生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

採取:しょぼいサブシステンス活動

 

野山や公園で野草やキノコを採ることについてのオルタナティブな意義を提示したい。自給農業や贈与経済とか“立派なオルタナティブ”ができないしょぼい人ができる事としてボソボソ声で提起したい。採取を通して今の消費システムから僅かにズレる実践をすることで一種の非日常の楽しみも味わえる。それを、しょぼいサブシステンス活動と呼びたい。こういう楽しみ方をみんなでやりたいですね。

 

【目次】

 

 

★★★ 2020年に採取した野草やキノコ ★★★

 

◉ 3月 河原のカラシ菜をパスタにあえた

 

河原でカラシ菜を採って、パスタにあえて食べた。アブラナ科は食べやすい。

 

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◉ 9月 道端のドクダミを天ぷらにした

 

住宅地の高架下でドクダミがたくさん生えていた。採取して天ぷらにした。他にもいろんな所で生えてる。長い季節楽しめる。乾かしてお茶にする人も多い。

 

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◉ 9月 山でエゴマを採った(何度も採れる)

 

山でエゴマがたくさん生えていた。これ、以前わたしが種を撒いたらずっと自生しているやつだ。しぶといのだ。大豆ミートとキムチを包んでサムギョプサル風にして食べた。また、たくさん採れたので醤油づけにして保存した。秋遅くまで成長して葉がたくさん採れる。

 

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◉ 9月後半 山の中でヒラタケを採る

 

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◉ 10月中頃 山でアケビを採る

山の中でアケビが採れた。アケビは中の果実を食べたら苦い皮が残る。これは、渋抜きして味噌などで炒めるか、肉詰めピーマンみたいに調理するなどで食べる。わたしは肉食を控えているから、大豆ミートと香辛料を皮の中に入れて、かんぴょうで縛って油で炒めた。カレー風味のアケビの皮の大豆ミート詰めだ。

 

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◉ 10月半ば 公園でイグチを採る

イグチというきのこが公園にたくさん生えてた。表面はぬめりがあり、裏はスポンジのようになっているのが特徴。ポルチーニ茸の仲間です。味噌汁にして食べた。

 

 

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◉ 10月後半 河原でミントティー

 

河原でミントを採ってお湯を沸かしてミントティーをつくる。エゴマもあったのでエゴマ茶もつくった。辛ラーメンに大葉を入れてもおいしいっす。

 

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★★★ 理論編 ★★★

 

1.立派にオルタナティブができない人はどうするか

 

 低い技術水準にあった狩猟採集民の生活は生存ギリギリではなく余裕のある食生活をしていたという。そして、狩猟民の生活資源の多くは植物に依存していた。人々は自然から追い立てられることで、寝床や食料の確保ができなくなり賃労働へと駆り立てられる(=本源的蓄積)。資本主義によって貧困は生み出されたと指摘される。

 

 

 資本の市場システムから離れたオルタナティブな生き方として、自給農業がよく推される。しかし、小さな菜園すら手に入れたり借りたりするのは難しい。そして、家庭菜園の小さな畑でも維持管理するのは想像以上に難しい。障害やいろんな理由で継続的な畑仕事がしんどい人にはハードルが高い。そして、怠け者で農作業がロクにできなくてもそれはそれで仕方がないことだ。土に触れて自分で野菜をつくる事は、自分の暮らしを自分でつくっている手応えを感じられるので素晴らしいことだと思う。しかし、自給が十分にできない人が何もできないと嘆くのではなく、しょぼくても何かしらできないか。わたしがボソボソ声で提案したいのは、技術や資源を必要としないしょぼいサブシステンス活動である。熟達した能力をもたない無力な者、自給する資源すらもたない無所有者ができるしょぼい「遊び」である。しょぼい人は資本主義へのしょぼいカウンターを実践をして、しょぼい楽しみを得ていく。そして、しょぼい活動でも自信をもってその楽しさを示していったらいいと思う。

 

 

2.「祭り」としてのサブシステンス活動

 

 農漁村の人たちが、生業のためでなく自然の中で山菜をとったり海で小魚や貝をとったりする非経済的な「遊び」の活動がマイナー・サブシステンスと呼ばれる(松井健など)。生計維持としては経済的な意味はまったくないのに、意外なほどの情熱で維持されている。山菜をとったら近所の人を家に招いたり、おすそ分けするなどして祝祭的な場がつくられる。マイナー・サブシステンスには、地域に受け継がれてきた伝統的な「祭り」としての側面がある。商品経済において採取活動は経済的利益に結びつかないどうでもいいこととされる。しかし、人の採取活動というのは、食料確保という有用性の次元だけでなく、非日常をもたらす「遊び」としての意味がある。山菜採りやキノコ採りに夢中になる人は、自然との関係で貨幣価値に還元できない楽しみを得ているからだろう。このような、自然との関わりを通した「遊び」を主流秩序からズレる活動として実践したい。農漁村のマイナー・サブシステンスには、小動物を獲ったり川や海で魚介類をとる活動があるが、わたしはアニマルライツにも配慮したやり方として植物の採取だけをしていきたい。わたしの言うところのしょぼいサブシステンス活動は、共同体で大掛かりにする装置的なものではなく、個人的におこなう即席的なものだ。たまたま通りがかった道端のドクダミをとったりする行為である。つまり、何の準備もいらず偶発的にできる気軽なものである。

 

3.「自立」のためのサブシステンス活動

 

 資本主義によって人は既成品を買うことでしか生活できなくなった。人々は一方的に消費者の立場に追いやられてしまった。この結果、人々が制度や市場に依存せざるをえなくなり、「従属」を強いられる。みずからの内発的な思考や行動によるヴァナキュラーな生活・活動ができなくなり、「自立」ができなくなってしまった。サブシステンスという言葉はフェミニズムの文脈で使われ、市場での経済的価値は認められないが生きる上で必要な営為とされる。そして、女性に割り当てられやすいサブシステンス活動が無償になされることが批判される。このように資本に都合よく女性が無償でサブシステンス活動をすることが美化されることは問題となる。ここでは、資本に従属しないサブシステンス活動の可能性について言ってみたい。イリイチのいう自立自存としてのサブシステンスである。生業という生産性の観点ではなく、資本に依存しないかたちで、「自立」した遊びを自給していくという発想である。しょぼいサブシステンス活動は資本の包摂作用に対して、わたしのようなしょぼい人がとれる微々たるカウンターである。これは、資本主義によって商品化されているわけでなく、さりとて公共化されているわけでもない、しょぼい〈コモン〉の発見と言えるかもしれない。システムの「隙間」にあるものだ。

 

 

 イリイチはヴァナキュラーな活動を、生き生きとした「節度ある楽しみ」(=コンヴィヴィアリティ)の実践として意味づけた。つまり、金儲けのために自然を過剰に使うのではなく、自分の充足のために必要の限り利用する。「足るを知る」という観念に基づく。しょぼいサブシステンス活動とは、近代技術(テクノロジー)や高度な能力を要さず、わずかな技能や知識をもとに楽しみを得る「足るを知る」の実践だといえる。

 

 

◉ 過去記事ではイリイチの自給理論について触れた(文が拙いなぁ・・笑)

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

4.〈コモン〉をしょぼく取り戻す

 

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。

 

(斎藤幸平、2020、『人新世の「資本論」』、集英社新書、p.221)

 

 

 資本主義が進むと、土地の「囲い込み」がおこなわれ〈コモン〉が奪われていく(=本源的蓄積)。この収奪は「私的所有の原理」により正当化される。そして、土地は利用料(レント=地代)を払わなければ使えなくなる。畑や住居などの生きるために必要な資源を得るにも高い金を支払わなければいけなくなる。資本主義は社会から〈コモン〉を無くすことで人々を貧しくするシステムである。しょぼいサブシステンス活動は、資本によって奪われた〈コモン〉の豊かさをこっそり取り戻す試みだと言える。つまり、資本によって閉じ込められた人の可能性を回復させ、「生の拡張」をおこなう。資本の論理からズレる実践を可能にして複数性の創出ができる。資本主義が浸透した日常世界の中に〈コモン〉による非日常をつくり出す。こういうしょぼい活動もアジールになると思う。

 

 

【参考文献】

 

 

 

◉ 野草のレクチャーを受けた話

 

nagne929.hatenablog.com