國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)を読んだ。
人類はいつから暇を手に入れ、退屈するようになったのか?
現在社会では、暇と退屈が資本によって搾取される。資本主義における暇と退屈との付き合い方を考えてみた。
●暇と退屈の誕生
p.71-
退屈は、人類の歴史の中でも比較的新しい現象だという。退屈は多くの場合近代と結び付けられる。
人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた。
ところが、1万年前(縄文時代)より定住生活を始める。定住生活の開始とともに退屈に襲われるようになる。
p.87-88
遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。
しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。
そこで、大脳に適度な刺激をかけるべく、高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体型や芸能などを発展させた。
縄文時代では、土器には使用するのに必要ないにも関わらず複雑な装飾が施されていたり、数々の工芸品がつくられた。
こうして、定住化による退屈の発生は「文明」を生じさせた。
●消費社会における暇と退屈
さて、資本主義が発達した社会において、人々の暇は新たな問題に直面するようになった。
マルクスの『資本論』に出てくるような時代には、人々は1日の大半を過酷な労働に費やされ暇や退屈はなかった。
p.23
長時間労働は依然深刻だが、先進国の人々は裕福になるとともに余暇を手に入れるようになった。
だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からないという問題が生じる。
p.34-38
パスカルの退屈論によると、人々は部屋でじっとしていられないから、退屈しのぎとして気晴らしを求めるという。
ウサギ狩りをする者は、ウサギを欲しているだけではなく、狩りをして退屈をしのぎたいのだ。
賭け事をしている人に金を渡しても、賭け事をやめないのと同じである。
p.17
ガルブレイスの『ゆたかな社会』(1958)によると、現代人は暇な時間の中で、自分が何をしたいのか分からない。そこで、広告屋などに「これが欲しいんでしょう?この趣味がいいですよ」と言われて始めて、それらのモノやサービスが欲しくなるのだという。
それまでの経済学の定説とは逆に、「ゆたかな社会」では、人々の需要は、供給側に操作されるのだ。
p.23
人々の暇と退屈に、資本主義がつけ込むのだ。文化産業が産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。
人々は暇の中で、退屈することを嫌う。だから、広告などに楽しみを提示されると、それを購買してしまう。
p.142
これからわかることは、消費社会は退屈と強く結びついていることだ。
p.145
ボードリヤールによると、現代社会において我々は物に付与された観念や意味を消費している。
例えば、どこかの有名なレストランで料理を食べた時、そこで提供された料理を味合うとともに、「有名なレストランに行った」ということで満足を得ているのだ。
このような、いわば記号の消費には限界がない。いくら消費しても満足がえられず、消費を続けてしまう。それでは、資本の思うがままになってしまう。
●暇と退屈の扱い方
現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか?
資本は退屈につけ込んでくる。資本のとりことならない楽しみ方が必要である。つまり、何でもモノやサービスを買って満足を得たり、退屈しのぎをしないことである。観念の消費なんて終わりがない。
知人と、これについて少し話をしたが以下のような楽しみ方がいいのではないかという話が出た。
・読書をする
・芸術活動に打ち込む
・仲間とだべって時間を過ごす
・散歩をする
カネを使わず素朴にできることを大切にしていきたい。これは、phaさんや大原扁理さんなども提言していることである。
國分功一郎氏が、どこかのブログ記事で語っていたのは「暇な時間をぼんやりと過ごす」ことの大切さである。
氏の近著『中動態の世界』の紹介でも書かれていたが、「暇な時間をぼんやり過ごす」ことは、依存症や精神病の人にとっても重要なことだ。
なぜなら、依存症の人は、暇な時間に耐えられず、手持ち無沙汰で依存物に手を出してしまうのだから。
暇な時間や退屈を、何もせずに耐える力も必要かもしれない。
私みたいな落ち着きがなく、じっとしているのが苦手な人間にとっては難しい。だから苦しんでいる。笑