生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

個性を求められることのしんどさ

以前、恥を覚悟で私の苦しさをブログに書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

この苦しみは、私が自己アイデンティティを確立できていないゆえから生じているのだろう。

 

活動や表現活動がうまくできない、センスがなく他人から反応が薄く自己アイデンティティがグラグラしてる。私には高尚な部分もあるし下劣で未熟な部分もある。どっちつかずであることなど。

 

 

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

アイデンティティとは他者との関係性のなかで立ち現れる。

 

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される

 

千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269

 

 

 

 

自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

 

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しかし、この自己アイデンティティというものを示していく作業はしんどいものだ。

 

自己が何者であるかを表現するのは難しい。自己の内面を表現する言語能力やアートの能力が必要とされるからである。

 

ゆえに、表現能力にハンディをもつ人にとって自己表現は難しく、他者からもその人がどんな人なのかうまく認知されず承認を得ることも難しくなる。このようなコミュニケーション弱者(コミュ障などと呼ばれる)は自己表現がうまくできず、他者との関係の中で自分が何者であり、何を考えているのかを示すことができず、結果、他者から受け入れらない、あるいは、自分が示したい自己とは違うイメージが他者から認知され、居心地の悪さや生きづらさを感じるのである。

 

 

他者から自分を認知してもらうには、絶えず自己アイデンティティ(自分は何者なのか)を示していかなければいけない。自己アイデンティティとは他者との差異=記号である。

 

現代消費社会においては自己アイデンティティも記号として他者から消費されるのである。

私たちは、社会のなかで誰かから反応され受容されるためにも、自己アイデンティティ(=個性=自分らしさ)という記号を他者に示していかなければならない

 

そして、自分は何者であるか自己のオリジナリティが示せないと不全感に陥ることになる。

 

 

現代消費社会においては、絶えず新しい何かを生み出さないといけないと駆られ、私たちは常に他者との差異を示し自己のアイデンティティを際立たせることを迫られているからだ。

 

現代消費社会においては、モノにまとわりつく記号や観念が消費されるというのは社会学ボードリヤールが示している。

 

 

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差異の提示、これは、競争(他者と比べて自分はどのように違うか、どのように優位なのか?)、あるいは、成長・改革(過去の自分と比べて今の自分の違いを示す、あるいは、「今の自分のままではダメだ」と思ってしまうこと)といった言葉で語られるのである。

 

 

この社会では他者から承認されるには、金を稼げるか、人の役に立つか、面白いことができるか、など生産性や有用性といった条件を求められる。 ゆえに、それらの魅力資源がない弱者は他者に示せる自己アイデンティティすら持つことができず存在そのものがまなざされることもなく、承認もされない。 それによって、疎外感を覚えしんどさを感じるのである。

 

 

ブログを読んでもらえればわかる通り、私は自己表現が極めて下手くそである。そして、表現能力が乏しいゆえに、何か新しいことを示したり、他者との違いを示すような言語能力をもてない状況にいる(能力をつけるにはトレーニングしかないが、それもキツい人はどうするのか→私は本を読んだり文章を書くのがしんどくなってきている)。

 

絶えずオリジナリティ(=他者との違い)を提示することを迫られるのがしんどいのである。

 

だいたい、自分のオリジナリティを他者との違いによって示せる人がどれだけいるのか。みんな、「普通」や「大きな物語」に合わせて自分を語っているだけで、自分はオリジナルだと錯覚しているのではないか。

 

この記事では、個性(=他者との差異に基づき自己アイデンティティを示すこと)を求める社会は息苦しさを生むという問題を提示した。

 

「自分らしさ(=個性)を示すなんて、こりごりだ」と開き直ってしまうのがよいのかもしれない。

 

有用なことを示さずとも、キャスなどもだらだら気の向くまま適当に語るのがいいのかもしれない。

 

うまい打開策が見つからない。コミュ障の当事者研究などやるのがよいのかも。テキトーになれれば楽になれそうなのだがねー。