例なども批判のために出されやすい。しかし、どんな労働も体を壊したり障害になる人はいるので、それは本人の心身や労働条件の問題であり、職種でくくるのは適切ではない。セックスワークで障害が酷くなる等を強調する言説は、セックスワークを否定するために障害を引き合いに出してるという点で二重の差別と言える。

 

 これらの批判的言説の問題は、ワーカーが「労働者」として正当な対価と待遇を求めて性サービス(=労働力)を提供しているという主体性が尊重されないことだ。障害があるためマトモな判断能力を欠如していると見られたり、誰かに付け込まれていたり構造にハメられていると見られ、自分の意思でセックスワークに従事する主体として見られていない。また、セックスワ―クをする人を一方的に「かわいそうな人」とか「被害者」と眼差すのもワーカーの能動性や主体性を傷つけ尊厳を奪うものだ。そういう視線は相手を一方的に弱者(=劣った人)と見る差別的な視線にもなり、ワーカーを一人前の人として見ずに尊厳を傷つけたり、追い詰めることになり本人のエンパワーメントを妨げるものとなる。また、「性」は非売品だと見なされているから、「性」を売るのは卑怯だとされ市場のプレイヤーの一員だと見られない。「性」に奔放な女性をネガティブに位置づける性規範がセックスワーカーを市場で劣位に置いている。何が市場取引において正当であるかそうでないかも主流秩序の論理で序列づけられる。

 

 しかし、ジェンダーが支配する社会では、人々は生活をおくる中で自分のジェンダーや「性」を常に取引にさらされる。それらが自分の意思に反して取引されるのは問題だが、自分の利益のために取引の資源として活用していくのが性の主体性(=自己決定権)ではないか。売るか売らないは本人の自己決定の問題となる。資本主義は自分のもつ何らかの資源を用いて「労働力」として売り生きていくシステムだ。生存戦略として売れるものは売るというのは資本主義のルールに従っているだけであり、それで誰かの尊厳や権利を毀損する事もないならば咎められる理由はないのではないか。資本主義における全ての労働は根本的には資本による搾取で成り立っている。性サービスだけを殊更に搾取だと強調するのはセックスワークに対する負の印象づけで職業差別にとなる。搾取の問題は資本主義全体の問題である。家父長制の性規範が資本主義と結びつき女性や性的マイノリティへの性搾取を社会が正当化していることを問わなければならない。

 

 セックスワークによって人生が良くなったりエンパワーされたワーカーもいるはずである。ツイッター上のセックスワーカーのつぶやきなどではいわゆるクソ客のダメさが目につきやすいが、自分の性的な部分が承認されたり、人を癒やしたり喜んでもらうことによりやり甲斐を感じる場面などがあると思う。しかし、セックスワークは悪いというイメージをもとにしたひどい事例だけが多く提示されることで、「被害者」としてのセックスワーカー像が予定調和的に再生産されている。ネガティブな偏見が邪魔してセックスワークの実態が分かりにくいことがさらなる偏見や差別にも繋がっている。

 

 

5.買う側の倫理

  

 性風俗は買う側の倫理は問われる。「金にモノ言わせて女を好き放題する」という発想をもつクソ客的なマインド(=ミソジニー)は批判されるべきだ。女性を金や権力で思い通りに所有できるという発想は性風俗においてだけでなく恋愛や結婚でも見られる社会全体の性差別だ。であるから、批判すべきは女性のモノ化を正当化する社会のミソジニーとなる。性行為というのは基本的には暴力なので(同意と安全が必要)、金払ったらなんぼでもやっていいという発想は倫理に反する。欲望と倫理のバランスが求められる。男性が風俗に行った事をドヤ顔で自慢するのをキモいと感じるのは、性行為という暴力を行使しているという自覚(=倫理)が欠けているからだ。これは、性風俗だけでなく恋愛・家族におけるセックスについても同様だ。性的主体の位置にいるシスヘテロ男性が女性を性消費する語りを大っぴらにすることは権力勾配に無自覚であり倫理的に正しくないことである。

 

  シスヘテロ規範において性搾取の主体はシスヘテロ男性だ。性搾取はセックスワークそのものではなくシスヘテロ規範が生み出すものだ述べた。だから、買う側の倫理についても権力勾配上位のシスヘテロ男性を主たるターゲットにしないと、性搾取の実態をすくい損ねるだけでなく、マイノリティの性を抑圧する事にもなる。

 

 

6.書いたことの箇条書き

 

セックスワーク廃止論は性規範を守りたいだけで誰も守らない。

・性搾取の根源は婚姻主義であり、シスヘテロ規範の家父長制である。セックスワークが婚姻主義による性差別(=性搾取)を正当化するための「いけにえ」となっている。

・ワーカーを「被害者」ではなく「労働者」として権利行使の主体と見て、ディーセントな労働条件を求めることが性搾取の低減につながる。

・性行為は暴力の行使であるので買う側の倫理(=正しい姿勢)は求められる。

 

4コマ劇場(2)

人生で経験したことを4コマ劇場にしています。

 

 

 

◉ 墓地で寝よう!

 

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◉ 野宿失敗

 

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◉ 三人よらば

 

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◉ 強引なヒッチハイク

 

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◉ 就職面接

 

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※中朝国境でブラブラした話は以下です(おもろいので読むの推奨〜)

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

不倫から考える家族主義の問題

 

【目次】

 

 

1. カップル単位思考の問題点 

 

 みんな誰かの不倫を叩くのが好きだ。しかし、ひかれ合う二者による恋愛が「正しい恋愛」だとするカップル単位(=排他的な二者関係)の恋愛観があるから、それを脅かすものとして不倫という概念も存在していることが分かる。誰かの不倫がバッシングされるのを見ていると、一夫一妻のモノガミー秩序はもともと存在するのではなく、婚姻外の性愛を排除することにより成り立つ幻想にすぎないのだと分かる。婚姻主義はそれ自体では存立できず、常に「不倫は悪い」と叩くことでしか存続できない。不倫や浮気が結婚制度(=カップル主義)を後ろで支えるダシにされているのだ。

 

 今回は家族主義を支えるカップル単位思考(=排他的二者関係)の問題について考えてみたい。恋愛は二者関係で閉じたカップル単位でするものだという発想がそもそも根拠のないものである。幻想に囚われることや幻想に従うことが悪いのではなく、二者関係に閉じた恋愛を絶対視して持ち上げすぎたり、いたずらに否定する態度が幻想に囚われすぎであるといえる。

 

 カップル単位の恋愛が現実の幸福につながるわけではない。カップル単位思考は恋愛とはかくあるべきという願望であり幻想である。幻想は裏切る可能性があり、裏切るものだから幻想であり続けられるのだ。恋愛とは幻想の体系だから本来的に不安定なものである。しかし、二者関係を家族として安定化・永続化させて社会統合の単位としたい社会の要請が「家族神話」を生み出している。「人間はパートナーを持ち家族を作りずっと一緒にいるものだ」というカップル単位の家族観が本質化され自然なものとみなされる。

 

 家族を「愛の交換とセックスがおこなわれる領域」に限定する発想はロマンティック・ラブ・イデオロギー(=愛・性・婚姻が連動する発想)に基づく家族幻想(=対幻想)である。セックスと愛を不可分のものとし「排他的二者関係」を絶対視する発想である。しかし、この思考では恋愛関係のパートナーにいろいろな役割を求めすぎになる(=恋愛、積みすぎた方舟)。情緒安定、癒やし、刺激、楽しみ、セックスなどをすべて恋愛相手に求めるのが当たり前のように思われているが、これらは恋愛関係の中でしか得られないものではない。むしろ、相手に多くの役割を求めすぎるほど双方負担になる。自分が恋愛やセックスに抱いている幻想を相手に押し付けることで関係をこじらせたり暴力にもなってしまう。精神的に充足したり生きづらさが緩和されるためには依存先を増やすのがよいと言われる。これは、特定の人にいろいろな役割を求めすぎると相手への過度な負担となり共依存にもなりやすいため、複数の人間に役割を分散させると適度な距離で負荷のない間係をたもてるためであろう。上野千鶴子さんも複数恋愛について、人はただ一人のパートナーによって①情緒的満足、②知的満足、③性的満足の全てを満たすことはできないから、自分の欲望を満たし幸福を高めるためには色んな人と関係できる可能性を失いたくないという旨のことを言っていた。

 

 また、カップル単位思考は人間関係の幅を狭めうる。セックスを含む相手の人間関係の自由(=プライバシー)が尊重できなくなり嫉妬や干渉が正当化されてしまう。パートナー以外の人(性愛対象の性)と気軽に会いづらくなる。話したい人と話し、会いたい人と会うことがしにくくなる。自由な人間関係をつくることができず世界の広がりやさまざまな可能性を失いがちになる。

 

 

2.悪い不倫/悪くない不倫

 

 人の感情は場当たり的である。誰かを愛しつつも別の人を好きになったり愛するようになることもあるだろう。複数の人を「誠実に」愛することもできる。また、恋愛関係をことさら特別視しすぎでもある。いろいろな人間関係の一つである。

 

 結婚にはイエの存続のために家長である男性に女性をあてがうという発想がある。近親相姦の禁止というルールにより、親族や共同体の外のイエに女性を供給し婚姻関係をつくることで、女性をつかったイエのネットワークや影響圏の拡大をおこなっている。結婚はイエの間での女性の交換であり、日本の戸籍制度は女性がどのイエに帰属しているかを示し女性を管理する発想をもつ。また、一夫一妻制(=モノガミー規範)は、一人の男性が多くの女性を独占するのではなく、多くの男性に女性を分配するためにある。昔から権力のある一部の男性が多くの女性を正妻や妾として囲い、階層が低い非モテの男性の多くは女性をめとれなかった。一夫一妻制は効率よく労働力を再生産する近代の資本主義にマッチするものである。多くの男女がマッチングされて子どもを産んでもらいたい。男女のカップルを生殖の単位とする発想であり生殖主義に基づくものだ。結婚には女性を男性に従属させ生殖とケアを担わせる女性差別の発想が根本にある。

 

 そして、現在の結婚制度はそれ自体が差別を生み出している。結婚制度において「カップル単位の性愛関係」に優遇的地位を与えることは、シングルへの差別となっている。婚姻における制度的優遇はカップルを対象になされている。これは、子どもを守る発想ではなく「家」という型(=標準家族)を守るための発想であり、労働力の再生産のために制度が設計されている。つまり、婚姻主義は生産性の論理のもとに婚姻外の人を劣位に置くことで成り立っている。このような結婚のもつ問題に対しては疑問や批判意識は持っていてしかるべきだ。そういう結婚やカップル主義に反発するためのオルタナティブ性をもった不倫もしくは複数恋愛は悪くないかもしれない。

 

 不倫はパートナーや子どもをないがしろにして裏切るようなものが非難されうる。不倫においては男性が有利であり男女では非対称性があることも認識されるべきだ。男性は複数の女性と関係をもつことが「男らしさ」として男性間のホモ・ソーシャルの中で優位になりやすい。一方、女性は貞淑さを要求されやすくパートナー以外の男性と関係をもつと「ふしだら」と一方的に非難される。また、ジェンダー秩序において女性に家事や子育てなど家庭内の負担がかかりやすい中で、家族をないがしろにした身勝手な不倫は男性がしやすい状況にある。パートナーや子どもを一方的に犠牲にするような不倫は非難されるべきである。結婚のウマミ(=特権)を固守しつつカップル単位思考を再生産しているだけの不倫は、むしろ結婚神話(=主流秩序)を強化してしまっている。このような男性の不倫は、特権のいいとこ取りだからズルいのだ。

 

 結婚がもたらすジェンダー役割のしんどさや家庭内の問題からガス抜き的に不倫をして精神的な安定を得ている場合もあるだろう。ひどいパートナーに対するカウンターとしての不倫もある。結婚生活の日常に退屈を覚え、非日常の刺激を求めパートナー以外とも割り切った関係や性愛関係を楽しむこともあるのかもしれない。それによって心の潤いができて退屈な家庭生活をなんとかやりきっているのかもしれない(家族を裏切っているわけはない)。生存戦略としての不倫もあるだろう。結婚して家族もいる人だけど魅力的だから親密になりたいという願望なども、関係が許せば問題ないことだ。当事者間の関係性による。

 

 

3.家族主義が人間関係の幅を狭める問題

 

 家族主義により人間関係が家族内に閉じやすく、強すぎる家族主義やカップル単位思考が人間関係の広がりや可能性を阻害していることは大きい。人間関係がカップルの二人に閉じないイメージでいろいろな人と会える自由があればよい。会う人については特に知らせる必要もないし、いちいちチェックをしない。お互い距離感を保ちつつ自由を尊重するという発想だ。親密な間柄でも秘密があることは関係をうまく維持するために大切である。自分にとって不都合だったりしんどい情報は無理に知ろうとする必要はない。また、相手に知られたくない部分は相手に開示しなくてもいい。相手のすべてを知ろうとしたら、それこそ相手が自分に何か隠しているんじゃないかと疑うことが前提になり安定した関係が維持しにくくなる。秘密は人間関係の潤滑油である。隠すべきところは隠し、相手の秘密も詮索しないことでプライバシーが守られる。自他境界の区分がつき依存・干渉などやんわりした暴力も少なくなる。

 

 現代人の孤立は近代の家族主義(=カップル単位思考)から生じている部分が大きい。家族を助け合いの単位とすることで家族以外への無関心を生んでいる。家族さえ何とかなればいいと考え、社会的な責任を負わないことを正当化し、市民的感覚の欠如したジコチュー人間が量産される。日本人は世間を気にすると言われるが、その世間とは家族あるいは自分の属する組織の人間など「身内」のことであり広い意味の社会ではない。個人の行動原理は社会での「正しさ」を基準にするものではなく、「身内」の中で優位なポジションを得ることや、「身内」の利益となるものである。視野の狭い家族主義や共同体主義は民主的な「正しさ」を阻害する。また、家族主義は家族のことは家族で何とかすべきという規範をもち、家族が困窮しても家族以外には助けを求めにくい。家族が孤立し関係を拗らせやすくなる。また、家族規範により家族内での依存と干渉が正当化されやすく、家族だから多少ひどいことをしてもいい、甘えてもいいという気持ちが生じる。一般社会では許されない過干渉や暴力なども愛の名のもとで家族間では許されてしまったり、問題が小さく見られてしまう。子どもを自分の所有物のように扱ったり、コントロールしようとする毒親などは相手が家族だという理由で自他境界をなくすことを正当化させる。毒親問題は、家族主義(=家父長制)が生む問題なのである。

 

 

4.子育てを家族単位から個人単位へ

 

 自由恋愛が必ずしも子どもを蔑ろにするとことには結びつかない。男女二人から子どもは生まれるから二者だけを性愛関係として拘束すべきだという発想が根強い。愛を家族内に囲み家族以外での愛は禁じている。しかし、親は二人だけに限られる必要はあるか。近所の人が子育てに参加してもいいし、親の自由恋愛によってさらに親的な人が増えて子育てが容易になったり、子どもが接する人間関係に多様性が生まれたりする。子どもは親だけが愛し世話をするものだという家族単位発想から、徐々に子どもは社会全体で育てられるものであるという個人単位発想にシフトしていくべきだ。親が何らかの理由で育てられないなら社会で育てていかざるをえない。子どもの生存保障が親だけに依存している家族単位のシステムがおかしいのだ。これは、社会の無責任である。

  

 昔の村落社会では、ムラで生まれた子どもは「ムラの子」として共同体で育てられた。核家族(サラリーマン+主婦モデル)がスタンダートとなる近代以前は3世代拡大家族が主流であり、子育ては親と祖父母によってなされた。両親が農作業に出ている間は祖母が赤子の面倒をみる。子育ての手法は家庭内でも伝承された。現在は「夫婦とその間の子」という核家族が家族のスタンダートとして定着し、子育ては両親二人によりおこなわれるものだという家族規範意識が強くなった。しかし、親は労働に追いやられてしまい、子育てを保育士に「外注」している状態でもある。また、ワンオペ育児も物理的にしんどいことが常々言われている。子どもの面倒をみるのがしんどくて子どもを憎んだり、思わず手を上げてしまう人もいる。日本では子どもの面倒は家族でみろという発想が強く、子どもの面倒をちゃんと見られないのは愛が足りないからだと精神論(=自己責任論)によって非難されてしまう。子育てにおける家族単位発想が家族をさらに追い詰めるように作用している。海外ではシッターなどを利用することは当たり前におこなわれているが、日本では育児に他人の手を借りることが好ましくないことと見られている。

 

 子どもの生存保障を産みの親だけに委ねる家族主義の発想では、国家や社会の責任を曖昧にしてしまい、社会改革につながらない。「子どもは親に育てられるべき」という家族規範を守るだけで、子どもを守ることを本気で考えてない。

 

 親子関係はあらゆる人間関係の一部にしかすぎない。親子関係が閉じるために毒親問題が深刻化したり、親子関係を引きずることで成人後の生きづらさももたらされる。子どもの人間関係の比重が親に偏重するのではなくて、子どもがさまざまな人や文化に開かれていることも極めて重要である。

 

 

 4.おわり

 

 カップル単位思考の家族主義は、男女二元論のジェンダー規範のもたらす差別や抑圧の大本である。この規範が取り払われると人間関係にも多様性と可能性ができる。

 

 

4コマ劇場(1)

いろんな事を4コマ漫画にしていきます。

 

ブログではマジメな事を書いてますが、本当はおバカなネタが好きなんです。5作ずつ載せていこうと思います。

 

 

 

◉ 西成の予見者

 

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◉ 宗教勧誘

 

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◉ 宗教勧誘(韓国編)

 

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◉ ヤンキー撃退?

 

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◉ マルクスが来た!

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