生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

労働主義と全体主義

1.「仕事さえできればいいんだ」という考えが甘えを生む

 

 この社会では仕事により「自立」ができたら一人前と見なされる。だから、みんな身を立てるために頑張って仕事をしようとする。仕事ができなければ本人の能力だけでなく人格や態度まで問題視される。労働はただ生活のためにするだけでなく、差別されないためにするという動機が大きい。労働・結婚・家族という主流秩序の王道にいたら、それらが「鎧」となりその人の落ち度が突かれにくくなる。逆に、働けない人はそのような「鎧」がないため、内面や態度がジャッジの対象にされやすく、落ち度が過度に問われるようになる。主流秩序に乗ることで落ち度を問われない特権が得られる。見かけ上の経済的「自立」を達成していれば、他の面については問われにくい。金さえあれば他のことを問われない立場になることが特権なのだ。

 

 例えば、家庭内でわがままだったり、職場でパワハラや嫌がらせなどをする人でも、仕事ができたらひどい行為は度外視され放免されやすい。労働さえできれば多少ひどい事をしても問題ないという「認知の歪み」が生まれる。労働主義が仕事のできる人を甘えさせていると言える。アルコール依存症の人も、大酒飲みでも仕事がデキる人が多い。夫が依存症で家族が困っていて妻が誰かに相談しても、「旦那さんは金稼いで家族を支えてるんだから大目に見てあげなさい」と返されることも多い。このように、労働主義がいろんな問題を見えにくくさせ事態を深刻化させることが多い。依存症は「否認の病」とも言われる。アルコール依存症の人の多くは「俺は酒飲みやけど仕事ができているから問題ない」と依存症であることを否認する。仕事ができることがかえって依存症に向き合わない口実にされる。仕事ができることが隠れ蓑にされ、その人のもつ負の問題にメスが入りにくくなる。

 

 

2.労働主義が「凡庸な悪」を生む

 

 一般社会では善良に見える人でも、職場で高い地位にいると、人を呼び捨てにしたり、大声で怒鳴ったり、自分より目下の人をひどく扱う。あれは立場に甘えているからできることだ。善良に見える人も立場を得ると人が変わる。これは、「凡庸な悪」だろう。「凡庸な悪」とは、普段は善良な市民に見える人が、何らかの形で自分が優位な立場にいると思い込むことで、他人にひどい事を平然とでするさまを表現した言葉だ。労働では地位や能力での序列づけが正当化されるので「凡庸な悪」を量産する。能力主義がものをいう空間ではデキる人がデキない人を蹴散らして支配する人間関係がはびこり、人権という市民社会の光がかき消されやすい。労働の場こそ暴力や差別が公然とまかり通る空間ではないか。労働主義こそ全体主義の温床になっていると言える。

 

 東日本大震災原発事故以後に「0円生活」の実践や「いのちの電話」をしている作家の坂口恭平さんがYoutubeで話していたことで印象に残ったエピソードがある。反原発デモに出かけて、抗議する人たちの前に立ちふさがり警備する一人の警備員の顔を見ると泣いていたという。権力の側としてデモ隊の前に立っているが、こんな仕事したくなかったという思いがあったのだと思う。権力の尖兵は必ず「悪」なのか。仕事のために、生活を人質にとられて「悪」をやらされているのではないか。ブルシット・ジョブという言葉がある。社会にはあってもなくてもどうでもいい仕事や、むしろ社会に害を与える仕事で溢れている。そういった無駄な仕事や害になる仕事はやっている人の良心をも傷つけていく。労働主義によって「悪」が正当化され、人々の尊厳が傷つけられている。

 

3.社会正義のためには労働至上主義からの解放しかない

 

 ハンナ・アーレントによると、労働主義が強まり人々が私的利益の追求ばかりするようになると、社会から公共的なものが衰退し全体主義に陥ったという。アーレントは人々の営為を「労働」「仕事」「活動」という言葉で表現した。金が稼げる「労働」ばかりが肥大化すると、創作活動などの自由な「仕事」、政治や社会問題の話し合いなどの民主主義に欠かせない「活動」の割合が減っていく。労働で余裕がなくなると人々は社会に目を向けなくなる。経済力をつけ主流秩序の上に行くことばかりを考えるようになり、立場の強い者をより強くし、金持ちが優遇される政治を求めるようになる。人々が労働でてんやわんやになりジコチューになったほうが社会の主流秩序は強まり権力には願ったりかなったりだ。そうすると、多様性が損なわれ社会的弱者やマイノリティの生きにくい社会がうまれる。

 

 労働主義を強めるには、労働でしか生存できない社会にすることである。社会保障をなくし生産手段を奪うことで労働でしか生きられないようにする。労働時間が長いと自分で料理をする暇がなくなり、外食やできあいの惣菜を買わせられる。このように人から自分で生活の要素をつくる手間や自給する資源を奪い、商品を買わせるサイクルをつくることで資本主義は拡大していく。資本主義では金を払えば何でも買えるが、「商品」を消費することでしか生きていけず、労働−消費の相互依存により人を資本に完全に従属させる。また、人々が金をもてあまして貯金されたら人々は労働しなくなるので、働いても金がたまらないように低賃金にして常に貧困状態にしておく。さらに、貧困層が働いても金が残らない課税システムをつくる。このようにして、人々が労働では豊かになれない仕組みをつくる。「働いたら負け」の構造をつくりつつも、働き続けることを強いる奴隷状態に人を置く。社会は労働が美徳だとメッセージを発するが、労働主義は社会を壊す。民主主義や倫理的な生活というのは労働時間の削減や生存保障なくしては実現ができない。労働至上主義は社会正義と両立できない。

ケアの論理

 

【目次】

 

 

1.「女をあてがえ論」ふたたび

 

 もてない独り身の男性をケアするために「お節介なおばちゃん」が必要だというツイートが話題になった。街のおばちゃんは、孤独に苦しんでいる男性にも暖かく声をかけ、関心を寄せ、いろいろお膳立てしてくれる存在なのだという。「非モテ男性に女をあてがえ」と言っている男性は多いが、これは女性を自分の地位達成・情緒的ケアのために都合よく動員する発想なので性差別であると非難されてきた。今回のツイートでは、若い女性にケアを求める発言をするとあからさまな女性のモノ化だと非難を受けそうだから、「女性」の規格から外れた「おばちゃん」を持ち出してきたのだと思う。男性同士でケアをする発言が出てこないのは、やはり女性にケア役割を求めているためだろう。また、おばちゃんなら自分たちに積極的にお節介を焼いてくれるから、自分から動かなくても自動的にケアを受けられるという発想があるのかもしれない。女性はすすんで男性をケアすべきだという無償のケア要因として女性を位置づける社会のホモ・ソーシャルは根強い。

 

 

2.「ケア」は稀少財となっている

 

 ジェンダーロールとして女性はケアの与え手になるべきという規範がある。男性は企業で働くなど前線で戦い、女性は男性を後方支援すべしというジェンダーロールは根強い。表舞台で活躍する男性を、女性は影で目立たないようにさりげなくケアするのが美徳だとされる。ケアは「愛」からなされるのが美しいとされ無償ですることが正当化される。ケアは労働者を支える再生産労働というシャドウ・ワークとなり貨幣評価から度外視される。ケアは人を支え、よりよく生きるための資源を与えているにも関わらず、効果が目に見えにくく些細なことだと見られタダ働きとなりやすい。例えば、キャバクラやクラブなどは非日常空間で女性と会話を楽しむ場であり、ケアはサービスに入ってない。しかし、金を払っているんだからと男性客がホステスさんにケア役割を求めがちになる。このように、スキがあれば女性からケアを引き出そうとする。競争がはげしく肯定感を得にくい社会では人はケアを求めたくなる。しかし、男性は女性にケアを押し付けがちとなる。これは、男性がケア関係をつくりにくいことにも原因があるだろう。

 

 女性は男性をケアすべきだというジェンダー規範は、まず、特定の人にばかりケアを押し付けるから不平等だと言える。ケアというものは時間や傾聴力、対話力、相手への関心をもつ努力など、いろいろな資源を使う作業だ。しかし、精神的な癒やしは目に見えにくいからケアは大したことがないと思われてしまいがちである。だが、これだけの資源を相手から奪うのであるから対価があってしかるべきなのだ。ゆえに、自分がケアをしてもらいたければ、①対価を払うか、②自分もケアの与え手になり相互扶助的にやることでフェアとなる。

 

 自分だけが一方的にケアをされたいといのは、相手の資源を一方的に収奪することになる。だから、セラピーには対価が発生する。自分が思っていることを話して誰かに話を聞いてもらうというのは、対価を払う以外には親密な関係性をつくることで可能だろう。しかし、そのような親密な関係性は現実では作りにくいからケアは難しいものとなる。言いっぱなし聞きっぱなし方式でお互いの話を聞きあう依存症の自助グループなどは「ケアの相互扶助」という原理で成り立っているのだろう。親密性は贈答原理によるので、相手から与えられるには、自分も与えなければならない。つまり、「過剰」な人になる。祝祭的な存在にならないといけない。

 

 

3.承認欲求オバケはなんで疎んじられるのか?

 

 承認欲求をこじらせている人が疎んじられるのは、自分が一方的に与えられる側(=奪う側)にいるからである。人はなぜ他者に話したがるのか?自分の言葉が他者に受け入れられ他者を変化させる感覚を得ることで“快び”を感じるからだろう。つまり、他者と関わることで自己効力感が得られるからだ。相互に言葉を投げあいお互いに影響を与え変化を感じることに学びやケアはあるのだろう。だから、言いっぱなし聞きっぱなし方式ではなく対話方式の方にセラピー効果があるのだと察する(オープンダイアローグなど)。しかし、自分が承認されることだけを考えている人は、自分が相手の言葉を真摯に受け止めたり、相手に何かを与える余裕がない。だから、与える側は手応えを感じることができない。相手との対話を無視して自分の話ばかりしていると、相手に対して自分を受け入れるよう求めるだけで相手の資源を一方的に消尽することになる。相手の言葉を聞いていたとしても、相手から学ぼうという姿勢がないなら、相手の言葉を受け止めることができない。だから、話す側は砂漠に水をまいてもすぐ乾いてしまうような徒労感をもってしまう。のれんに腕押し的な空回り状態となる。自分だけが一方的に与えられることで満足しようと考えている人は、相手からの資源を奪うだけで、相手にとっては学びがないので相互的な関係が築きにくい。

 

 

4.男性は「資本の論理」で関係をつくりがち

 

 誰かにケアされたいなら、自分が与えまくる存在にならければいけないだろう。損得を考えず与える。ポトラッチだ。「過剰」を振り回し祭りのように生きてると、知らず知らずのうちに誰かにいろんなものを与えている。だから、他人からもいろいろ与えてもらいやすくなる。「男らしさ」というジェンダーには、理性的で落ち着いて、感情的になってはいけないという規範がある。つまり、シラフでいることが求められる。これは、会社人間的な存在でいろという資本の要請かもしれない。「男らしさの鎧」という表現があるが、男性は肩書きや地位といった「鎧」でコミュニケーションをしがちである。男性は資本主義社会で通用する学歴、地位、所有物を「鎧」として身にまとって競い合いをしたり、同格の「鎧」をもつ人とは連帯感をつくる。だから、「鎧」を外せない。「鎧」を外せなければ自分の内面を見せられないので、ケアからはどんどん遠のいてしまう。このように、男性のコミュニケーションは資本の論理によりなされがちだ。

 

 

5.ケアの論理は「かけがえのなさ」で成り立つ

 

 資本の論理が貫く日常の領域では、どれだけ「役に立つか」という有用性に基づいて関係がつくられる。つまり、《交換原理》が支配する。仕事の同僚などである。一方、親密な関係は損得では測れない《贈答原理》に基づく。無条件に与え合う関係だ。友人や仲間などであろう。しかし、「男らしさの鎧」を身に着けた男性は資本の論理に基づくコミュニケーションを友だちや恋愛でもしがちなのではないか。男性が女性を自分のものにするために金品を与えて歓心を引こうとする。また、気の利いたリッピサービスも頻繁におこなう。それで相手の心はつかめるか。金品そのものや耳ざわりのいい言葉だけでは難しいのではないか。モノや金、誰でも言えるセリフは、その人でなく他の人でも与えられるので代替可能なものだ。つまり、《交換原理》によるもの。しかし、代替可能なプレゼントや言葉でも、自分と相手との深い関係によって意味付けされると代替不可能な特別なものに変わる。これが、「かけがえのなさ」なのだろう。このように、相手との感情の交流となるケアの関係も代替不可能な《贈答原理》に基づくだろう。だから、《贈答原理》が求められる相互的なケア関係で、金や肩書きを示して《交換原理》を持ち出すとチグハグになる。くさい言葉だが「かけがえのなさ」はお金だけでは買えない。尊重の原理に基づく内発的な情動に基づく。時間と深い関わり合いを必要とする。子どものとき友だちだった人に経済力や役に立つことを求めていたか。それを考えてみればいいのではないか。《業績ベース》の人間関係ではなく、《存在ベース》の人間関係の中にこそケアの論理はあるのだろう。

 

 

6.「変わった人」になる

 

 「男らしさ」というのはしっかりした態度や、頼りがいがある様子などを指す。社会で生きる男性の行動原理は資本の論理に基づくのでガチガチのロボットみたいになる。街中で誰かに話かけようとしてもスーツ姿のサラリーマンには話しかけにくい。忙しそうで急いでそうだから。スーツ=戦闘服なので、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。人から構われたり話しかけてもらいやすくするには、スキをつくるのがいいと思う。「男らしさの鎧」を脱いでいくと人がつけ込むスキが生まれるのではないか。多くの人はスキができるのが怖いのかもしれない。しかし、スキをみせてヘラヘラしていると人が寄ってくる。「男らしさの鎧」をまとっていると表面的な部分でしか他人と関われず、人の奥にダイヴできない。人は、シラフではシンクロしにくい。シラフでない「祭り」の要素が必要になる。だから、非日常の「過剰」な存在にならないといけない。

 

 わたしは、このような「男らしさ」の堅苦しさからズレようと女装っぽいことをしている(のかもしれない)。一言でいうと、訳のわからない格好をして「変わった人」を実践している。これで、街を歩いていると物好きな「変わった人」から声をかけられることがある。訳のわからない格好をしてるとツッコミどころがあり、人から関心をもたれやすくなり、構われやすくなる。スケベ目的が多いが、街の人たちと談笑しやすくなるのはよい傾向だと思う。女装をしなくても、知らないおっちゃんに声をかけて話が始まったりもする。自分が話しかけてもらうのを待つだけでなく、自分から声をかけていくのもいいのではないか。街にいるおっちゃんも寂しさを抱えて手持ち無沙汰でブラブラしてる人も多い。そういうおっちゃんに話しかけて、孤独感や疎外感をお互い埋め合わせれば世の中から孤独が薄れていきよいのではないか。話しかけたら気さくに応じてくれるおっちゃんも多い。街の人はたいてい一期一会の関係だ。その場限りの会話なので、後に引きずることがなくちょっと突っ込んだ無礼講的な楽しみを得られる。職場で緊張して当たり障りのない会話をするよりははるかに気が楽ではないか。男性は体面を気にせず「変わった人」になっていくべきなのかもしれない。世間ではトンデモナイと思われることをして「変わった人」になることで、スキができて人との関係の契機が生まれる。

 

 また、女装?には意外な効果がある。男性の多くは女性に癒しを求めるが、わたしは女装?により自分を女性化して自分自身で癒しを自給できているのかもしれない。女装?はセルフ・ケアや、セルフ・エンパワーメントになっているのかもしれない。

 

 もし、あなたが孤独をかかえていて街で知らないおばちゃんに声かけて欲しかったら、わたしが声かけてあげます。だから、京都か西成に来なさい。笑

 

 

写真①:西成の公園にいる猫たち。猫のように街中で気楽に交流できれば孤独も減るかもしれない。

 

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写真②:女装っぽい格好。これで、自分の殻(=男らしさの鎧)をすこし破ることができたかも。

 

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4コマ劇場(4)

わたしの経験したことや、聞いたことを4コマ漫画にしてます。

ブログでは硬派なこと書いてるけど、他愛ないことが好きです。

 

 

◉ はじめてのパトカー

 

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◉ 西成とジェンダー

 

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◉ 警備のおっちゃん

 

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◉ トーン・ポリシング

 

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◉ あいりんセンターの思い出

 

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「自立」について

 

【目次】

 

1.マナー(=規律)はキモい

 

 わたしは、2017年にパソコン関係の職業訓練を受けていた。通所していると給付金がもらえるためである。また、当時は友だちの家に住ませてもらい世話になっていた。働かずにブラブラするのは友だちからいい顔をされず家を追い出されそうだったので、仕事をする意志を見せておくために職業訓練に行っていた。つまり、仕事をしないことを職業訓練でカモフラージュしていた。当然やる気は沸かなかったし講習にもついていけなかった。というか、パソコンの練習をしても全く上達しない。講習のスピードも速すぎてついていけない。三ヶ月ほど過ぎた後、マナー講習なるものがあった。講師のおばちゃんが来て、話し方やお辞儀の仕方などを受講生にやらせた。お辞儀の角度などもいろいろ言われた。安くこき使われるのに、そんなに礼儀正しくすることがバカバカしく感じて気持ち悪くなった。そのマナー講習で、職業訓練そのものに嫌気が指した。すべての給付金を受け取れることが確実になると職業訓練をやめた。働く気もなくて、なんだか旅に出たくなった。職務能力はまったく身につかず、給付金だけもらってお遍路に出かけた。

 

 さて、仕事などでマナーを求められて嫌な思いをした人は多いはずだ。わたしの知り合いが昔、職業訓練に行っていたときに受講生に元ヤクザの人がいて、マナー研修の時間に「そんなかったるい事やってられるか」と怒鳴って帰ったそうだ。いわゆる「社会人」になるためには、型にはまったマナーとか訳の分からないものが求められるから、働く意欲があっても働きたくなくなる人が増えるのだ。

 

 

2.「自立」のために進んで権力に「従属」する

 

 こういった社会人に必要なマナーというのは、学校時代から身につけさせられる。歩き方に始まり、起立・礼・着席、集団行動の法則、授業の受け方、食べ物の食べ方、人との会話の仕方まで、すべてに定型があるかのように訓練させられる。しょうもないやつでも型だけのマナーができていればあまり咎められない。フーコーのいう規律訓練だ。規律訓練はあからさまな暴力という形ではなされず、規律に従うのは何となく正しいことだとみんなに思い込ませ、知らず知らずのうちに規律に従う身体をつくりあげ、権力へ従属させることで達成される。自分の周りの人たちからの影響だけでなく、メディアや主流の言説などを通して、無自覚に規律的な行動をおこなう従順な身体を権力はシレーっとつくりあげる。むしろ、自発的に規律を身に着けようとする人たちもいる。自発的隷属いいじゃないか、主流秩序バンザイである。

 

 このように、社会不適合者を社会に適合させようとするために規律訓練がなされる。引きこもりやニートの就労支援や作業所などの現場でも多くなされていることだろう。人を社会復帰させる時には、職務能力だけでなくマナーといった規律も身につけさせようとする。こうやって主流秩序を脅かさない従順な「主体」を作りあげる。社会のいうところの「自立」とは、権力への「従属」である。キツく言うと奴隷の育成である。こういったマナーなどを過度に求める社会のあり方が、マナー講師などどうでもいい無駄な仕事(=ブルシット・ジョブ)を生んでいる。

 

 資本主義社会では、金を稼ぐことが人として認められるための前提となっている。人はちゃんと仕事をして他者から一人前と認められて、やっと「自立」しているとみなされる。「自立」なるものが、他者の承認に「依存」している。だから、人は一人前に「自立」するために、積極的に資本の論理に「従属」する。ん?なんだか矛盾してないか??

 

 

3.弱者を追い詰めるために使われる「自立」という言葉

 

 自分が生活するための金を稼げる事が「自立」とされ、みんなが達成すべき状態として高い地位に置かれている。このため、このような見かけ上の経済的「自立」を達成していれば、他の面については問われにくい。金さえあれば他のことを問われない立場というのが特権なのだ。

 

 資本家は労働者の生み出した剰余価値をかすめ取って利潤とするし、株主も自分が何も手を動かさず労働者の生み出した富から利益を得ている。高い報酬や給与というのは、誰かの犠牲の上で成り立っている。それは、国内のワーキングプアーや、途上国のサバルタンの人たちの低賃金労働によってかもしれない。資本家や株主、高給取りの人たちが、見かけ上は経済的に「自立」していても、それは労働者の生んだ利益(価値)を土台としている。金さえ手に入れば「自立」しているんだという自立観念が、資本家や株主が労働者の生んだ富に「寄生」している歪んだ構造をぼやかしている。

 

 そもそも、人は他人・制度・資源などに依存していて生きていて、誰一人「自立」していない。しかし、経済力がある事が「自立」だとする狭い自立観念により、自分が経済的に強い立場になると「自立」していると思いやすくなる。自分が多くのものに依存して生きているのにも関わらずそれに無自覚でいると、自分の状況を差し置いて、弱い立場の人にだけ「自立しろ」と迫る傲慢な人間になる。自分が社会の多くの資源に依存していることに気づかず無自覚でいられることがマジョリティの特権性なのだろう。このように、「自立」という言葉は経済的に強い立場の人に都合よく使われる。お金だけあればいいんだという自立観念が、自分が社会に依存している存在であることを無視するエゴイストを生んでいる。労働さえすれば社会的責任を果たしていると思い込むことで、労働さえすれば他の事や社会の事はどうでもいいのだという社会的無責任も生んでいる。

  

 生活保護を利用したりする人を税金泥棒と言う人たちがいる。少額の万引きに対しても過度な刑罰が課せられバッシングの声も大きい。こういった発想を支えるのは「私的所有の原理」だ。土地や資源などは本来誰のものでもないのに、法によって誰かの帰属物として正当化される。しかし、この「私的所有の原理」は、弱い立場の人を追い詰めるために用いられる場合が多い。ホームレスのおっちゃんが数百円の万引きをしただけで世間はギャーギャー騒ぐけれど、桜の会や森友、オリンピックや万博、GOTOの利権、中曽根の葬儀などで税金を食いあさる権力者のかっぱらい行為は堂々と見逃されている。「私的所有の原理」はその適用のされ方において不公平なのだ。生きるためにわずかな金を社会に依存していることは咎められるのに、庶民から吸い上げた税金を自分たちの友だちで回して食い物にする権力者が牽制されないのは不正義なのだ。このように、一見中立でもっともらしいルールも立場の強い人たちによって都合のいいように歪んで運用されてしまう。

 

 

4.家族単位のシステムが「自立」を妨げている

 

 日本はシステム上、個人を自立させないような仕組みとなっている。それは、家族単位のシステムに問題がある。最低賃金が安いため一人暮らしをするのに十分な稼ぎを得られない。そのようなワーキングプアーは家族に依存せざるを得ない。女性の賃金も安いため稼ぎのある男性と結婚することが生存戦略となってしまっている。経済的なことは家族に依存すればいいという発想をもとに低賃金が正当化され、労働システムが家族主義に貫かれている。社会は個人に経済的自立せよと迫るが、自立がしにくい構造なのだ。また、福祉を利用することは「自立してない」と差別され社会的制裁を受けるために、低賃金でも働き続け、家族の下にとどまろうとする。このように、家族単位の社会では人間関係は家族に依存することが前提となる。家父長制のもと家族内では稼げる男性と依存する女性という二者関係となり、「依存/支配」がベースになる。家庭内では、男性が女性を支配するジェンダー差別と、親が子どもを支配するエディプス構造という二重の抑圧が生まれる。この家族の外延に学校・会社などの組織がある。社会全体が家父長制の擬似的家族となる。これに対し、個人単位の社会では「自立/連帯」がベースになっていく。個人単位で生存保障がなされることで、誰からも支配されない自立した個人が、選択的に色んな人と適度な距離感で関係しながら生きていける。人との関係が尊重ベースになる。

 

   わたしなりに「自立」を定義すると、「他者への抑圧をできるだけ減らしながら自由になること」となる。多くの富を得ることはそれだけ誰かを蹴落とすことになる。偉くなってふんぞり返って自分の特権性を顧みず威張り散らすのもみっともない。みんなが偏差値70にはならない。どこかにしわ寄せがくる。主流秩序の上へ上へと目指すことは差別への加担になる。だから、上にいる者はその特権性に付随して社会的な責任も生まれてくる。その責任にちゃんと応えようとする倫理的態度が求められる。ただ金稼げばいいのだという日本的金満は社会の格差と差別を助長するだけだ。主流秩序における自分のポジションを自覚した上で、できるだけ、ほどほどに生きるのがいいのだろう。

熊野古道を歩く(その2)

10/1〜10/6の熊野古道(中辺路)の歩き旅の後半部分です。本宮大社那智大社〜速玉大社までの道中のレポート。

 

前半部は以下でレポートしました。

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

◉ 4日目(10/4)

 

 

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熊野川沿いの道を通って本宮大社を目指す

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朝歩いて本宮大社に到着

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本宮の街中にある商店で食材を購入。動物性の食べ物は控えています。麺類でもおいしいもの作れます。

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本宮から1時間ほど歩いて川湯温泉に来た。河原に露天風呂があるけど、今回は川で泳いだだけです。料金がそこそこするから。

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川湯温泉の川はきれいで水に浸かって癒やされた。

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本宮から那智大社を目指す。中間地点の小口集落への山越え。小雲取り峠。

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山道を歩いてたら雨が降ってきて日も暮れた。暗いけどヘッドライトをつけて目印を確認しながら進んだ。石の通路が多いので何回か滑ってこけた。

 

 

◉ 5日目(10/5)

 

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朝は辛ラーメンに大葉とドクダミを入れて食べた。

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小口という川がきれいな集落

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小口集落からの大雲取越えは坂と階段ばかりの難所。3時間くらいずっと急坂を登る。修行です。

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大雲取越えは本当にバテます。重い荷物を背負っているからなおさら。

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越前峠を過ぎたら、道は楽になります。苔の生えた様子がよい。

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小口から5時間くらいで地蔵茶屋というきれいな川を望める東屋ポイントがある。ここでソーメンを食べる。

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清流を横に見ながら道を歩く

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夕方に熊野那智大社に到着

那智大社は山深いところにある

那智の大滝です。山な中に滝のけたたましい音が響いている。

那智の山には巨大な杉の木が多い。

 

 

◉ 6日目(10/6)

 

朝早くに那智の集落を歩いた。

JR那智駅に到着。太平洋側に抜けた。

新宮に向かいます。海沿いの道が気持ちいい。しかし、車がすぐ横を走るので気をつけたい。

新宮の海

みかんの無人販売所が多い。すごく安くて美味しい。

新宮駅近くに大逆事件で処刑された大石誠之助などを顕彰する碑がある。誠之助は医者であり、インド留学中にカースト制度の問題から社会思想家・アナーキストとなる。アメリカ在住のときに料理人した経験から、新宮で西洋料理店「太平洋食堂」を経営し欧米文化を紹介していた。新宮の名誉市民となっている。

熊野速玉大社に到着。那智から4時間。大変つかれた。

紀南の名物のじゃばらウォーターは甘酸っぱくておいしい。200円くらいでスーパーにも売っている。

15:06の特急くろしお号に乗って新大阪へ。太平洋を見ながら帰りたかった。

JRきのくに線は太平洋が間近に見えて素晴らしい。わたしが5時間くらいかけて歩いた距離を20分で走り抜いてしまったのにはあっけなさを感じた。新大阪までは4時間かかります。今回の旅はおわり。

 

熊野古道を歩く(その1)

 10/1〜10/6にかけて熊野古道の中辺路を約120km歩いた。紀伊田辺駅から歩きはじめ、熊野本宮大社熊野那智大社→熊野速玉大社の熊野三山を歩き終えた。すべて東屋や河原などで野宿した。今回は、毎日かなりの距離を歩いた。このようなペースでは行くのは強行軍なので良くないです。でも、歩き出したら、ついつい歩き続けてしまう。自分の積極的な意志で歩いているのでもなく、誰かから歩くことを急かされているわけでもないのだが、取りさらわれるように歩みをやめられない。そういう中動態的な感覚に突き動かされていた。もちろん、ただ歩くだけでなく、景色や鳥を見たり、川で泳いだり、野草やキノコをとって料理したりと楽しみました。旅という非日常では人から意外な話を聞けたりして、それも楽しい。食料は事前に買っておいた方がいいが、水は湧き水や川の水でなんとかなる。おいしいし。



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《中辺路ルート図》

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今回歩いた中辺路はピンク色の線

 

※以下のサイトから借用したマップです

熊野古道|新宮市観光協会

 

 

【10/1】25km

紀伊田辺駅→滝尻王子(中辺路山道の起点)

【10/2】21km

 滝尻王子→熊瀬川王子(山の東屋で野宿)

【10/3】16km

熊瀬川王子→熊野川の河原(途中3kmほどヒッチハイク

【10/4】20km

熊野川の河原→熊野本宮大社川湯温泉→小雲取越→小口集落

【10/5】18km

小口集落→大雲取越→熊野那智大社→大門坂

【10/6】20km

大門坂→那智駅新宮駅→熊野速玉大社

 

 

 

◉ 1日目(10/1)

 

 山中での野宿となるので、防寒具とシュラフなどで荷物が多くなる。17年のお遍路で使用した大きめのザックで行く。前日の9/30は西成のホテルで1円で宿泊した(SNSのフォロワー1000人以上なら宿泊費1円になるキャンペーンをやっている)。今回の旅での宿泊費は、この1円だけです。

 

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・電車の中で出会ったスーパーおばあちゃん

 

 天王寺を6:45発の電車で湯浅駅で乗り継ぎ、紀伊田辺駅に9:51に到着した。湯浅駅で乗り継ぎ電車を待っている時に、ホームにいたおばあちゃんから話しかけられ、電車の中でもずっと談話していた。戦時中に北海道の親戚のもとに疎開した話や、戦後満州からの引揚者の人たちによくしてもらったとかの話を聞いた。86歳のおばあちゃんだけで、当時の女子では珍しく私立大学を出たという。和泉の医療機関で働き、通所する西成の困窮者の人たちの生活支援もやっていたそうだ。専門知識を勉強するためカルフォルニアの大学にも留学したという。西成の人は複雑な境遇な人が多く、援助職は大変だったという。でも、西成の人たちの人情に助けられたという。わたしが前にあいりんセンター前のおっちゃんに寝床を案内してもらった話をしたら、すごくビックリしていた。このおばあちゃんは、お遍路も歩いたり、熊野古道も歩いたりしたスーパーおばあちゃんである。旅の話もたくさんした。こういう話ができたのも、わたしが旅人モードで非日常性をかもしだしていたから、ちょっと突っ込んだ身の上話を聞くこともできるのだろう。旅をしているとこのような非日常モードの会話が可能となり思いがけない出会いもある。

 

 

熊野古道の始点である滝尻王子へ

 田辺駅からはのどかな田舎の道を歩く。途中、車道から外れ山の中を歩いたり、梅林やみかん畑の横を通るなど変化に富んでいる。山を抜けると稲葉根王子を経て富田川を登っていく。川で泳いで汗を流したりした。この日は滝尻王子まで25km歩いて、河原で野宿した。10月の山中は昼は暑いが夜は冷えるので長袖とシュラフが必要だ。

 

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各所に王子跡がある。熊野九十九王子は、京都から熊野三山に至るまでに設けられた。熊野権現御子神を祀る分社であり、巡礼や旅の安全を祈願する場であったという。

 

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南部や田辺などは梅の産地で、街や山は梅の木だらけである。

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車道から山の中に入って歩いたりもする。登りは少ない。

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山を抜けると富田川の横を歩いていく。写真は稲葉根王子の近く。この川は現世の不浄を清めるとされ旅人から崇められたという。

 

 

◉ 二日目(10/2)

 滝尻王子から山道に入って、山の中を歩き続けた。この日はかなり歩いた。坂道や登りが多く身体にこたえた。途中、イグチという可食キノコをみつけて夜ご飯にした。

 

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いつものように野宿した。河原は寒い。

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滝尻王子から2時間歩くと高原霧の里に到着。景色が開けて気持ちいい。

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水車は心が和みます。

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山道の横には石で積んだケルンがたくさんある。みんな石で即興アートをつくって歩くんだろう。

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切り株に石を置いて顔になってる。切り株アート。

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熊野古道は人がほとんどいない。ずっと一人で山の中を進む。歩きをやめたら静寂に包まれる。でも、ヤブ蚊が多いのでおちおち休憩ができない。

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山道で食べれるキノコを見つけた。イグチ(ヤマドリダケ)という名前でイタリアではポルチーニ茸と呼ばれる高級食材です。

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夕食は、山道でとったキノコ(イグチ)と野草のオオバコでパスタをつくって食べた。

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2日目は山の中の東屋で寝た。大きくてしっかりしているので寝やすかった。熊野古道には東屋が各所にあるので歩き疲れたら寝ることはできます。

 

◉ 3日目(10/3)

・朝の林道をバイクでブラブラしてたおっちゃんと話す 

 朝、林道の横にある公衆トイレで歯磨きに行くと、小さいバイクから降りてタバコを吸っているおっちゃんがいた。挨拶から始まり、話をしているとおばあちゃんが南方熊楠の友だちで、熊楠の話をよく聞かされたらしい。夜に熊楠の家に行くと、庭で裸になってぼんやり月を見ていたそうだ。熊楠は「変わった人」として田辺の人気者だったようだ。和歌山の山間部集落では木こりや炭焼きなどの生業で暮らしている人が多いのだそう。若い人が山村ぐらしに憧れて炭焼き職人のもとに弟子入りするも、ずっと炭の様子を見ていなければならず、まともに休める時がないという。それで、月収は10万円くらい。悪条件の労働だそうだ。おっちゃんは、あてもなくバイクでブラブラするのが好きで、冬の寒い時でも何も考えずにただ走っているのが心地よいそうだ。運動しているわけでもなく、休んでいるわけでもないアイドリングの状態が心地よいのだと語った。禅なども、動いているわけでもなく寝てるのでもない状態に心地よさがあるのではないかと。わたしは、この話を聞いて中動態的な感覚だなと思った。わたしが頭を空っぽにしてブラブラ歩いているのも、アイドリングという中動態の状態なんだなと。

 

本宮大社手前の河原まで行き野宿

 この日も、ひたすら山道や林道を歩く。湧き水や川の水があるので飲水には困らない。冷たくておいしい。自販機も少ないからこういう自然の水を飲んだり汲んだりして歩を進めたい。最後、3キロくらい手前になって軽トラのおっちゃんに道を聞いたら車に乗せて連れて行ってもらった。旅をしてると、こういう厚意にあずかりやすくなる。ありがたい。

 

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仲人茶屋跡から迂回路に入るが、この道が坂がきつくてバテた。

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昼に峠(三越峠)についた。ソーメンを茹でて食べます。

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ソーメンは茹で上がる時間速いから便利。大豆ミートと野草(ツユクサヨメナ)を入れて昆布だしと醤油で味付け。

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大豆ミートはアウトドアに便利です。軽いし腐らない。水でふやかせば食べられる。いろんな料理にあう。携行食として推したい。

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町の中に出たら名物のめはり寿司も食べた。

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河原で野宿。月や星がきれいだった。

 

 

後半は以下でレポートした

 

nagne929.hatenablog.com

「無縁」のすすめ

 

【目次】

 

 

1.「無縁」の可能性

 

 わたしたちは社会の中で生きていくためには何らかの評価されるポジションを得て、世間の期待に応える役割を演じていかなければいけない。それができないと、「村八分」にされ、社会から冷遇されたり、制裁を受けたり、存在さえも無視されてしまう。引きこもりの人などが働けずに社会的な役割を果たせていないと、存在そのものが蔑ろにされてしまう。このように、生きづらさの問題は社会で要請される役割を遂行できずアイデンティティの獲得ができないことで、存在を否定されたりないがしろにされることで生じている。だから、わたしたちは世間で評価される生き方を実践するために、世間的価値を内面化する。わたしたちの行動は、「正しさ」を基準にしているのではなく、世間的な「役割」や「立場」に基づいている。学歴、職業、役職といった地位を獲得するだけでなく、交友関係、恋愛相手、家族、居住地域などの関係性もテコにして自分の「立場」を獲得している。世間で期待される役割というのは会社・地域・家族の領域であり、これらは連動している。仕事ができない人は会社で居場所をなくし、職を失うと地域で立場を失う。家族を形成できない人は世間では評価されにくい。子どもを産み育てられないセクシャル・マイノリティや非婚者は、家族主義の要請する役割(=男女をカップルとするシスヘテロ規範)を果たせないから社会から差別されてしまうのだ。

 

 世間に包摂されていないのは「無縁」という状態だ。「無縁」は、世間からつまはじきにされマイナスの状態であり差別の対象にもなりやすい。しかし、歴史家の網野善彦は、「無縁」を既存の社会秩序やしがらみからの離脱として肯定的に捉えた。世俗の人間関係から解放されることで生じる自由、そして、「無縁」による連帯(=マルチチュード)の可能性があるという。

 

 

2.「世捨て人」として世間からズレる生き方

 

 昔は出家などで《俗》の領域から《聖》の領域にジャンプすることで主流秩序からズレた生き方が可能だった。超絶してしまうと、労働をはじめ世俗的な義務を免責されるようだ。宗教的存在となることが世間の風圧をかわすことにもなった。

 

 西行法師(1118〜1190)は、武士の家のサラブレッドとして生まれた。妻子をもち順当な人生をおくっているように見えたが、23歳の若さで出家して家族のもとを去った。理由は、友人の死に無常を感じたとか、政争に明け暮れる世の中に嫌気がさしたからなどと言われる。あちこちで庵をつくり放浪の人生をおくった。保元・平治の乱では西行の旧知の人のたくさん死んでいった。そのような動乱の中、世の中から距離をおき西行は花鳥を愛で人生をおくった。お遍路や熊野古道などで歩いていると各地に西行が放浪で訪ねて詩を詠んだ碑がある。このように、出家という形で「世捨て人」となり世間からズレて各地をブラブラして生きていた人は多くいたのだろう。

 

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10月に熊野古道を歩いていると西行の訪ねた跡をみつけた。巡礼として各地を放浪していたのだろう。

 

 

 

 鴨長明(1155〜1216)は下鴨神社の神官であった父のもとに産まれ、神官となり主流秩序の真ん中を歩む予定でいた。しかし、親族間での抗争や嫌がらせにより神職に就くことができず、出家して京都郊外の山中の庵で隠居生活をした。その後も、どのようなポストにも就けず、隠居しながら俗世間のことを書き記したのが『方丈記』。4畳半の方丈の間で静かに暮らしながら失意のうちにこの世を去った。しかし、長明は、就職ができないことをよそに、琵琶と和歌の腕を磨きつづけ和歌集にも入選している。和歌の分野でも定職には就けなかったが、無頼のミュージシャンとして趣味に生き、世間とはズレたところで居場所をみつけていたのかもしれない。

 

 

3.超越した存在としての「無縁者」

 

 網野善彦によると、中世では遊女や河原者(皮革業者)、物乞いなどは、神仏や天皇に仕える芸能民とみなされていた。鍛冶、番匠(=大工)、鋳物師などの手工業者、さらには遊女、白拍子、猿楽など芸能民などは、天皇に直属する供御人や、神仏に直属する神人、寄人として高いポジションを得ていたという。彼らは蔑視される対象ではなく、一般の平民がもたない能力をもつ超越的な存在と見られた。そして、「無縁」性を帯びているから神に近い存在として神聖視された。

 

 南北動乱以降における天皇や神仏の権威の低下、13世紀後半以降の貨幣経済の浸透や識字率向上など文明化により非人や遊女への差別意識が生まれた。非農民は《聖》から《賤》へと転落していく。遊女は遊郭に閉じ込められ、非人は被差別部落に囲われるなど、地域ごと差別の対象となる。人の職や地位の意味付けが時代の文脈により恣意的に変わっていくのがわかる。神聖なポジションにあった「無縁」の人々が、差別される対象になったことで、彼らの救済のために発展したのが親鸞日蓮などの鎌倉新仏教だという。信・不信、浄・不浄を問わず全ての人が救われると教える一遍上人は、踊り念仏という今で言うロックコンサートのツアーのような感じで全国を行脚した。多くの人を動員した踊り念仏は秩序を脅かすものとして権力からは批判の的になった。

 

 

4.「無縁者」が社会に亀裂を入れる

 

 「無縁者」というのは非日常の存在である。固定性がなく、主流秩序の日常性とはズレたところにいる。社会からはなんだかよく分からない得体の知れない存在と映る。「畏れ」の対象でもある。規範からズレているので、人々をあっと言わせ意識を攪乱させる。規範に適合しない人が、マジメに規範に従おうとするのではなく、存在そのものが規範からズレていたり、規範からズレる実践をすることで、規範そのものに風穴が空いていく。ジェンダーセクシャリティの文脈ではクィア的実践と呼ばれる。規範をつくりだす日常性を揺るがすような非日常的実践が、硬直した主流秩序に亀裂をいれるパワーをもつかもしれない。

  

 旅人、行商、芸能民、遊女など社会の周縁で生きてきた「無縁者」は、オモテの社会からは抑圧されつつも、オモテの人々に非日常をもたらす《聖》なる存在でもあった。陰で生きつつも、時にオモテの社会に顔を出してみんなをあっと言わせる。平地人を戦慄せしめていた。

 

 以前、知り合ったホステス経験者の人は、ホステスの仕事を「夢を売る仕事」だと語っていた。街ですれ違っても話すことがない見ず知らずの人たちが、酒の席で自分の身の上話や込み入った話をする。日常とは違う非日常モードであるから可能となる。非日常を提供する仕事なのだ。「夜の街」は、サラリーマンなどの日常を支える非日常の領域として社会を統合する役割を果たしているのだ。

 

 旅の非日常性も面白い。旅をすることで非日常モードに入る。旅をしてると気が乗って人に話しかけやすくなったりする。また、旅をしてる人には話しかけやすく、立ち話から始まり自分の突っ込んだ話をしたりすることも多くなる。ヒッチハイクで気軽に車に乗せてもらったりと、恩を受けたり恩を着せたりがしやすくなる。人は旅人に対して日常モードとは違う対応をする。無礼講的な楽しさがある。このように、旅人は自分だけでなく、周囲も非日常モードに巻き込むパワーをもつ。日常に生きる人たちにささやかな非日常をもたらしている。

  

 「無縁」の状態になることで、人のしがらみの深みに足をすくわれなくなるかもしれない。人間というのは相手との適度な距離感や緊張感があれば、だいたいはいい人でいられる。人は関係ができてくるとコントロール欲求や上下関係が生じる。旅での一期一会の出会いが楽しいのは、人間のよい側面だけ見れるからかもしれない。

 

 

●参考文献

 

網野善彦『日本中世に何が起きたか』角川ソフィア文庫