民法における家族の扶養義務が家族と同居する経済困窮者を追い詰めるという問題を提起する。これは、実家ぐらしの引きこもり・無業者などの経済的問題を生み、「自立」の妨げとなっている。経済的自立できない主婦や介護者も対象にする問題でもある。
私は、実家ぐらしで月6万円のアルバイトをしている。経済的自立ができない者である。
よく実家から離れたいと思うが、貯金がなくアパートすら借りられない。保険などでアパートの部屋を借りたとしても、一人暮らしができるほど稼げない。
私は、自身の陥っている問題と、その問題を生んでいる社会保障のあり方について指摘し、そして実家ぐらしの経済的困窮者への施策としてなされるべきことをツイートで提言した。
このツイートは少し注目された。
https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085478058851586049
結論、すなわち政策提言から言うと以下の通りである。
https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085519008235810819
私は、障害者手帳の等級は3級だが障害年金はもらえそうにない。以前、役所に生活保護の相談に行ったが「家族に面倒見てもらえ」と言われ引き返さざるを得なかった。
【余談】
その時は、友人とルームシェアしていたのだが、ルームシェアしている状況でも生活保護は認められない。生活保護を受けるためにはカップルや友人同士の同居が認められず、保護を受ける代わりに人間関係が分断される問題がある。これは、ますます保護者の孤立につながるという問題がある。
経済困窮者はまず家族に面倒をみてもらえ、それが無理なら国が面倒を見るという家族主義が強いため(家族の扶養義務=家族を福祉の機能と位置づけている)、経済困窮者は経済的支援を家族に依存せざるを得ない。家族間に軋轢があり同居が難しいと認められれば、生活保護を受けられる場合もあるが、家族とそこまで衝突がない場合、扶養義務により家族に経済的に頼ることになり、家族との同居しか選択がなくなる(実家に縛り付けられる)。生活保護受給者や年金受給者の場合とちがい、経済的支援がない実家ぐらしの人は金の供給源がなく、家族に頼らざるをえなくなる。
民法の「家族の扶養義務」があるため、経済困窮者を家族が養うことが義務とされ、実家から離れ一人暮らしをしたくて生活保護を受けたいと思っても、実家から離れられないという問題がある。
また、実家に暮らしており家賃や水光熱費がかからないとしても、金がなければ何もできない。所得0の人は親などから小遣いをもらうことになり負い目を感じながら生活をしなければいけなくなる。人としての尊厳が失われうる。
反貧困ネットワーク埼玉の代表をされている藤田孝則さんからも若年層の社会保障の未備として引用RTで紹介され、多くの人から反応をもらった。
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私のツイートに対し、ブログなどで交流のあるよしりんさんが日本の社会保障の問題を的確に指摘いただいた。
↑ 訂正 リプ元ツイートの「親兄弟」→「親子兄弟」(正確には先程の民法の項目参照)
よしりんさんは、障害学や社会学などをもとに「生きづらさ」についてはてなブログに記事を書いておられて、卓抜した知見を提示されている方です。
以下の記事は、「すべての人が生を否定されず、尊重されなければいけない」ことを丹念に論じられている内容で、「生存権」(社会保障)と「個人の尊重」といった私たちの生の根幹となる部分をどのような考え方で支えられるかが述べられています。
tunenao.hatenablog.com
●「自立」の意味と、家族と同居する経済困窮者に求められる施策
僕は就労困難で経済的自立ができない者を、現代の社会システムに適合できない者として制度上は「障害者」と扱い、社会保障がなされるべきだと考える。
その上で、障害者の「自立」がどのようなものか、自由の保障という観点から定義づけて良い。
自分がどのような生き方をしたいか自己決定の自由が尊重され、それが保障されるという考えにのっとって、「自立」の意味は以下でよいと考える。家族の扶養義務は「自立」への障壁として機能していると言える。
障害者の「自立」という言葉は、近年、経済的な自活という意味ではなく、自らの生活を自らの意志で決定するという意味に用いられるようになった。
立岩真也『生の技法』(第二版)p.91-92
● 家族の扶養義務が生み出す問題
生活面、経済面に困っている人に対して家族が優先的に面倒を見るべきだという家族主義はイデオロギーであり、家族の扶養義務には論理的根拠はない。
障害学の分野では、立岩真也さんが家族の扶養義務には正当性がないと主張する。
ここで問われているのは家族の義務である。家族に義務が課される根拠はあるか。
法律的な根拠という意味なら義務はある。民法は義務を課している。生活保護法、その他福祉関係の法律もこれを受けている。しかしそれに正当性はあるか。家族が家族の面倒を見るのはよいこと、うるわしいことかもしれない。しかし、ある人達が家族を形成すること、家族という関係の中にあること、その家族のメンバーに対して相互に「義務」を課すことをつなぐことができるか。夫婦であることと、一方が他方の面倒を見ることとは別のことでありうる。無論、面倒を見ようと思う人がいてもよい。しかし、そのことと面倒を見る義務を他人が課すこと、国家が課すこととは全く別のことだ。夫婦の間に義務を課すことを正当化する根拠は見つからない。親が自らの選択で子を持つ以上、子に対する親の義務の全面的な解除はできないという考え方はありうる。しかし、少なくとも成人後、家族のもとで家族に面倒を見てもらって暮らさなければならない理由はない。子の障害によって必要になることを親がしなければならない理由はない。
立岩真也『生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(第二版)p.361-362
▼ 家族の扶養義務があることでむしろ、家族をつくり維持することの障壁となる
例えば障害のある人とない人が結婚した場合、介護加算を含む生活保護費が支給されなくなるので、生計も介助も一方の側が支えなければならないことになって、生活の維持が難しくなるという。扶養義務が結婚(同居)や出産を抑制させてしまう。
(立岩、前掲書、p.362参照)
▼ 扶養義務があることで子の自立が妨げられる
親との関係では、障害がなければ、成長するにつれ、身のまわりのことで依存することがなくなり、そして経済的にも独立し、その上で親との関係がつくられていくのに、その関係が成り立たない。それはまたその人自身が家族をつくっていくことを困難にしていく。家族によるべきでないのは、家族の負担が大きすぎるからという理由だけからではない。負担可能であっても義務を課す理由はなく、家族とのよい関係を保っていくためにも、義務を課すべきではない。
(立岩、前掲書、p.362より引用)
▼ 介護疲れ、引きこもり家族の疲れ、など
親の面倒を子は見なければならないという家族主義を内面化した意識が強いがために、認知症や高齢の老衰した親につきっきりで介護をして、介護疲れで親を殺したり心中する事件が相次いでいる。
引きこもり家族が関係をこじらせ、家族と離れたほうがいいのに離れられず、暴言や暴力、さらには殺人にまで至ることもある。
●社会保障は家族単位からシングル単位にすべき
日本の社会システムは家族単位でできている。
家族が社会での単位であることは、単位の中の構成要素(夫、妻、子、障害者、高齢者など)は部分でしかなく、各人(家族の個々のメンバー)は一人前(主体)ではないとみなされる。また標準家族をもてない者は「半端者」と見られる。「半端者」見られるとは差別されることである。家族単位の社会は差別を生み出している。
(伊田広行、前掲書、p.40-41)
経済力格差は自己決定・自由・権力の基礎である。「養ってもらっている」というのは自分への負い目となるだけでなく、権力関係から相手に支配されうるし、支配されても従わざるをえない時が多くなる。
扶養されるということはこういう問題をはらむ。そして、扶養を法によって義務とすることで支配ー被支配の関係がつくられ、いびつな人間関係や人権侵害が生まれる温床になる。
愛の名のもとで、干渉や強制や依存、暴力が悪気なくおこなわれる。家族はブラックボックス化しやすく、市民社会ではあり得ないことが起こっても明るみにならず、外部の者が介入しにくい。治外法権になりやすい。
このように、扶養義務が強ければ経済困窮者は家族に経済的に依存せざるをえず、弱者に転じうる。個人単位で社会保障(生活保護など)がなされれば、家族への経済的な依存を減らし、「自立」もできるようになる。
シングル単位化は、高齢者や子ども、障害者、疾病者を「家族による保護の客体=弱者」とみず、「権利行使の主体」とみることを意味する。
(伊田広行、前掲書、p.138)
当事者が、依存的弱者になるのではなく、「自立」=自己決定の保障がなされるように制度改革が必要である。
私は家族主義を否定しているのではない。家族の扶養義務によって当事者が「自立」できなくなる、つまり選択の自由がないことを問題としている。
社会保障は家族単位でなされるべきでなく、シングル単位でなされるべきである。