生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

なぜ、「働いたら負け」になるのか?

 

【目次】

 

 

1. 社会に必要な仕事ほど損をする

 

 店員やドライバー、福祉のワーカー、保育士など人々の生活を成り立たすのに欠かせないエッセンシャル・ワーカーは、コロナ禍でも最前線の現場で働いていてリスクが最も高い。しかし、それらの職種には非正規が多く最低賃金レベルの報酬しか受けていない。非正規労働者は最前線に送られる二等兵のような存在であり、感染症に罹患しても補償はなく、容易に別の人材に取り替えられる。一方、大企業の正社員の一部などはリモートワークなどが導入されリスクを避けることができ、各種補償もある。司令官的な経営者や資産家なども現場に出ることはなくリスクをかわせる。エッセンシャル・ワーカーほど社会に欠かせない仕事でリスクが高いにもかかわらず報酬が低く、肩書きだけ立派で何をしているかも分からない高位職が莫大な報酬を得ているという状況が生まれている。

 

 デヴィッド・グレーバーは、このような無意味な内容なのに高い報酬を得ている仕事をブルシット・ジョブ(Bullshit Job)と呼ぶ。「あまりに意味を欠いたものであるために、もしくは、有害でさえあるために、その仕事にあたる当人でさえ、そんな仕事は存在しないほうがマシだと、ひそかに考えてしまうような仕事」だという。なんとかコンサルティングや、なんとかエグゼクティブといった立派そうな肩書きだけど何をしているのか分からない役職で、実際に大した仕事をしていないのに高給をもらっている人が多いという。グレーバーのもとにも、「自分の仕事はなんの意味もない」と言う企業顧問弁護士はじめ、「無用な仕事」について報告するたくさんの人がいたという。また、形式的な会議、押印の慣習、管理体制が厳しくなって手続きやルールが複雑になることで増える業務(=官僚的儀礼)も、必要のないどうでもいい仕事である。旧来のサービス業はここ100年で増減はないのに、管理に関わる仕事が増えたことでサービス部門が増大しているように見えるのだという。規制緩和や自由化が言われ無駄や非効率がなくなるように見せかけて、やたらと規制や書類仕事が増えるなどで、むしろ生活や仕事をするのに手間がかかり非効率的になっている。

 

 

(下記、ウェブ記事を参照した)

酒井隆史『なぜ、「クソどうでもいい仕事」は増え続けるのか?:日本人のためのブルシット・ジョブ入門』(2020.8.5)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74475



2. 労働イデオロギーが無駄な仕事を増やしている

 

 人は何が何でも働かなくてはいけないと思っている。資本主義における労働はもはや宗教的な儀礼となっている。これは、将来の利得のために今を必死に労働しなければいけないという近代以降の勤労道徳が基礎になっているだろう(ウェーバー:『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。この勤労道徳こそがブルシット・ジョブ(=意味のないどうでもいい仕事)を生み続けているとグレーバーは指摘する。技術の発展により、多くの労働が機械により代替できるようになった。しかし、今度は雇用を失う不安に人々は駆られる。そのため、人々に仕事をあてがうために無駄な仕事を増やしているという。そうならば、AI技術が発展すればするほど人々は無駄な仕事を増やしていくことになる。グレーバーに言わせると、「精神的に空虚で無駄な職業を世界中で発明している」という。労働主義が支配する限り、生産性が上がるほど非効率的で無意味な仕事が増えていくという矛盾がおこる。

 

 このような無駄な仕事であるブルシット・ジョブを無くすにはベーシックインカムの導入にその可能性があることをグレーバーは指摘している。今まで無意味な労働に当てられていた時間は創造的時間に費やされるというわけだ。しかし、たとえ生存保障がなされても「労働による承認」が絶対となっている社会では人々は労働に駆り立てられる。高齢者が家族のもとで暮らしていても仕事をしようとするのは、働いていないと邪魔者扱いされるからというのも大きいと思う。働いていないと世間でも家族でも居場所がなくなる。だから、身体を少々壊しても鞭打って働き続けなければならなくなる。労働が金を得る手段であるよりも社会的承認を得るための前提条件となっている。そのような労働イデオロギーを弱めない限りは、無駄な仕事を増やし続け、何が何でも働かざるをえないという「苦の連鎖」は断ち切ることはできない。

 

 

(参照記事)

Takashi Yoshida『ブルシットジョブ:現代の封建主義が生み出す無意味な労働』

https://www.axion.zone/bullshit-job/

 

 

3. 資本主義では労働をすることが不利になる

 

  下図を見ると、1997年を基準にして従業員給与は横ばいだが、配当金は2000年ごろから6倍に大きく伸びている。企業は利益を労働者に回さず株主に回すようになったということである。アベノミクスによる株価上昇は日銀に買い支えられ、大企業は安倍政権を支持することで株価対策となった。つまり、労働者の生み出した富と税金は内部留保や投資家に流れたことになる。トリクルダウンすら無かった。

 

 

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 アベノミクスは、ピケティが提示した資本主義の原理【r>g】を加速させたように見える。【r>g】は、資本により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長が早いということを意味する。資産をもつ者はより豊かになり、労働でしか金を得ることができない無産者は豊かになりにくい。そして、ピケティはこの富の格差は政策的な介入がないと広がる一方だと言い、修正資本主義に移行すべきだと主張している。資本主義では、労働するよりも株や不動産などの不労所得で暮らすほうが圧倒的に有利であり、「働いたら負け」という構造が再生産されてしまうのだ。

 

 

4. 生活できる水準の賃金が保障されていない

 

 日本の最低賃金では貧困ライン以下の生活を強いられる。最低賃金を決めるのは国なので、国が貧困を作り出していることになる。だから、貧困は個人の能力の問題ではなく国の問題である。賃金が低いのは自分の能力不足や努力不足だからだと自己責任としがちだが、生活ができないような低水準の賃金が公然とまかり通っているのはなぜかを知っておきたい。それは、個人が一人で生活できるような水準の賃金とする個人単位発想で最低賃金が設定されているのではなく、家族(=家長男性)に養われるから安い賃金でも構わないという家族単位の発想に賃金体系がなっているからである。これが分かれば、低賃金の問題は個人の問題ではなく、国が定めるシステム(=家父長制)の問題だということが分かる。

 

最低賃金の引き上げ(=家族単位から個人単位へ)については、以前書いたブログ記事を参照してください。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 ジェンダー差別に基づく賃金体系では、正規職の家長男性に養ってもらうことを前提にしてパートや非正規の低賃金が正当化される。国や企業は「家族の扶養」をあてにしているように、社会保障をもあてにして人々を安く使役している。作業所における工賃が安すぎるのは生活保護の収入控除(=15,000円)に収めることを前提にしているからである。さらに、障害者雇用における賃金が低いのは障害年金をあてにしているからである。国や企業が社会保障制度につけ入り、障害者を経済的自立をさせる気がないことが分かる。このように、立場の弱い障害者や困窮者は国や企業から足元を見られて不当に安く使われてしまう。このような待遇の悪い労働にも多くの人が進んで就こうとするのは、やはり生活保障がないことと、「労働による承認」を求めていることが大きい。就労能力が乏しいにもかかわらず就労意欲を見せるためだけに就労支援プログラムへの参加を強いられたり(それが障害年金などの受給要件にもなる)、何かしら労働につながるような事をしなければいけないという強迫が低い工賃でも作業所に通うことを選択させる(ただブラブラしているだけでは咎められる)。

 

 

5. アリ的な生き方をしても報われない

 

 人々を一生懸命に働かせるために「アリとキリギリス」の寓話がもち出される。将来の安定のために今を労働に捧げろというプロ倫的な規範が学校や社会で叩き込まれ、わたしたちの内面に染み付いている。アリ的な生き方は将来に富が築けるのであれば成り立つが、それは年功序列制に守られた正社員の生き方に限定される。低収入のフリーターが真面目にアリのように働いても資産は築けない。稼いだお金は住居費や食費、医療費、衣服代など健康をなんとか維持して労働力を再生産するためのメンテナンス費として消えてしまう。ずっと働き続けなければならない。アリ的な生き方を規範とする勤労観念は低収入でずっと人をこき使うための資本の論理である。低賃金で働かせて労働者に蓄財させず生存保障をしないことが、労働者をずっと低賃金で働かせるための仕組みとなっている。貧しい人はずっと貧しいままにされるのである。低収入であればアリのように一生懸命働いても老後は保障されない。年金はまともにもらえないし、かといって年金を払うと今の生活が成り立たなくなる。そして、アリ的な生き方をしていたら楽しみを先送りするばかりで、いつまでたっても楽しみは訪れない。同じように困窮するのであれば、「いま・ここ」を楽しむキリギリス的な生き方がよいように思える。

 

 わたしの知り合いでも、低収入だけどブラブラして「いま・ここ」を楽しんでいる人がいる。将来は生活保護を受けることを念頭においてフリーターをしたりブラブラしている人もいる。また、20代30代と若くして生活保護を受け労働しない生き方をしている人もいる。中には、「賃金労働は二度としない」と言って立てこもり生活をしている人も。就労経験が少なく実力も乏しい引きこもりの人が職を得ようとしても、低収入で待遇が悪くパワハラなどが多いところばかりである。金が稼げないだけでなく、業務についていけなかったり人間関係にしんどさを感じてやめてしまうのがオチである。まったく消耗戦である。就労ありきの生き方から脱却しない限りこのような消耗戦の繰り返しで時間や精神を空費する。就労がほぼできない人たちに就労支援をするのは、事業所が助成金を得るだけで、それこそブルシェット・ジョブになる。その金を生活保障としてダイレクトに給付したらよいのである。

 

 

6. 【結論】低収入者は「働いたら負け」となる

 

 日本では中途半端に稼ぐと割を食うシステムになっている。所得最下位層はいろいろな減免措置があるが、それよりやや上の低収入ラインになると、社会保障は受けられず、社協などの貸付金も返還免除とならない。国保、税金、年金などの徴収料も高くなり負担が重くなる。低収入の人にとっては「働いたら負け」となるシステムになっている。

 

 最低賃金を大幅に引き上げる賃金体系の個人単位化をしない限り「働いたら負け」の状態はずっと続く。「働いたら負け」の状態であるのに働き続けるのは、お金がないことに加えて、福祉や家族などに頼るのは恥ずかしいことだと考えている部分も大きい。現在、生活保護費はジリジリと削減されている。このジリジリと減らすのがなんとも嫌らしい。このように生活保護の利用者を追い詰めるような政策をとることで、世間にああなってはいけないと「見せしめ」にしているように見える。このように、生活保護の人を「いけにえ」にすることで労働主義は維持できている。働かない人や働けない人を劣位に置かないと労働主義そのものが成り立たない。人々が働くことを選ぶのは自分が序列の下位にいきたくないという強迫的動機に支えられている。このような労働イデオロギーを緩めるには、何が何でも働かなくてはいけないという強迫的な意識から、働くことにメリットがないなら働かなくてもいいという意識へと価値観を移行していく必要がある。割りを食っているワーキングプアーの多くの人が「働くのはバカらしい」と開き直って労働から撤退すれば、社会の労働規範も少しずつ解体していく。引きこもれる人は引きこもり、社会保障を受けられる人はそれで暮らす。わざわざ、負け戦となる消耗戦に出向く必要はない。「立てこもり」として生きていきたい。