生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

婚姻主義が生むセックスワーク差別

 

【目次】

 

 

1.セックスワーク廃止論では誰も守れない

 

 コロナ禍で性風俗や接待業など「夜の街」に補償なき営業自粛の圧力がかかっている。「夜の街」はいかがわしい部分として切り捨てられようとしている。「昼の街」の方が常に濃厚接触状態なのに、あえて「夜の街」のリスクばかり強調するのは、単純にセックスワークや夜職のスケープゴート化だ。これを機にセックスワーク廃止論ももたげている。セックスワークが禁圧されている国では性サービスは闇にもぐり、マフィアがはびこる危険な環境にワーカーは置かれるという。また、著しく悪い条件で性サービスが取引されるようにもなる。正当な労働と認められないため市民的権利も行使できず売り手はますます弱い立場となる。セックスワーク廃止論は女性を守るように見せかけるが、実際は婚姻主義に基づく性規範を守るだけであり、女性を守ることにはつながらない。

 

 性風俗が暴力や性搾取の温床となっているという見方は根強い。それなら、セックスワークからそのような不当な部分を取り除き、まっとうなワーク(=労働)として確立していくのがワーカーの人権を守ることにつながる。搾取とは、正当な対価を支払わずこきつかう事だが、性搾取は性風俗だけでなく恋愛や家族においても蔓延している。恋愛や家族での性行為は不本意になされるものや暴力となっているものも多いが「愛」の名の下でうやむやにされている。性搾取(=性暴力)は社会の性差別秩序がつくりだしているので、ある業種(=セックスワーク)をやり玉に上げても社会全体の性搾取は無くならない。人権教育などで性秩序の上位にいる人(多くはシスヘテロ男性)の性差別意識を是正することでしか性搾取は無くしていけない。

 

2.セックスワークを「労働」と認め権利保障することが性搾取の低減になる

 

 資本主義社会では、労働者は資本に自分の「労働力」を使用する権利を売って賃金を得る。前近代の奴隷制は誰かが別の誰かをモノのように所有し使役することを正当化するシステムだった。「労働者」という立場の打ち立てにより、奴隷的処遇(=搾取)を廃止して自身の「労働力」の提供を超えたひどい扱いや生活や内面への干渉を振り払うことが目指された。奴隷制から賃金制への移行である。性風俗に従事する者がひどい目にあっても、自ら危なそうな業界を選んだのだから仕方ないと自己責任化されやすい。性風俗をしていたら、「風俗ではないマトモな仕事をしろ」とも言われやすい。「職業選択の自由」という原則により、労働とみなされにくいセックスワーク労務条件に手がつけられにくくなる。「労働者未満」とされたカテゴリーの者への奴隷的処遇(=搾取)が正当化されやすくなる。これは性風俗だけでなく外国人技能実習生制度や障害者作業所なども同じ問題系にある。家事を無償でやらされる主婦や無償のケアを要求される介護者も「非労働者」と見られているからタダ働きが正当化されている。つまり、ある労役に従事している者へ正当な対価を払い待遇を改善をするには、従事者が「労働者」として認められることが必要である。

 

 

 恋愛・家族外での性行為がいけない事とされているため、性風俗を秘匿の領域とすることで男性が利用しやすくなる。逆に、性風俗が公然化されたら男性は女性を自分の都合のいいように使い分ける「身勝手さ」を認めることになるから渋い反応を示すのではないか。性行為に対価を支払うことは恥であるという性規範が、セックスワーカーの労働者視を阻んでいるのではないか。性行為は金で取引されるべきではないという発想により性サービスが安く買い叩かれてしまっている。セックスワークが「労働」として認められると、セックスには対価が発生するのだと自覚させられ、家父長制の性規範が揺るがされる。婚姻主義が性サービスの無償化を正当化する搾取原理だったと気付かされる。セックスワーカーを一人前の「労働者」ではなく「奴隷」のように見ているから、ひどい扱いをしてもいいのだと思い込むスキも与えてしまう。

  

 何を「労働」として賃金の発生を正当化させるか、何を「非労働」として搾取を正当化させるかは恣意的に決まる。セックスワークを「非労働」にとどめおき搾取を正当化するのは以上のような家父長制の性規範がテコになっている。その方が、男性が無償もしくは安く性サービスを享受できたり、女性をモノ化(=奴隷化)することが可能になるからだ。ある行為を「労働」か「非労働」かに分けるのは政治的なものだ。ある労役に従事する人を「労働者」とみて権利行使の主体と位置づけるか、タダ働きやひどい扱いをうけても仕方ない「非労働者」(=奴隷)の位置に甘んじさせるのかは本質的に決められているのではなく、構築的(=意図的)に決められる。セックスワーカーを性搾取の被害者(=「奴隷」)と見ることは、「労働者」としての主体性を認めない発想にもなり、「労働者」としての権利保障や待遇の改善を阻むバイアスとなっている。セックスワーカーを奴隷的処遇に追い込むのは、セックスワークを「労働」とみなさず、ワーカーを「労働者」という市民的権利をもつ主体だと認めない発想である。

 

 

3.社会の性搾取はセックスワーク自体ではなくシスヘテロ規範(=家父長制)が生み出している

 

 性愛を異性愛の二者関係にコントロールする婚姻主義は、セックスを「正しいセックス」と「正しくないセックス」に二分する。セックスワークは婚姻主義の副産物である。「正しいセックス」なるものが、「正しくないセックス」を何であるかを決める政治によって生まれるものだからだ。婚姻外のセックスを「正しくないセックス」と劣位に置くことで、結婚制度の上にいる人が権威づけられるのだ。つまり、セックスワーク差別は婚姻主義がおこなっている。逆に言うと、婚姻主義はセックスワークを差別をしないと成り立たない。婚姻主義をテコに女性が分断されていると言える。恋愛や結婚によって男に囲われ所有の対象となる「貞淑な女」と、恋愛・結婚外の「遊びの女」とに分けられている。これは、男性優位の性規範にモノを言わせた二重の搾取(=女性の都合のいい使い分け)であるといえる。

 

 以上から、社会の性搾取(=性差別)をもたらしているのは異性愛カップルを性愛の「正しい」単位とする家族主義(=婚姻主義)である。これは、恋愛(=異性愛カップル・家族)の中における性行為を道徳的に「よい」と位置づけ特権化し、恋愛や家族外での性行為を道徳的に「わるい」と劣位におくこと成り立つ。異性愛カップル家族の性行為は結婚制度によりオーソライズされ、不倫や性的奔放さの非難、婚外子差別など家族(=婚姻)の枠を離れた性行為に対しては社会的な制裁を加えてくる。これは、生殖に結びつく性行為こそ「正しい」ものだとする生殖主義イデオロギーであり、家族を生殖・子育ての単位として正当化する家族主義の発想である。この家族主義は「性」を家族内に押さえ込む性規範を同時に必要とする。異性愛カップル家族の「愛」の領域に「性」を落とし込み、生殖を「愛」と結びつけ子どもや高齢者へのケアを家族に無償で担わせることを正当化させている。「愛」を家族による無償のケアや性関係を引き出すためのテコとするのが近代の標準家族システム(=シス・ヘテロ規範)である。

 

 「愛」と「性」は一体であるというロマンティック・ラブ・イデオロギーは、「愛」の名のもとでの無償の性行為を正当化している。これは、主婦の家事労働が「愛」の名のもとで無償化されているのと同じだ。性行為を「愛」に付随させることで男性の性的ケアを家族内の女性が無償で担うことになる。恋愛・家族の中でのみ性行為をすべきという性規範により家族の中で「性」をコントロールしようとする。妻が家事をしないのは「愛」がないからと言われたように、妻がセックスに応じないのは「愛」がないからだと非難される。カップル間のセックスは「愛」にみせかえた自由な行為ではなく一方的で無償の奉仕にもなりやすい。仕事や家事で疲れているのに夫からセックスを求められたり、断ると相手の機嫌が悪くなるから断りにくいものになったり、楽しくないのにセックスをさせられたり、不本意なプレイを強要されたりする。避妊などセーファーセックスもなおざりになることもある。「付き合っているから」、「夫婦だから」と言われ不本意なセックスを無償でさせられる事こそ性搾取と呼べるのではないか。このように、恋愛や家族においても性搾取は頻繁におこる。恋愛や家族での性行為を神聖化し、それ以外の性行為はひどいものと前提する家族主義(=婚姻主義)の性規範は親密圏での性搾取を見えづらくしている。性風俗を性搾取の元凶だと槍玉にあげるだけでは、かえって社会にあふれる性搾取(=性暴力)を見えにくくしてしまう。

 

 

4.セックスワーカー差別への対抗言説

 

 セックスワークに従事する人は無知で判断力がないから業者や構造に付け込まれているんだと見られることがある。また、従事者に障害をもつ人が多いなどと言うことで職業やワーカーの貶めとなっていることもある。セックスワークによってひどい目にあったり健康が悪くなった例なども批判のために出されやすい。しかし、どんな労働も体を壊したり障害になる人はいるので、それは本人の心身や労働条件の問題であり、職種でくくるのは適切ではない。セックスワークで障害が酷くなる等を強調する言説は、セックスワークを否定するために障害を引き合いに出してるという点で二重の差別と言える。

 

 これらの批判的言説の問題は、ワーカーが「労働者」として正当な対価と待遇を求めて性サービス(=労働力)を提供しているという主体性が尊重されないことだ。障害があるためマトモな判断能力を欠如していると見られたり、誰かに付け込まれていたり構造にハメられていると見られ、自分の意思でセックスワークに従事する主体として見られていない。また、セックスワ―クをする人を一方的に「かわいそうな人」とか「被害者」と眼差すのもワーカーの能動性や主体性を傷つけ尊厳を奪うものだ。そういう視線は相手を一方的に弱者(=劣った人)と見る差別的な視線にもなり、ワーカーを一人前の人として見ずに尊厳を傷つけたり、追い詰めることになり本人のエンパワーメントを妨げるものとなる。また、「性」は非売品だと見なされているから、「性」を売るのは卑怯だとされ市場のプレイヤーの一員だと見られない。「性」に奔放な女性をネガティブに位置づける性規範がセックスワーカーを市場で劣位に置いている。何が市場取引において正当であるかそうでないかも主流秩序の論理で序列づけられる。

 

 しかし、ジェンダーが支配する社会では、人々は生活をおくる中で自分のジェンダーや「性」を常に取引にさらされる。それらが自分の意思に反して取引されるのは問題だが、自分の利益のために取引の資源として活用していくのが性の主体性(=自己決定権)ではないか。売るか売らないは本人の自己決定の問題となる。資本主義は自分のもつ何らかの資源を用いて「労働力」として売り生きていくシステムだ。生存戦略として売れるものは売るというのは資本主義のルールに従っているだけであり、それで誰かの尊厳や権利を毀損する事もないならば咎められる理由はないのではないか。資本主義における全ての労働は根本的には資本による搾取で成り立っている。性サービスだけを殊更に搾取だと強調するのはセックスワークに対する負の印象づけで職業差別にとなる。搾取の問題は資本主義全体の問題である。家父長制の性規範が資本主義と結びつき女性や性的マイノリティへの性搾取を社会が正当化していることを問わなければならない。

 

 セックスワークによって人生が良くなったりエンパワーされたワーカーもいるはずである。ツイッター上のセックスワーカーのつぶやきなどではいわゆるクソ客のダメさが目につきやすいが、自分の性的な部分が承認されたり、人を癒やしたり喜んでもらうことによりやり甲斐を感じる場面などがあると思う。しかし、セックスワークは悪いというイメージをもとにしたひどい事例だけが多く提示されることで、「被害者」としてのセックスワーカー像が予定調和的に再生産されている。ネガティブな偏見が邪魔してセックスワークの実態が分かりにくいことがさらなる偏見や差別にも繋がっている。

 

 

5.買う側の倫理

  

 性風俗は買う側の倫理は問われる。「金にモノ言わせて女を好き放題する」という発想をもつクソ客的なマインド(=ミソジニー)は批判されるべきだ。女性を金や権力で思い通りに所有できるという発想は性風俗においてだけでなく恋愛や結婚でも見られる社会全体の性差別だ。であるから、批判すべきは女性のモノ化を正当化する社会のミソジニーとなる。性行為というのは基本的には暴力なので(同意と安全が必要)、金払ったらなんぼでもやっていいという発想は倫理に反する。欲望と倫理のバランスが求められる。男性が風俗に行った事をドヤ顔で自慢するのをキモいと感じるのは、性行為という暴力を行使しているという自覚(=倫理)が欠けているからだ。これは、性風俗だけでなく恋愛・家族におけるセックスについても同様だ。性的主体の位置にいるシスヘテロ男性が女性を性消費する語りを大っぴらにすることは権力勾配に無自覚であり倫理的に正しくないことである。

 

  シスヘテロ規範において性搾取の主体はシスヘテロ男性だ。性搾取はセックスワークそのものではなくシスヘテロ規範が生み出すものだ述べた。だから、買う側の倫理についても権力勾配上位のシスヘテロ男性を主たるターゲットにしないと、性搾取の実態をすくい損ねるだけでなく、マイノリティの性を抑圧する事にもなる。

 

 

6.書いたことの箇条書き

 

セックスワーク廃止論は性規範を守りたいだけで誰も守らない。

・性搾取の根源は婚姻主義であり、シスヘテロ規範の家父長制である。セックスワークが婚姻主義による性差別(=性搾取)を正当化するための「いけにえ」となっている。

・ワーカーを「被害者」ではなく「労働者」として権利行使の主体と見て、ディーセントな労働条件を求めることが性搾取の低減につながる。

・性行為は暴力の行使であるので買う側の倫理(=正しい姿勢)は求められる。