生きるための自由研究

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少子化は「問題」なのか?

 

【目次】

 

 

1. 日本の少子化対策は子どもの事を考えてない

 

 9月20日内閣府は、少子化対策の一環として、新婚世帯の家賃や敷金・礼金、引っ越し代など新生活にかかる費用について、60万円を上限に補助する方針を固めたという(2021年度より)。

 

https://news.livedoor.com/article/detail/18929863/

 

 

 少子化対策というなら子どもに対する給付となるべきである。ただ結婚しただけで給付するというのは異性愛カップルの優遇という意味しかないので、少子化対策とはズレている。今の結婚制度を前提とした少子化対策というのは、標準家族(=婚姻内における異性愛カップル)という型を守ることが前提となっていて、子どもを守るという発想でなされていない。産まれた子どもが生きていけるように、婚姻家族のもとに子どもがいようがいまいが関係なく子どもの生存保障がなされるような制度にすべきである。少子化対策では「子どもの生存権」だけに絞って政策を組めばいい。資金、医療、保育所など子どもに対してダイレクトに便益があるものにすべきだ。結婚した夫婦に支給する発想は、子どもを守りたいのではなく、異性愛モノガミー秩序を守りたいだけなのだ。

 

 日本では結婚と出産が強く結びついており、子どもを産んで家族をつくりたいという動機から結婚がおこなわれる。日本では婚外子の比率が2%と先進国では例外的に少なく、結婚制度の中でしか子どもを産まない。だから「できちゃった婚」(子どもを妊娠したら結婚制度の中に素直に入っていく。現在、4組に1組は「でき婚」)という言葉が存在する。結婚を前提として子育て政策が組まれているため、結婚制度のもとにいない親子が制度的に差別される状態に置かれている。少子化対策というならすべての子どもが支援されるようするべきではないだろうか。

 

 

2. 今の少子化対策は将来世代にツケを回す発想

 

 今の子どもの貧困などをそっちのけで、人口を増やそうというのはちょっと待ってくれよと思う。まず、今の貧困問題を片付けることに力を入れてもらいたい。「子どもの貧困は親の貧困」と言われるように、現代の貧困を放置したまま出生を増やしても貧困が世代連鎖していくことになる。今ある貧困問題にまともに対処せず、新しい人口を欲しがるのは、貧困層を新しい人口で置換しようという発想があるためだろう。それでは、貧しい人を捨て去る棄民政策になる。国の少子化政策には子どもを新たな経済力にする発想しかなく、その子どもが経済的貢献できない人材となれば、また新たな世代にとって替えられる。つまり、経済がうまくいかない限り延々と将来世代に頼り続けることになる。今の問題にわたしたちが対処しないツケを将来世代に丸投げすることになる。これは、将来世代のことを考えずに今の世代が地球資源を食い尽くしたり地球環境を汚染する構図と似ている。少子化対策(=人口増大政策)は年金など社会保障の財源確保のために必要だと言われる。しかし、わたしたちの生み出した問題を将来世代によって解決させようという発想がまずいのではないか。わたしたちの問題はわたしたちが解決すべきだ。再分配は世代間の問題ではなく、収入格差や資産格差の問題だからだ。だから、年金についても右肩上がりを前提とした制度で若者が高齢者を支えるという世代間扶助の発想をやめる。持てる者から持たざる者へと再分配をおこなうことで格差をならす政策をとりたい。雨乞いをして経済成長を望むのではなく、今の格差の問題にちゃんと対処しなければいけない。

 

 

3. そもそも少子化は問題か?

 

 わたしたちは、子どもが産まれることが良いことであり、少子化は解消されるべき「問題」と捉え、少子化対策は正しいと思っている。少子高齢化が進むことで問題とされるのは、低成長や年金制度の破綻があげられる。しかし、それらは右肩上がりを前提につくられた昭和型のシステムが維持できないことを「問題」としており、少子高齢社会を前提としたシステムに変わってしまえば「問題」となくなる。少子化により若年人口(労働人口)が減ると経済規模が縮小するというが、そうならば、市場縮小や低成長を前提とした制度に変えるしかない。いつまでも経済が拡大することを前提とした実態に合わないシステムを見直さないことに問題がある。先進国はじめ日本社会も経済が高止まりする「定常化社会」(広井良典)という状態に達しており、地球資源の限界と需要の飽和という限界に直面している。人口増大も望めず経済成長も期待できない中では、再分配によって富の偏りを修正し、庶民に金を回すしか現実的な手段がない。このような再分配を中心とした政策を嫌うのは企業や資本家だろう。であるならば、少子化を「問題」としている主体は資本ということになる。みんな何となく少子化はよくないことで人口は多いほどよいと思っているが、それは資本の論理を内面化してしまっているからである。

 

 人類は地球資源を収奪し、工業化や戦争によって環境破壊はおこなうし、原発や温暖化など地球生命にとっては不利益ばかりをもたらしている。地球環境や動植物にとっては人類が減ることは願ったりかなったりであろう。このように立場を変えれば少子化は歓迎されるべきこととなる。また、地球全体の人口は爆発的に増えており、食料問題や資源問題という観点では地球規模では人口は減った方がよいとも言われている。

 

4. 妊娠・出産させることは暴力である

 

 他人を妊娠させ出産させることはデフォルトで暴力となる。だから、合意やケア、妊娠・出産により不利にならないシステムが必要になる。以前、代理出産の問題が話題になった。他者の身体に受胎させ、その間の生活の不自由や健康問題、痛み、生死のリスクなどを背負わせる代理出産には倫理的課題がつきものだ。相手の置かれた状況や被ることを顧慮することなく金を出しさえすれば代理出産はいいじゃないかという発想は倫理に反するだろう。高収入の女性が平然と代理出産を依頼すればいいと言ったことが批判をあびたのは、自分の被るリスクや不利益を金さえ払えば他の女性に肩代わりさせることができると思っていて、自分の権力性に無自覚だったからだ。

 

 産む側でない男性は常に女性に代理出産させていると言える。わたしはシスヘテロ男性で「生殖させる側」であるが、相手を妊娠させる事はおぞましい事だと感じる。身体の変化や痛みがすべて相手の負担になり、社会的な不利益を受けるのも相手になる。性行為や生殖行為の本質は暴力であるが、「愛」や「本能」などの言葉がその暴力性を隠すのに使われている。生殖は次代生産のためになされる。次代生産は人類の繁栄、資本の論理(国家財政や労働力再生産)、本能、愛、などという幻想(=物語)によって正当化されている。生殖行為は暴力であるからこそ、その暴力性を隠すために様々な「物語」が動員される。生殖はもはや「本能」ではなく「欲望」によりなされている。

 

 今まで、シスヘテロ男性が「俺、子どもができた」とドヤ顔をしたり、誰かに対して「子ども作らないの?」とか聞いたりする光景を見て嫌な気分になった。女性の身体に負担かけ、自由や機会を奪うことを度外視してよくそんな事が言えるなと神経を疑った。出生主義が暴力的であることに対してはリベラルと言われる人でも無神経な人は多い。「子ども産むべし」という出生主義は女性を犠牲にして成り立つ。これまでの、家父長制にもとづく多産社会では女性の大きな犠牲があった。少子化対策とうたい「子どもを産め」と社会が迫るのは、女性およびセクシャル・マイノリティへの圧力となる。

 

 

5. シングル単位発想で子どもの生存権を保障する

 

 男女平等がすすみ、女性の権利や選択の自由が増えることで非婚化と少子化はすすむ。それでも子どもは産まれてくる。計画的な妊娠は多くない。妊娠の半数は積極的に妊娠を目的としたものでなく避妊の失敗などである。男性の身勝手で女性が妊娠することも多い。産まれてきた子どもには罪はないので、子どもが生存保障されるシステムが求められる。これは、社会保障の観点からなされるべきだ。就労できず経済的自立ができない者に対する生活保障という位置づけだ。このような個人単位の生活保障というシステムであれば、婚姻関係を優遇しているわけではなく、結婚してもしなくても制度的に差別がされていることにならない。これにより、出産を奨励している訳ではないが(=出産に対して中立)、産まれた子どもは守られるようになる。結果、子どもは産みやすくなるだろう。現在の男女共同参画においてモデルとされる女性のライフコースも、結婚・出産をして男女で家事・育児をしながら正社員としてバリバリ働くことを理想の姿としている。多様性と言いつつも、今でも未婚・子なしの女性は社会では冷遇されやすく、社会が理想とする特定の女性だけがエンパワーされるようになっている。子どもありきの制度を見直し、子どもが増えないことを前提にしながら制度を中立的に設計しなければならないだろう。