生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

路上で物乞いしたら元気になった話

 

【目次】

 

1.路上で投げ銭をもらうと元気になった

 

 題名の通りだ。30代の半引きこもりのおっさんが女装して「引きこもりアイドル」を名乗って路上で投げ銭をもらうようになった。はっきり言うと「物乞い」である。自分でもケシカランことだと思う。でも、普通に考えて欲しいのだけど、仕事もできないし、社会保障もない、家族にお金をせびるのも気が引けるとなったら、お金の供給源がなくなるわけだ。じゃあ、路上で物乞いするしかなくなるのではないか。何をやっても上手くいかないのだから、これはもう、ヤケッパチになってしまえと思った。

 

 と書いたものの、路上で投げ銭をもらうのは意外に楽しい。物乞いまがいのことは惨めに思われるけど、実際やってみると人の好意を受けてエンパワーされるのだ。

 

 でも、路上で投げ銭もらう活動は体力使うし、あんまりヤヤコシイことは起こしたくないから、ほどほどにはしときます。

 

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 引きこもりが路上で通行人にお金をせびっている姿を見たら、95%の人はケシカランと思うだろう。それは、まあ常識だ。でも、心の中でケシカランと思っている人は話かけてくることもなく素通りする。心の中で何を思っているかは見えないので、アンチの声は聞こえないわけである。声をかけてくれる人は、路上で何かやっている人に興味をもったり、引きこもりに理解がある人、派手な女装姿を楽しんでくれる人などだ。つまり、褒めてくれる人や自分のことで楽しんでくれる人が話しかけてくるので、プラスのバイアスがかかり、テンションや気分のよさが爆上がりになる!笑

 

 「アイドルです」と言ってる訳のわからないキャラだから、頭のネジをゆるめて羽目を外すができる。通行人に話しかけてもらえるし、好意の言葉をもらえるし、お金がもらえるし、ご飯がもらえるし、話し相手ができる。正直、物乞いしたらいい事だらけなんだけど・・笑。

 

 

 衆目の前に自分の姿をさらすこともまたエンパワーになりうると思う。自分の生きざまを緊張の中で開示することの効果というものもあると考える。安全でない自助グループのようなもの。Twitterでわたしがアイドルを名乗って路上で投げ銭もらっていることをつぶやいても、反応はほとんどない。しかし、路上では話しかけてくれたり、投げ銭してくれる人がちょいちょい現れる。わたしのような人を目の前にしたら、ウズウズして何か話しかけたくなるのかもしれない。ネットでは感じられないリアルな現前の熱量の作用じゃないだろうか。

 

 

2.路上でもらったもの

 

 投げ銭なのか物乞いなのかよくわからない事をしてると、いろんな人からお金をモノをもらえる。でも、集まるお金は大したことがない。お金が目的なら最低賃金のバイトをした方がマシだ。でも、人から直接もらったものは好意の塊である。金額そのものではない生温かさに価値を感じるのだ。労働を介さない金の授受には、人との関係がキモになる。この感覚は値段にしがたいプライスレスなものだ。

 

① 留学生の話し相手として

 

 ロリータ・ファッションに興味があり、わたしの格好にも何となく興味をもってくれた留学生の女性がいる。路上の居場所として日本語の練習の場として、わたしを見かけたら遊びに来てくれる。わたしを見かけたら、「はるちゃん、今日も仕事してるね〜」と声をかけてくれる。差し入れでドリンクをもらったりする。

 

② ギャルにウケた

 

 「引きこもりアイドル」を名乗って女装姿をさらしていたら、通りがかりのギャルの女の子に、「なにこれ、おもしろ〜」と言われてウケた。「めっちゃ、かわいいし〜」と言われ、写真を撮られまくってインスタに投稿された。ついでに、投げ銭をもらった。ワイワイするのが好きなようだ。

 

③ 夕食のおにぎりをいただく

 

 「引きこもり」というワードが気になり話しかけてくれた女性がいた。中高年に引きこもりや精神障害を抱えた人が多いねという話になった。こうやって路上でワイワイやって人と話すキッカケがつくれると元気になるんじゃないかと語った。生きづらさを感じる人は、「ケアされるよりもケアする側に回るのがいい」というわたしの話にも納得してもらえたようだ。夕食にと、デパートのおにぎりをもらった。

 

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④ お姉さんに手を振ったらジュースをもらった

 

 天王寺の駅前で投げ銭活動してて、通りがかった仕事帰りのお姉さんに「ばいばーい」と言って、手を振ったらジュースをもらった。お姉さんも微笑んでくれた。心温まる思い出だ。

 

 

⑤ たまに女装をしてる方から投げ銭もらう

 

 自分もたまに女装をして街を歩いているという方から投げ銭をもらい、お話もした。女装など変身をすると違う自分になれて心地いいという話を聞いた。わたしが、「街で写真撮られたりしませんか?」と尋ねたら、そういう経験はないそうだ。わたしはよく写真を撮られるので、わたしの女装姿はなかなかイケてるということじゃないのかな?笑

 

 

3.路上で暮らす人達との交流

 

 7月のはじめに、大阪の道頓堀で「引きこもりアイドル」の看板を置いて投げ銭をもらった。道頓堀には、物乞いで暮らす人達がいる。その中の80代のおばあちゃんとお話をした。おばあちゃんの方から話しかけてくれた。雨で人出が少ないから今日はお金があまりもらえないと話した。お金をくれる優しい人もいれば、タバコの吸殻を投げてくるひどい人もいるそうだ。おばあちゃんは物乞いや路上生活で何かトラブルがあると警察に連絡して助けてもらうこともあるという。「警察と消防にはすでに届け出を出しとる」と言っていた。ええっ,警察公認の物乞いって、すごい・・。物乞いの人も警察と共存関係にあるようだ。おばあちゃんは戦中生まれで、焼夷弾が降ってきて鼓膜が破れた話などをしてくれた。「B29にやられた〜」と言っていた。おばあちゃんの肩もみをして500円のお小遣いをもらった!

 

 わたしのように訳のわからない人が突然やってきて物乞いを始めても、もともとその地域で物乞いをやっていた人たちの反応はみんな好意的だった。親身になって話をしてくれたり、物乞いの事情を教えてもらえる。自分たちと同じようなことをしている人に親近感を覚え、話が通じると思うからいろいろ話しかけてくれたのだと思う。一時的ではあるけど、仲間として迎えてもらえた。あるおっちゃんは、「物乞いは運や」と言っていた。普通はまったくお金は入ってこないが、たびたび1万円札をもらってバズることもあるという。わたしが次の日仕事があるからと帰りの挨拶をすると、「あんた、仕事なんてやめて、路上で飯食ったったらええやんか。わしなんてもう仕事やめて数年たつわ」と言われた。わたしが物乞いのような事をすることで、地域の路上生活者の人と共通の話題ができて交流ができた。つまり、相手と同じ地平に立つことで連帯意識が生まれたのだと思う。これは、一般社会のレイヤーから路上のレイヤーに入るということだ。ウラの領域に飛んでしまった感があった。

 

 その日のエビス橋の夜は、アイドル活動で投げ銭をもらうわたしと、ナンパ師、ぼったくりバーの客引きがひしめきあう空間になった。

 

 

 4.「労働」って何だろう?

 

 「物乞い」は軽犯罪とされている。見せしめ的に捕まるケースもあるようだ。でも、わたしはアイドル活動の投げ銭を名目にしているので、このへんは他の路上パフォーマーと変わらない(多分ね・・笑)。「物乞い」はなぜケシカランと思われるのか?労働主義に反するからだろう。働きもせずに他人にお金をせびるのはケシカランという勤労道徳があるためだ。でも、労働って何だろう。何らかの利益を生み出した対価としてお金をもらう行為が一般的には労働だと思われる。しかし、物乞いの人は、その姿を路上で見せて人に憐れみの情を抱かせたり、その場での話相手になるなど、相手の心を突き動かしてお金をもらっている。そう考えると、物乞いの人はお金をもらってはいるが、それと引き換えに目に見えない何かを対価として与えているのだ。いかなる時でも、他人からお金をもらうことは何らかの対価が発生している。通行人の人が道頓堀の物乞いのおっちゃんを見て、「あんなの、みっともないわ」と言ったが、「いや、僕は立派な金稼ぎだと思います」と言い返したんだけどね。汗水たらして苦労して金を稼げというが、物乞いの人も一日中外に立ってそれこそ汗水たらしている。物理的な体力消耗としてはかなりものじゃないのか。それなら、どうでもいい仕事で大金稼げるブルシットジョブなんかは何なんだろう。コロナがひどくてもオリンピックを強行して、そのおこぼれに預かる利権企業などは「物乞い」と呼ばれないのはなぜか。富裕層や利権集団は株や税金の配当など不労所得をたくさん得られるが、下々の人たちは安い給料で労働していろと暗に言われている。結局、お金の配分を正当化する根拠が支配者側に有利に設定されている構造が分かってくる。

 

 物乞いをする人は、通行人を脅してお金を巻き上げるわけでもないし、お金を渡すかどうかは通行人の完全な任意である。ただ、路上に座っているだけなのに、不当に貶められているなと思う。それを考えると、貧しい人からも税金を強制的に巻き上げて、あまつさえ税金を利権集団で独り占めできるようなシステムの方が悪質だと言える。

 

 

 5.投げ銭活動すると居場所がつくれる

 

 女装をしたりアイドルの看板を掲げたり、投げ銭を求めているいろんな情報を路上でちらつかせて、自分の存在そのものが他人を引き寄せている。自分が他人の意思や行為に働きかけている点で、わたしは路上で権力を行使していることになる。物乞いは衆目に自分を晒したりお金をもらうが、これにより他者に従属するだけではない。自らの存在感を路上で示し他者を動かしているので、むしろ場を支配しているとも言える。わずかなお金でも、自分の生きざまや自由にふるまう姿を晒して、自分の身一つでお金を得ているという自負も感じられる。自分が路上の人からいろんな好意を受けて、関係の中で生きているんだという実感を得られる。自分の自信にもなると思う。このように、自分を主体とした場がつくれるという点で、一時的な居場所にもなるのだ。

 

「利他」の原理(2)

 

【目次】

 

 

1.路上で投げ銭をもらって思ったこと

 

 女装して、路上で「ひきこもりアイドル」を名乗り通行人から投げ銭をもらうことをやっている。この前は西成で路上一揆をやったが、ビックリしたことに、お金を気前よく投げてくれるおっちゃんが多かった(それを見て、俺も俺もと立て続けに投げてくれる人たち)。でも、京都ではみんなあまりお金をくれません(前から薄々思ってたけど、金持ちほど財布のヒモが固いな〜という印象がある)。

 

 西成ではお金やお酒をねだられる事もあるけど、今度は別の誰かからモノをもらったりして、結局はトントンになる。これは、シェアの原理が根底にあるのではないか。自分が与えても、損にならないという感覚があれば、気前よくお酒をおごったりモノをあげたりするのではないか。逆に、ケチな金持ちは一方的に収奪をしていることになる。お金をため込むだけの金持ちこそ真のドロボーだと言えるのかもしれない。

 

 

2.みんな気前のいい人になると、利他的な振る舞いをしやすくなる

 

 気前のいい人には、自分が与えても損をしないだろうという期待があるのではないか。気前のいい人が多いとみんな寛大になる。逆に、気前のいい人が少なくなると、自分だけが与え損する感覚になる。気前のいい人が少なくなると、「気前のよさ」は美徳だが損をするから誰も率先してなりたがらない。

 

 主流の感覚ではないため生きづらさを感じる人には、めちゃめちゃ人に与えたいが、与えすぎて疎んじられたり損になる人がいるように見える。いろんな人に与えられればよいのだが、他人から疎んじられやすいため、与えられる相手が少なく、少ない人に与えすぎて困らせてしまう。このような特性は、交換原理や利得で動く社会では「狂気」となってしまう。でも、そういう与えたがるポトラッチ人間ばかりになると、市場経済もお金もなくても社会はそれなりに回るんじゃないだろうか。つまり、一方的な利他や贈与を「特殊」として脇に追いやることで、市場経済は主流たりえていると言える。利他人間が増えると資本主義も成り立たなくなってしまう。

 

 この社会は交換原理でできているから、見返りを条件に人は与えることが多い。自分が一方的に与えても見返りが十分に期待できないと損をすると思うためだ。与えても損をすると分かっていると、「利他」は生まれにくい。「利他」は、相手や社会も「利他」で動くという期待がもてないとなかなか発動しにくいと言える。

 

 

3.なぜ「利他」は実現しにくい?:ゲーム理論的な視点

 

 「利他」が働きにくい社会での人の行動について、ゲーム理論的な説明を加えてみたい。下の図を見ながら読んで下さい。AさんとBさんの二人がいるとする。相互に与え合う利他社会④の実現には、まず、どちらかが与えなければいけない。ここで、まずAさんがBさんに与えたとしよう。図では②の状態だ。でも、Aさんが与えてもBさんが与えない②の状態が続けば(Aさんだけ「利他」)、Aさんは与え損になる。Bさんがそれで出しぬくかもしれない。結果、Aさんは与えるのをやめてしまい①の状態に戻ってしまう。同様に、Bさんが与え、Aさんが与えない③の状態でも同じようなことがおこる。自分が与えても返されることが期待できず、与え損になると強く思われる社会では、自分が与える側に率先してなろうとは思いにくい。利他が働きにくい社会からは、お互いが与え合う④のユートピア状態になりにくい。①から、④に移動するには中々難しいわけである。

 

 

       B

与えない

与える

  A

与えない

①(0、0)

③(、0)

与える

②(0、

④(

 

 

4.みんな人から頼られたい

 

 生きづらさを感じる人は、誰かから気にかけてもらうだけではなく、実は誰かから頼りにされたいのではないだろうか。でも、社会から爪弾きにされやすい人ほど、誰からも顧みられなることが多い。ケアが必要な人というのは、実は自分がケアを与える側になることでケアされるのだと思う。おっちゃんたちが若い人の前で、親身にしてくれたり、人生訓を語りたがったり、時に強気になるのも、みんなから頼りにされたいという思いがあるからじゃないのか。

 

 みんな実は自分のもってるモノや考えや、いろんなものを与えたくてウズウズしてる。受け取ってもらえると、そこから会話や交流も生まれる。でも、中々それをこころよく受け取ってくれる人がいない。そうなると寂しい。これが、生きづらさの核だと思う。与えてるのに受け取ってもらず、つらい思いをするのがツイッターですよね〜。

 

 自分が他者に対してどのように貢献したり、よい影響を与えているのかは分かりにくい。でも、分かりやすく見える化したいから、売り上げとか、「いいね」の数といった数値化で測ろうとする。しかし、そうすると、今度は数値を目的としてしまい、「利他」で動かなくなる弊害も出てきたりする。ネットは相手の表情が見えない分、数値化に支配されやすい。それで、空回りして一人で疲弊することもある。だから、外に出て直接人と接する方が相手からの手応えを実感しやすい。自分が自由を感じられるのは、自分が得意なことや心地よくなる話を十分にできる空間や関係の中にいることだろう。そこにおいて、自分は能動的な与え手になることができる。それが、居場所になると思う。自分に関心がもたれ、楽しんでもらったり話ができる場や仕組みをなんとかつくるのも手だ。わたしは、これを「しょぼい権力」と呼んでいる(下の関連記事を参照)。わたしは路上活動でそれをしているのか、少しずつエンパワーされているようにも思える。逆に、路上を離れると寂しくなる。

 

 

5.「利他」が希少だからこそ、「利他」が輝く

 

 完全に「利他」で動く社会はユートピアである。でも、完全なユートピアでは幸せや快という感覚はあるのだろうか。わたしは、利他が社会の隅に追いやられがちな不完全な社会でこそ、ひょっこり現れる「利他」の輝きが増すのだと思う。奇跡を感じたい。「利他」が現れる場や仕組みをつくるのが楽しいのだと思う。社会は「利他」では動きにくいが、それでもなお、自分は与えるのだという姿勢をもち意識的な振る舞いをしていくことが大切なのだと思う。

 

 

❖❖ 関連記事 ❖❖

 

◉ 合理性を求められている状況が、「利他」を摘んでいること

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 「しょぼい権力」について

 

nagne929.hatenablog.com

 

「財源がない」論をひっくり返せ!:《税収=財源》説の脱構築

 

 一律給付金という個人単位の現金給付が社会にどのような意味があるのかを、ベーシック・インカムの専門家の知見や、現代貨幣理論をもとに書いてみた。一番の問題は、現代社会の貧困は「銀行中心の貨幣制度」が生み出していることだ。これにより、個人単位の給付(ヘリコプター・マネー)がされにくく、生存権の保障もされない。なので、貨幣制度を個人の生活保障を軸にしたものに抜本的に変えるべきだと言える。

 

【目次】

 

 

1. お金は財源からではなく政府の一存でつくり出せる

 

 まず、反緊縮の基本的な考えから。お金はもともと決まった量があるわけではなく、それを得るために競争する必要はない。お金は、政府(日銀)がつくり出すものであり、庶民に直接配ることができる。なので、一律給付金などの財政出動に必要なお金は税金でまかなう必要がないと言われる。2020年の10万円給付金も国債の発行により資金が捻出された。金本位制の下では、通貨発行額は金の量に紐付けられていた。しかし、管理通貨制へ移行したことで、お金が金銀など限りある希少資源ではなく、勝手に作り出せるものだということが示されてしまった。たいていの先進国は自国で通貨を発行しているので、自由にバラまくことも可能である。

 

 政府がお金を供給する場合は、日本銀行に指示して民間銀行の預金準備を増やす。ただ、数字を入力すればいい。PCのキーボードを叩いてお金を創出するので、「キーストロークマネー」とも呼ばれる。つまり、財源を必要とせず、勝手に口座に数字だけ入力すればいい。それにより、私たちの通帳には「10万円の現金を引き出すことができる権利」が新たに数字として記載される(高橋真矢、2021、p.70)。政府は国債との交換で日銀からお金を調達するのではなく、政府が直接お金を発行できて個人に配れるようにするのが手っ取り早いと言われる。有利子の国債が資産家を優遇している問題も指摘されている。しかし、国債には、政府が無尽蔵にお金を発行して悪性のインフレを引き起こさないブレーキとしての役目や(注:*1)、金利調整などで経済をコントロールする役目もあるという。

 

 

2. お金はどうやってつくられるのか

 

 お金が存在していることと、お金が流通していることは違う。金融緩和などで日銀から民間銀行にお金が流れても、お金が企業や家計に流れないと、世の中のお金の量(マネーストック)は増えない。家計や経済にとって重要なのは、実際に世の中に回っているお金(マネーストック)である。

 

 お金の流通のスタートは、民間銀行の貸し出しである。お金は借金により生み出されている。民間銀行が企業に貸したお金が他の企業や労働者に回る。利益を得た企業は銀行に借りた金を利子付きで返す。銀行が発行したお金のデータは消える(井上智洋、2021、文献B、p.100)。

 

 民間銀行は人々の預けた預金を貸し付けに回しているという主流派の「又貸し説」は誤りだと言われる。預金とは関係なく民間銀行が自分でお金をつくり、それを貸し付けして、世の中のお金を増やしているという信用創造説」がホントでないかと言われる(井上、2021、文献Bを参考)。

 

 お金の一連の流れは、まず民間銀行の貸し出しから始まる。企業が銀行からお金を借りれば、世の中に新しいお金(預金通貨)が発生し、そのお金で投資がなされ、商品開発や雇用創出がおこなわれる。お金は賃金などを通して労働者、つまり消費者にも渡る。銀行で誰かがお金を借りることではじめてお金が生まれ、そのお金が社会の中を回り個人の生活費にもなる。これが、信用創造の一連のサイクルだと言える。景気がよいというのは、民間銀行から企業への貸し出しが積極的になされ、企業から労働者への分配も大きくなり、消費が活性化することである。

 

 しかし、ある程度経済が成熟すると、企業の新規投資も少なくなり、銀行の貸し出しが振るわずマネーストック増大も難しくなる。消費社会として経済が成熟しても、個人にお金が十分配分されるわけではない。社会全体の豊かさが貧困の解消には至らない。トリクルダウンが起きないということだ。ここから分かるのは、成熟社会の貧困は「銀行中心の貨幣制度」が生み出しているとうことだ。なので、成熟社会においてこそ個人への直接給付が必要であるという。銀行の貸し出しという借金が増えないのなら、政府が代わりに借金して個人の生活保障をしていくべきだという松尾匡、2021、文献B、pp.82-83を参考)。

 

 

3. 政府が自分のお金を自分でつくる仕組み

 

 井上智洋さんの最新の著書(『「現金給付」の経済学』、2021、NHK出版)では、政府が自前でお金をつくれる仕組みが説明されている。

 

 ズバリ、政府のお金の供給源は中央銀行である。多くの場合、国債を買うのは民間銀行であり、政府から国債を買うことで政府にお金が渡る。しかし、その民間銀行が日銀から国債を買っている。中央銀行が古い国債(既発債)を民間銀行から買い上げて、民間銀行にお金が供給され(買いオペ)、民間銀行は政府から新しい国債(新発債)を買って、政府にお金を供給する。国債の置き換えを通して、中央銀行から政府にお金が供給されている。政府と日銀は統合政府と見るので、政府の使うお金は政府自体が作り出していると言える。

 

 このように、政府は自前でお金を発行できるので、お金が欲しいために税金を集めているわけではない。しかし、人びとに「納税の義務」を課すと、納税のために人はお金を集めざるをえず、生産活動をしなければいけない。ならば、税金というのは、人びとを経済活動に追い立てる意味しかないのではないか。

 

世の中に出回るお金は、政府支出によって生まれ、租税によって消滅する。これが事実だとすると、そもそも政府支出を行うために税金をとって財源を確保する必要はないという考えに至る。

井上智洋、『「現金給付」の経済学』、pp.150-151)。

 

 

4.《税収=財源》説が貧困層を追い込む手段とされている

 

 税金というのは、払っているのではなく、勝手に口座から「お金を引き出す権利」を消去される(高橋、p.70)。わたしたちは、自分の税金がどのような経路をたどり、それが本当に財源に使われているのか実際にこの目で確認できるのだろうか。その税金はちゃんと良いことに使われているのか。税金って虚構なのではないか(そもそも、お金が虚構であるのだが)。多くの人が思っている税金の捉え方は、「税収により財源がまかなわれる」という主流派経済学の見方だが、それすら根拠が怪しいと言われている。

 

 例えば、一律給付金を求める声に対して、「財源がない」とか、「貧困で税金をロクに払ってないのに、金をもらう事ばかり要求するな」と言う財源マンがたくさんいる。しかし、「困窮者に使う税金はない」と言うのに、オリンピックとかで税金がどんな使われ方をしてるかを彼らは問題としない。さらに、勝手に納税額を国への貢献度や忠誠度の基準として、生活保障を求める人へのバッシングや困窮者への「こらしめ」を正当化している。誰にも言われてないのに進んで政府や財界の用心棒になっていると言える。

 

 「給付金の財源はどうするの?」という質問がいつも出るが、人々の生活よりも政府の財源を忖度するのはなぜだろう。「税金が財源となる」という思い込みは社会により刷り込まれたものではないか。多くの人が労働の苦役にいる中で、自分だけ生活費を求めるのはワガママに見えて、面白くないのかもしれない。みんなが、奴隷的な生を強いられる中、自由を主張する人がイチ抜けた感じに見えて、ズルしてると思ったり嫉妬感情が生じる心理もわかる。そういう権利を求める人を牽制するために、《税金=財源》説が都合よく振りかざされることが多い。

 

 財政均衡論を盾に「無駄を削減」と言う人も、生活に大事な公共が多く削られて、どうでもいい利権に富が投げられていることには無頓着だ。わたしには、財源マンは、「財源」や「納税の義務」という言葉を都合よく持ち出して、権利の主張者や困窮者を押さえつける手段にしているとしか見えないのだ。

 

 

5.税金は何のためにある?

 

 貨幣は政府が発行する「債務証書」だと言われる。つまり、政府が発行したお金を使って、政府に借金を返さなければいけない。納税とは借金の返済行為なのである。でも、なぜわたしたちは勝手に借金を背負わされているのか。

 

 これは、MMT(現代貨幣理論:Modern Monetary Theory)の考えのベースとなる、租税貨幣論により説明される(注:*2)。

 

 租税貨幣論は、ただの金属の塊である貨幣が実質的な価値をもつのは、それを使って税が納められるからだという。では、わたしたちが納税すべきお金はどこから来るのか。まず、政府が最初にお金を支出していて、そのお金を使ってわたしたちは納税をしているという。この説によると、納税の目的は財源を得るためではなく、貨幣を社会に流通させ、貨幣に価値にもたせることにある。

 

 政府は、お金が欲しいわけではない。なぜなら、政府自身がキーストロークによりお金を生み出せるからである。政府が納税の義務を人々に課すことで、人々は貨幣獲得のために生産活動をおこなう。税金は人々を貨幣経済の中に閉じ込め、資本主義を維持するための道具だと言える。だから、税金そのものは市中から回収したら用済みなのだ。ただ、人々を働かせ経済を回すための手段として貨幣や税金は存在する。何度も言うが、財源のために税金があるわけではない。

 

 このことから、納税というのは資本主義体制を形だけ維持するための儀式だと言える。政府が新しくお金を発行すれば財源は生まれるにも関わらず、財源には税金が必要だとかたくなに思われている。貧困層に冷たい人は、主流派の《税収=財源》説を盾に、納税によるマウンティングをおこなったり、社会保障の利用者に恩着せがましく振る舞えるようになる。

 

 労働は有用性や何らかの価値(よいわるい含め)を生み出す。でも、貨幣そのものを生み出す営為ではない。貨幣は政府が生み出すもので、ルールに従って配分される。労働を通してでしか貨幣が配分されず、労働を介さない貨幣の配分が著しく制限されるルールは、貨幣を用いる納税が労働の権威付けのために機能していると言える。労働があたかも貨幣を生み出してるかのような錯誤が、労働主義を強固にして本質化していると言える。

 

 

6.財源有限論により限られたパイを奪い合うような見方を植え付けられる

 

 お金は政府が新規に発行すれば出てくるとされるが、財政均衡論によって増えないパイを奪い合う構図が多くの人に刷り込まれてるのも問題だと思う。「パイは増えない」という言説により、財政出動や個人への給付金が将来のツケになるかもしれないという不安を与えてるように思える。パイの奪い合いが正当化され、競争や出し抜きがはびこってしまう。これにより、生産性に基づく人のランク付けや命の価値の序列付けが正当化され差別をもたらす。

 

  今ある富の多くを利権が独占して庶民の取り分が少ないという「配分の不均衡」に加え、財政均衡論を盾にして、追加的な財政支出で庶民に直接金を渡すことを「パイは限られてる」論が遮っている。世の中は、庶民にお金を直接渡さないための仕組みや言説だらけだなと思う。これは、庶民にひもじい思いをさせ、「こらしめ」を正当化するためにあるのではないか。このような抑圧の言説を脱構築して、庶民生活が主体となる経済観の再構築が求められる。

 

 

7.個人の生活保障のためにお金の流れ方を変える

 

 現行の、「銀行中心の貨幣制度」では庶民にうまくお金が行き渡らない。個人への現金給付はバラマキだと批判されるが、アベノミクスによる金融緩和でお金がばら撒かれてるのに、銀行や企業にばかりお金がたまり、庶民にちゃんと届いてない事がまず問題である。政府のお金が銀行や企業ばかりに独占されてしまう今の貨幣制度が問題であると言える。

 

 井上智洋さんの著書にある図を参考に、わたしなりにお金の流れをしょぼい図にしてみた(自分で図を書いたほうが理解しやすい)。

 

(1)間接的財政ファイナンス(現行制度)

 

❖政府から個人への直接給付はされにくい

 まず、日銀から政府へのお金の流れである(3.ですでに取り上げた)。政府が国債を発行し、民間銀行が買い取る。それを、中央銀行が民間銀行から国債を買い入れる(買いオペ)。【図1】で、①②のピンク色の→線で示すように、日銀が間接的に政府にお金を渡していることになる。お金が中央銀行から民間銀行へ、さらに政府に渡る。そこから、③のように政府から家計・個人に直接給付できるが、実際はそうなっていないという。

 

❖日銀による金融緩和のお金も、ゼロ金利下では、民間銀行から貸し出しがなされにくく(Ⅰ)、企業が内部留保などにお金を回し(Ⅱ)、お金の流れが遮られ、家計・個人に届いていない。つまり、トリクルダウンが起こらなかった。

 

 

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【図1】《間接的財政ファイナンス》によるお金の流れ(井上智洋、文献A、p.146を参考)。現行の「銀行中心の貨幣制度」では個人にお金が行き渡りにくい。

 

 このように、今の「銀行中心の貨幣制度」では、日銀が民間にお金を投げても、そのお金が民間銀行と企業で滞留してしまい個人に届きにくい。この構造が貧困を生んでいる。すなわち、貧困を根本から是正し、デフレの脱却と経済の回復をなしとげるためには個人への直接給付をおこなわなければならない。

 

 

(2)直接的財政ファイナンス(直接給付=ヘリコプター・マネー)

 

 政府が直接お金を生み出し、個人へダイレクトにお金を配る(【図2】)。井上さんは、これをヘリコプター・マネーと呼ぶ。つくったお金でインフラなどをつくるケインズ型の間接的な貧困対策ではなく、あくまで個人にお金を渡す。これは、銀行や企業のためにお金をつくるのではなく、個人の生活のためにお金をつくるという発想にたつ。

 

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【図2】《直接的財政ファイナンス》による政府から個人への直接給付(井上、文献A、p.143)。通称「ヘリコプター・マネー」。

 

 

8.国債は流通しない貨幣

 

 貨幣と国債は親類で、いずれも統合政府(政府+中央銀行)の「債務証書」である。貨幣は「決済と納税が可能な無利子永久債」であり、国債は「決済と納税には使えない有利子貨幣」だという(井上智洋、『MMT 現代貨幣理論とは何か』、pp.56-58)。国債が流通しているのは貨幣が流通していることと同じ。なので、国債を増やすことは借金を増やすことであるが、お金を増やすことでもある(借金は政府がお金の発行で返せるので、結局はチャラである)。例えば、イタリアが決済と納税の可能な無利子国債である「ミニBOT」を導入しようとした際、これは事実上の通貨だとしてユーロから反発を受けたエピソードがある。国債をちょっと変形すると貨幣になるということだ。

 

 国債はお金として流通しないが、お金が国債に化けることで、市中にあるお金の流通量を調整する機能があると言える。政府に貨幣発行権を無条件に与えないのは、政府が勝手にお金を刷り過度なインフレを招くおそれがあるためだ。そのため、中央銀行がお金を発行をして、政府の国債との交換で政府にお金を渡す方式がよいとされている(先の直接的財政ファイナンス【図2】)。

 

 国債は貨幣の代替物だから、それ自体が問題なのではなく、金利が高くなることで問題が生じる(井上、文献A、p.134)。 金利が高くなり、金利返済額が膨大になると、それだけ税金などの負担が増える。これでは、国債保有する銀行や資産家が金利で得る不労所得を、税金で支えることになってしまう(p.135)。なので、国債廃止論を主張する人もいる。国債金利が正当化できるとしてら、売りオペや買いオペを通して、金利の調整機能を果たすことにある。

 

 井上智洋さんは最終的には、世の中に出回っている国債を日銀が買い入れて通貨に変えてしまうのがよいという(=貨幣化:マネタイゼーション)。これにより、借金を無害化(無利子化)でき、堂々と借金がきるようになるという(井上智洋、『「現金給付」の経済学』、pp.158-159)。

 

9.「貨幣の民主化」としての個人単位の現金給付

 

 今の貨幣制度では、民間銀行が儲けのために勝手にお金を発行している状態となっている。お金の発行権が民間銀行に独占されていることが、個人にお金が行き渡らない原因である。お金はみんなのものであるのに、なぜ個人のために発行されず、銀行や企業の都合が優先され勝手に作り出されるか。この信用創造により、政府や企業は銀行からいくらでもお金が借りられる。景気がよくなると銀行が次々にお金を貸し出してバブルを加速させる。「銀行中心の貨幣制度」は、銀行が貸し出しを通して勝手にお金をつくれることができるため、お金のコントロールができない状況になる。お金のコントロールを可能にするには、民間銀行が勝手にお金をつくり出せる権限をなくし中央銀行に100%お金をつくり出す権限が移されることが必要だという。これにより、銀行や企業の都合でお金をつくり出すのではなく、みんなの生活のために直接お金をつくり出すことになる。お金をみんなの手に取り戻すことを意味する。信用創造論廃止は「貨幣の民主化」と呼べるだろう。ベーシック・インカム(BI)などは、単純に個人の生活補助という意味を超え、資本の支配からお金を解放するというラディカルな意味もある(注:*3)

 

 

 

10.貧困問題はお金の配分方式の問題である

 

 政府がお金を新規に発行し、それを庶民に直接配るヘリコプター・マネー方式により貧困は解消できる。しかし、その方式をとらないのは、庶民に直接お金を渡すことをよしとしないからだ。労働を通してお金は得るものだという労働主義が、直接給付の妨害となっている。《税収=財源》説は、庶民への直接給付を否定し、労働や困窮による苦役に甘んじさせることで、「権利を行使する主体」として市民がエンパワーされないように作用している。

 

 税金は、貨幣そのものに価値をもたせるためにあるが、それでも、税金が正当なものとなるには、景気調整や再分配の機能を果たすことにある。しかし、新自由主義における税制(均衡財政)は、金持ちをさらに豊かにして、庶民や貧困層をこらしめるように機能している。

 

 緊縮財政下では財政赤字を理由にして社会保障などが削減されていく一方で、資本収益への課税率や富裕層への累進課税率、大企業などへの法人課税率はどんどん引き下げられていく傾向にある(松尾、2019、p.34)。さらに、消費税は19パーセントにされようとしている。これでは、貧困はますます深刻化し、デフレから脱却もできない。消費税を財源とするのは間違っている。税金は、インフレ抑制のために市中からお金を回収し消滅させるためにある。増税によって購買力を奪い、国の供給量の範囲に総需要を収める役割がある(松尾、2020)。デフレにおける消費増税は、経済をますます萎縮させ、庶民をこらしめる結果にしかならない。

 

 「納税の義務」を課すことで、人々は納税のためにお金を稼ぎ生産活動が促される。これは、社会が貧しくインフラやモノが不足していて、経済の立て直しを進める状況では意味があるかもしれない。しかし、成熟社会ではインフラやモノがあふれ、新規投資をしても利益になりにくい。民間銀行による信用創造も機能しにくい。食料や衣服は廃棄されるほど生産され、空き家はたくさんある。豊かな国における貧困は、お金やモノの分配方式の問題だと結論できる。現代社会における貧困対策は、社会のお金の流通方式を資本主体でなく、個人主体に組み替えることで可能で、それは制度による公正の具現化だと言える。個人への現金給付は、不公正をなくす個人単位の社会の実現のためのあしがかりとなる。

 

 

【注】

(*1)

 政府に通貨発行権を無条件に認めると、歯止め役がおらず悪性のインフレになりやすい。その歯止め役を日銀として、インフレ率2パーセントまでは政府にお金を渡すという取り決めをするのがよいと言われる。戦前の世界恐慌における1930年代に、当時の大蔵大臣の高橋是清は反緊縮路線で積極的な財政出動をおこなった。しかし、財政出動によるお金が民生に回らず軍事支出に回り、困窮者が増えた。高橋は軍事支出増大に反対したが、軍部に目をつけられ2.26事件で暗殺されてしまう。高橋の死後、軍部にブレーキをかけられる人がおらず、膨大な軍事支出を招く。

 

(*2)

 MMT(現代貨幣理論:Modern Monetary Theory)とは、政府による現金直接給付が財政的に問題ないとする非主流派の経済理論である。日本やアメリカなど自国で通貨を発行できる国は財政破綻することはないという。過度なインフレにならない限り、財政支出はいくら増やしても問題ないとする。国がお金を刷って借金の返済や利払いに充てればよいそうだ(井上智洋、『MMT 現代貨幣理論とは何か?』、pp.18-19)。

 

(*3)

 BIが資本主義へのアンチになることは指摘されている。井上智洋さんも「資本主義からの脱出」を図るには「銀行中心の貨幣制度からの脱却」こそが必要であると述べている(文献B、p.86)。市場経済での交換を媒介する貨幣が銀行中心につくられていることが問題だと強く指摘している。また、大澤真幸さんもBIの意義として、「私的所有の原理」という資本主義の大原則を破り、コモンをつくることにあると書いている。

 

 

【引用・参考文献】

◉ 井上智洋(2019)『MMT 現代貨幣理論とは何か』講談社選書メチエ

◉ 井上智洋(2021)『「現金給付」の経済学 反緊縮で日本はよみがえる』NHK出版新書

◉【文献A】 松尾匡編(2019)『「反緊縮!」宣言』亜紀書房

◉ 松尾匡(2020)『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学』講談社現代新書

◉ 大澤真幸(2021)『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』NHK出版新書

◉【文献B】 高橋真矢編(2021)『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社新書

西成一揆(21年6月5日)

 

 6/5(土)に西成の三角公園の横でしょぼい一揆生存権を求めるアピール)をしました。友人や通行人が集まってワイワイやりました。しょぼい居場所になりました。途中、おっちゃん同士が喧嘩して、路上に転んだ拍子に、腕の入れ墨が丸見えになるハプニングなどあったけど。笑

 

【目次】 

 

 

❖ 西成の人とはすぐ話しやすい

 

 路上でのしょぼい一揆は、わたしが今年から週一くらいで京都の三条京阪でやっていた。西成でも一律給付金の支給や生活保護費の引き上げを訴える路上アピールをしたかった。西成は貧しい人や生活保護利用者が多い地域だから、多くの人と話ができるのではないかと思っていた。今回、やっとできた。話し上手な友人やおもろいおっちゃんのおかげで場が盛り上がった。笑

 

 これまで、京都、扇町公園大阪市)、堺市などで路上一揆をやってきた。生存権や生きづらさについて話のわかる人との出会いがあった。しかし、路上にいて少し話しかけてくれたり、長話するのは一日1〜3人がせいぜいだった。一人でいる時間が長い。でも、西成で生存権アピールをやるとおっちゃんたちがすぐ話しかけてくれる。お酒や食べ物の差し入れをしてくれる人もけっこういた。わたしは依存症で酒が飲めないので、レジャーシートの上にもらったお酒を置くと他の通行人が持っていったりして、モノや金がうまい具合に循環していくので楽しかった。

 

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食べ物の提供は話のキッカケつくりとしてもよい

 

 わたしの友人もツイッターを見て駆けつけてくれたし、引きこもり関係の居場所の知人が偶然通りがかって、しばらく話の輪の中に入っていた。おっちゃんやおばちゃんも路上アピールを面白がってくれたし、即席の話し相手が欲しい人、しばらく居座る場所が欲しい人、酒が飲みたい人、騒ぎたい人などが入れ替わり立ち替わりでワイワイしていた。たまに、タカリの人も来てたそうだけど、、。引きこもり問題にも理解あるおっちゃんとも話ができた。「引きこもりは弱いものいじめの社会が生んでいて、そのボスは菅や安倍なんだよ。引きこもりは社会から引きこもらされているんや」と一喝。清々しいですね。

 

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生存権一揆は、たちまち路上飲みの場になった。みんな誰かとワイワイするキッカケを欲している。

 

 

❖ 西成では貧困問題や生活保護のことが話しやすい

 

 路上でアピールしてると、生活費のために一律給付金が必要だという話には多くの通行人のおっちゃんが同意してくれた。生活保護費が低すぎることについても話ができる人も多かった。生活保護のことが堂々と話しやすいし、生活保護利用者がたくさん住んでいるので、自分が生活保護だと言っても白い目で見れらたり咎められることがあまりない。今回も、「生活保護でバカにされても、そんなん気にすんな」とか、「生活保護だからってひどいこと言ってくる人には、ちょっとお仕置きしたらいいよ」と言うおっちゃんと酒を飲んでいた。

 

 西成で研究調査をされている白波瀬達也さんの論文などによると、西成のあいりん地区は生活保護の利用率が40%だという。高齢化が進み働けない人が増え、リーマンショック以降さらに急増したという。西成は日雇い労働者だけでなく、働けない高齢者、病人、障害者、引きこもりといった多くのマイノリティが集まっている。福祉主体の街だとも言われる。コロナで他の地域から西成に流れてきた人にも街で会ったりするので、生活保護の比率はさらに増えるのではないか。西成では生活保護が主流秩序となりつつある。そのため、就労できないことを前提にした地域での居場所つくりや社会参加が課題になっているという。

 

 グローバリズムでは、ITや金融などが経済の大部分を占め、その流れについて行けない多くの労働者は貧しくなる。さらにAI(人工知能)の発展で雇用が減り、労働からあぶれた人たちは福祉がないと生活ができなくなる。なので今後は福祉が前提の社会になっていくかもしれないし、そうならざるをえない。西成は日本最後のスラム街と言われたり、遅れた問題地域と白眼視されがちだが、むしろ今後の日本が経験するであろう多くの課題を先に経験している先行事例と言えるのではないか。

 

 

(西成の概況について)

【研究ノート】白波瀬達也(2019)「西成特区構想の展開と課題 —あいりん地域の新たなセーフティネットづくりを中心に—」(関西学院大学先端社会研究所紀要、16巻)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/iasr/16/0/16_41/_pdf/-char/ja

 

 

❖ 投げ銭でしょぼい活動していきます

 

 ちなみに、わたしは3/15にアイドルデビューを勝手にしました。デビューの場所は早朝の三角公園であり、2ヶ月半ぶりに西成でアイドル活動をした。その後、引きこもりアイドルを名乗って生存権やら訴えたり、わけのわからんパフォーマンスをして通行人から投げ銭をもらってます。しょぼいファンドも立ち上げた。うまい具合に自分の活動費をまかなっていけないかなと。この前、ある知り合いから結構な額の寄付があり、これを原資に西成や東京に遠征して生存権の路上アピールをやろうと思った次第だ。

 

 また、誰かから得たお金は完全に私用にするのではなく、路上での食料の配布や居場所つくりとしてしょぼいコモンのために使いたいなとも思う。

 

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わたしは引きこもりアイドルとして活躍してます〜

 

 わたしも半引きこもりでお金がないので、最近は路上やネットで投げ銭をもらいたいと思うようになった。投げ銭って100円でも嬉しいんですよ。自分の生きざまをさらして、それを見た誰かの心を動かしてお金をもらうのは、ちょっとした矜持になる。また、労働を介さないお金のやり取りには人との交流が伴う。投げ銭は出会いの場だ。物乞いをやっている人も、何かしら自分の身一つでお金を得ていることに手応えや誇りを感じていて、さらには誰かとの奇跡的な出会いを経験しているのではないだろうか。今回は、投げ銭が次から次に入ってきてプチバズした(京都では1〜2人くらいなのに。笑)。投げ銭の様子を見てたけど、お金を誰かが投げたら、それを見た他の人もお金を投げようという引き金になるようだ。みんなが投げていたら雰囲気的にわたしも投げなきゃという気持ちになるのだと思う。ある種の雪崩れ現象みたいになる。ツイッターがバズるのも同じだと思う。何かしら、人がにぎわっていて楽しそうだとか、連帯したいと思う人の心の動きも面白いなと思った。おっちゃんからは「シノギ頑張れよ」と言われるなど。笑

 

 

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投げ銭もいろんな人から頂いたよ(京都ではありえない。笑)

 

❖ 東京でも生存権祭りやるぞ

 

 次回は、東京の路上で生存権祭りをやりたい。なんとなくだけど、高円寺になるかな。オリンピック前にやりたいですね。路上でみんなが話したり歌ったり何でもやったらいい場になるとよい。今の所、ファンドへの投げ銭で東京への渡航費は確保できたから、あとはタイミングですね。あとね、もうちょっとファンドへの支援があると、今後の路上活動でも食べ物の配布やら、ちょっといいセッティングができたりして、生存権アピールの勢いが出ると思います。引きこもりアイドルにちょいと課金してゆるい攪乱を狙ってみませんか?笑

 

 わたしに課金してくれる人には、ウズウズして社会に一発カマしてやりたい人が多いようです。なので、わたしが何か一発カマしてくれることを期待したのでしょう。いちかばちかの賭けを託されたのだと思うので、わたしもワンチャン狙いで路上で何かやりますね。

 

❖ しょぼいファンド

 

● ゆうちょ銀行(普通)

 

金融機関コード:9900

店番:448

口座番号:1207633

 

 

● PayPay

 

ID:harucafe88

QRコード

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● Youtubeで話したこと

 

www.youtube.com

 

 

「利他」の原理

 

 街で物乞いする人がいると、わたしはよくお金を渡してしまう。でも、通行人みんなが100円ずつあげれば、その物乞いをしている人も生活に困らなくなるはずだ。みんなが僅かな「利他」を発揮すれば物乞いの人も生活がよくなる。なぜ「利他」は生じないのか。

 

 夜回りなどをしている人は、自身が必ずしも余裕があるわけではないのに、それでも路上の人たちを支援している。福祉が脆弱であることや、みんなが困窮者に知らんふりすることで、あまり余裕のない人の手により路上生活者のケアがなされている現状がある。

 

 どうして、「利他」はおこりにくいのか。伊藤亜紗さんたちによる『「利他」とは何か』(集英社新書、2021)を読みながら考えたことを書いてみる。

 

【目次】

 

 

1.立場が「利他」を抑え込む

 

 人の行動を規定するのは内発的な動機ではなく立場によるところが大きい。立場には直接的な命令・役割だけでなく、「見えない権力」も働く。「見えない権力」とは、その人の社会的な立場に求められる規範であり、階級、職種、ジェンダーエスニシティなどで規定されがちだ。その人が世間から求められる思考や行動規範を知らず知らずのうちに内面化していて、それがあたかも自分の意思による主体的なものだと思い込ませているのがフーコー的な権力作用なのだろう。いわゆる「オトナになる」とは、社会で割り振られた立場をちゃんと遂行することであるようだ。逆に、与えられた立場を果たせていれば、他の活動をしないことが正当化される。男性であれば仕事で一家を養っていると、一人前の男性として社会的役割(=ジェンダー役割)を果たしていると見られ、家事や育児の免責が正当化されやすい。

 

 社会的立場を得るには義務を果たすことを求められる。しかし、一般的に義務として挙げられるのは、「勤労の義務」や「納税の義務」という労働者としての義務である。社会における市民は、労働だけに限らず、広く公益を高める営為によっても社会の共通善に資することができる。労働のみを義務とみなす狭い義務観念により、それ以外の活動が過小視されてしまう不均衡が生じる。労働という狭い義務を果たすことで社会的な立場を得られるため、労働者という立場から離れた行為は余計なことと思って避けたがる。自分は義務を果たしているから、困った人や社会問題を目にしても国や他人が何とか解決するだろうと、我関せずの態度をとることもできるようになる。立場でしか動かないことがかえって社会的無責任を正当化することにもなる。

 

 街で物乞いをしている人を見ても、多くの人は素通りするが心の中はゾワゾワする人は多いのではないか。良心に何かしら働きかけるものがある。しかし、自分が素通りした事を、自分一人が金を与えても解決にならないとか、何かしら合理的理由で正当化してしまう。「利他」は良心など合理性では説明できない働きによりなされることが多いが、この場合、むしろ合理的発想が「利他」を妨げる作用をしてしまう。また、働かずに金を得るのはケシカランという「勤労の義務」の側に自分を置く選択をして、物乞いに関わらないことを正当化することも多いだろう。つまり、立場が「利他」を押し留めているのだ。

 

 

【過去のブログ記事】

社会で規定される義務の範囲が狭いため、各々が自分の能力に応じた社会的役割を果たすことの妨げになっていることを指摘した。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

2.「利他」によるユートピアの生成

 

 先に書いたように、人は自分の行動を立場という枠内に閉じ込めがちなので、立場を超えた利他的振る舞いが抑制されている。しかし、例えば災害ユートピアは、有事の際に立場を超えた利他的振る舞いが可能になることで立ち現れるものだ。つまり、災害時などの非日常のレイヤーに飛ぶと人は「利他」を発揮できる。

 

 人は、日常では利他的振る舞いを自発的にすることは少ないが、なんらかの非日常状態や危機に陥ると利他的振る舞いを当然のようにおこなうようになる(それが、真の「利他」と言えるかはビミョーだが)。例えば、戦時中には日常にはない高揚感があったという。村八分や監視による暴力や抑圧はひどかったが、物資が不足していることでの相互扶助や、一体感などでユートピア的な感覚をもった人もいたのではないか。戦争というのはある種の祭りだとも言える。「希望は戦争」というロスジェネ論客の言葉も、現代の閉塞や自分たちの不都合な立場をひっくり返すような破壊的な形でのユートピアを求めるものだったんじゃないだろうか。 

 

 

3.自己犠牲の形では「利他」感情は生まれにくい

 

 わたしが路上での生存権アピール(路上一揆)をしていた時に、一人の友人が来たのでだべっていた。そこにある社会問題でデモなどを主催するアクティビストの方が通りがかり話しかけた。生存権の問題にも適格に指摘をして、大変スマートだ。わたしが自分の活動で掲げるのは「生きづらさ」なので、そのアクティビストの方に「生きづらいですか?」と問いかけてみた。すると、「この社会ではみんな生きづらいですよ」と答えた。少し話を交わした後、その方は去っていった。友人と話を再開すると、友人からこんな言葉を投げかけられた。「彼のような意識も高く能力もある人の生きづらさと、わたしの感じる生きづらさとは質が違うだろう」と。

 

 その友人は社会的孤独でしんどさを抱えている。わたしと同じく稼ぎや能力により人がランク付けされるのを嫌う人だ。アクティビストの人が言うことは素敵でありその一貫した態度に尊敬したが、わたしは友人の言ったことにも大きな思い入れをもった。それは、その友人の心から出た一人称(自分自身)の重いホンネであり、言語化しにくい「生きづらさ」を吐露したものだ。しかし、社会ではこういう個人的な苦悶は自意識の問題だとあっさりと片付けられがちだ。そんな個人的な悩みより大きな社会の課題の方に目を向けなければいけないと圧力がかかる。むしろ、社会的な課題を解決することが個人の生きづらさの解消になるんだと。しかし、それを頭では分かっていても、大きな社会的課題の前に今の個人の孤独といったしんどさは些細なことだと矮小化されてしまうのか。みんなが大きな話題にばかり関心を向けがちなると、自分が置いていかれるように感じてしまい、居心地が悪くなり疎外感をもってしまうのではないか。自分の抱える「生きづらさ」には関心を持たれていない中で、大きな社会問題にコミットするのを求められるのは、自分のリソースが一方的に奪われていると感じるようになる。それが、自己犠牲になると感じてしまうことがある。

 

 わたしも多くの社会問題に目を配る気持ちの余裕がないためか、そのような気持ちになることがしばしばだ。ツイッターでも、大きな問題ばかりがタイムラインに流れ、引きこもりや、承認に悩むこと、孤独といったものが取るに足らない問題だと言われているように感じる。みんながそう言ってはいないが、自分の抱える属性や問題群などの言及がないと自分たちにももっと気を払ってほしいという思いがあふれる。何が言われているかよりも、何が言われていないかの方が個人の尊厳には重いのだと思う。

 

 人を動かすのは大きな課題提起といったシステマティックなものではなく、個人そのものに呼びかけるような言葉なのかもしれない。マスではなく個。自分の存在そのものに気をかけてくれること。人は自分に殻をまとい赤の他人には無関心をよそおう。しかし、その殻が思わぬキッカケで揺らいだりしてその人そのものに触れることがある。そこで、相手を社会問題のことだけ言う自動機械ではなく一人の個人として対することができ、自分の内部に迫るものを感じられるのかもしれない。その社会問題について言う相手は、自分ではなく誰でもいいんじゃないか。自分そのものに呼びかけてこないから、応じる気になれないのではないか。人は自分が一人の人間として関心をもたれている感覚をもててこそ、はじめて他者やその他者に関わる問題にも目を向ける余裕ができるのではないか。ただ、社会問題に関心を向けない人を「意識低い」と切り捨てることもできないのではないだろうか。こういうことからも、「利他」がどういう機序でなされるのか、なぜ社会的課題やインテリの言葉にみんなが惹かれないのかも分かるかもしれない。

 

 

4.「利他」は立場を超えた内発性動機から生じる

 

 他人のためにやる行為といっても、対価を求めたり、期待を求めた行為は、相手への支配となりがちだ。そうではなく、「利他」は自分の中から湧き出る何かに突き動かされてなされるものだろう。國分功一郎さんの言う中動態的な、何かにつれさられる感覚でなされる。カント的には「仮言命法」(条件付きの命法)ではなく、「定言命法」(無条件の命法)だ。これは、自分の立場を離れた純粋な動機からなされるものだ。

 

 伊藤亜紗さんは、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということを指摘する(p.51)。自分の行為に対して相手が喜ぶことを期待すると、利他が自己犠牲となり、見返りを求める押し付けや暴力となる。自分がなにかやって相手はどう反応するかわからない。わからないけど、それでもやる。不確実性を前提にやってみて、相手に委ねる。伊藤さんは利他の基礎にあるのは、相手への信頼だともいう。不確実性はあるが思い切って相手を大丈夫だと信じてみる。信頼とは、相手の自律性を尊重することであり、支配するのではなくゆだねることだという(p.49)。信頼において、利他的行為が可能になる。

 

 利他とは弱目的性に基づく。自分の目的通りに他者の行動に期待しすぎるのをやめる。他者への期待は操作欲求でもあり、パターナリズムとなる。これも、自分が何らかの形で相手の上にいたいという立場の問題と言えそうだ。

 

 わたしたちは立場にがんじがらめになっている。立場が「利他」の発動を邪魔している。だから、利他的振る舞いをするには、立場からジャンプする勇気が必要になる。「利他」は自分の立場を超えたところで発動する。立場という殻を抜け出し、内発性に突き動かされることで「利他」は可能になるのだろう。

 

 

【参考文献】 

 

 

ドゥルーズ/引きこもり/ノマド/個人単位

 

【目次】

 

 

1.引きこもりは幽閉されたノマドである

 

 人類は長らく森の中で遊動生活をおくっていた。人は、その日に必要な食料を森の中で採取し、貯め込まずその日暮らしをしていた。食料は十分あり、余暇も多く、「豊かな生活」をしていた。住んでいる地域で食料がなくなると森の中を移動し住む場所を変えていく。人類の初期はノマド的生き方だった。定住生活に移行したのは約一万年前の縄文時代からだ。支配者が生まれ、食料の徴収、蓄財、分配のために法が整備された。国家の徴税システムにもっとも適した定住民は農耕民だ。計画的な土地区分に拘束される。資本主義は徴税のために人に定住を強いる。さらに、資本の利潤拡大のために人を継続的に労働させる。これは、遊動(アナーキー)から定住(資本主義)への移行だ。ドゥルーズの言うところの「平滑空間」から「条里空間」への移行である。

 

 

「条里空間」→ 計測が可能な空間で国家に管理される。

「平滑空間」→ 海や砂漠のように指標となるものが失われた空間で、権力からの把握を逃れていく。

 

参考:檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

 

  

 「条里空間」の敷き詰めにより「隙間」(=「平滑空間」)が失われ、ノマドが生きられなくなる。ノマド的感性をもった人は今の主流秩序には適合できず、引きこもりや生活保護利用者となって鉄のオリに入れられている。引きこもりは、閉鎖的で抑圧的な「条里空間」に耐えられずにスピンアウトした人たちだと言える。固定された空間や人間関係では弱い立場になりやすい人たちである。だから、移動を基本とした根無し草のノマド的な生き方が向いている。引きこもりはノマドであるが、秩序に太刀打ちできず今の体制では引きこもらざるをえなくなった。だから、引きこもりにとって安定するのは、どこかの組織やコミュニティといった固定した場ではなく、絶えず流動することで可能なのかもしれない。

  

 いわゆる引きこもりといっても外出している人が大半だ。ただ、ブラブラしたいのにも関わらず、世間がなかなかそれを許さない。働いていない人は外に出て関係もつくりにくい。自分の正体を明かしにくい。だから、外に居場所をつくれず家に引きこもらざるをえなくなってしまう。生活保護利用者も同様の問題を抱えている。フーコーによると、近代にできた監獄は病人や働けない人、浮浪者を収監したという。これらの人があてもなく街をブラブラして徘徊することで街の規律が乱れるということで捕らえられた。同じようなことは現代でも起きている。生活保護利用者は最低限の生きる金だけを渡され地域から孤立させられる。人との交流もしにくく人目を気にしてコソコソと外出しなければいけない。これは、監獄生活とそんなに変わらないのではないか。引きこもりも金がなく、世間で肩身の狭い思いをするので身動きがとれない。実家が監獄の機能を果たしている。国が監獄の機能を家族に肩代わりさせているとも言える。ブラブラするノマドは世間から追いやられ幽閉されてしまう。

 

2.資本主義は家父長制に支えられ維持される

 

 資本主義は人を定住化させることで持続できる。日本の終身雇用システムやマイホーム主義は定住を前提としている。日本の雇用システムは正規職を有利にしていて、非正規・フリーランスを不利にしている。制度が定住型を強く推している。資本主義で求められるのは、定住・定職・持続性・計画性である。これらに適合しにくいノマド的な人(なんらかの障害をもつ人、衝動性や多動性をもつ人、対人関係やコミュニケーションでハンディがある人など)が不利になり秩序の下位に置かれやすい。

 

 さらに、日本型雇用の年功序列制は家族給発想となっている。正規職だけに支給されるボーナスや各種手当ても家族を養うことを前提としている。逆に非正規は世帯主に養われることを前提とされ賃金が低く設定される。被扶養者は女性に多く、非正規の賃金の安さが正当化される。最低賃金の低さは家族単位にもとづく女性差別が原因である。ケアやサービス業などのエッセンシャルワークに女性が多く従事し、薄給であるのもジェンダー役割に基づく差別であると言える。

 

 このジェンダー差別に基づく日本型資本主義を維持するのが婚姻制度となっている。男女の地位や経済力における格差があるため、結婚して子どもを産み育てるようになると、男性が正規職の稼ぎ手、女性がパート・主婦になりやすい。婚姻制度は中流の標準家族(男性:正規職/女性:パート・主婦)を制度上優位にしていて、婚姻制度が主流のジェンダー規範に人々を誘導していると言える。

 

 資本主義は婚姻主義に基づく(シスヘテロ)家族主義をビルトインすることで、労働力の再生産を家族に担わせる(その負担は女性に偏る)。生殖の単位をシスヘテロ男女のペアとする。「正しい性愛」をシスヘテロカップルに置き、それ以外の性愛は非推奨の逸脱として社会ではフタをされてしまう。シスヘテロ規範に基づく婚姻主義は資本主義の「条里空間」の補強・存続のために機能させられる。

 

 

3.人々の欲望が「条里空間」の補強のために動員される

 

 人々の欲望は多様であるが、秩序によって資本主義的なものと家族主義的なものに収斂させられる。そして、それらに合致しない欲望を無意識の中に抑制しようとする。人は自己の欲望を実践しているように見えて、実は秩序からはみ出る欲望を削り取り、自己を無力化していると言える。精神病は非主流の欲望が無意識からあふれ出した現れとも言われる。非主流の欲望は無意識の中に閉鎖され、ノマド的な実践をとれなくしている。ドゥルーズの哲学は、非主流の欲望を発現できることが自由の実践であり、ノマドの解放だと言っているようだ。

 

 ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、フロイトが精神病における無意識の欲望を家族関係(=親子関係:エディプス・コンプレックス)ばかりに還元していることを批判したものらしい。無意識の欲望はもっといろいろあるし、資本主義の問題といったクリティカルな部分を無視しているという。

 

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』「第3章 欲望の哲学」より

 

 

 資本主義は、人々の欲望を経済的価値により意味付け、貨幣と貨幣に従属する労働へと欲望を変形させる装置だと言える。欲望は金銭的価値に画一化されていて、人は金銭を得るために自分の欲望の実現を延期して労働する。欲望を抱かせ絶えず労働させることでシステムそのものを持続できているように見える。人は欲望の実践のためにすすんで労働者となり無力化されているとも言える。

 

 また、ジェンダー規範においては、恋愛や結婚を生殖主義で正当化している。性愛規範では、「生殖可能性のある性愛」が正しい欲望とされ、「生殖に向かわない性愛」はアブノーマルで時に病的なものと見られる。ジェンダー表現やセクシャリティの抑圧となっている。

  

 このように、資本の論理やジェンダー規範が道徳観念として確立され、個人個人にもそれが植え付けられる。むかし、役所に生活保護申請を拒否され、「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人の問題があった。飢えている人は食べる欲望があるのに、窃盗をしたり他人にすがることをしない。これは、労働して得た金で食べ物を買いたいという労働規範に沿った欲望が、生存欲望を押さえつけ自死や餓死をもたらしてる。欲望が主流秩序に適合したものに押し込められ、生存まで脅かされている状況がある。

 

4.個人単位化によるノマドの解放

 

 家族単位の社会とは経済力がない人が家族に依存させられ自立できない社会だ。逆に、個人単位の社会は個人に生活保障がなされ、個人で自立ができる社会である。引きこもり、生活保護利用者、困窮者の貧困や生きづらさを緩和するためには社会システムが家族単位から個人単位にならなくてはいけない。

 

 個人単位の発想では成長主体から再分配主体の社会になる。家族の経済力に依存せず個人で経済的自立ができるように最低賃金を1500円以上に上げる(同一労働同一賃金)。扶養義務を弱め家族に負担をかけず引きこもりなどが社会保障を利用しやすくする(社会保障の個人単位化)。ベーシックインカムを導入して生活費の軽減をはかる。これにより、正社員になってもいいが、フリーターとして職や住むところを転々とするノマド的生き方も実践しやすくなる。

 

 法人税率、富裕層や高所得者、金融投資家への課税率を引き上げる。金を貯め込ませにくくする。今の不景気は金が富裕層に溜まりすぎていて市中に流通していないから生じている。消費の不活性が経済の停滞となっている。貧困層は金がないから消費ができない。貧困層への再分配により消費は喚起され経済はよくなる。再分配は金を循環させるシステムであり最大の景気対策なのだ。個人単位の社会は経済の好循環を導く。金を多く貯めなくても社会保障により落とし前がつけられる社会だ。個人単位の社会はその日暮らしの生き方が可能になる社会なのだろう。ヤケッパチな人に優しい。比較的自由にブラブラできて秩序や組織への拘束も弱くなる。望むのは、自由に逃げられる社会だ。

 

【図式】

 

条里空間 VS 平滑空間

=定住型 VS 遊動型(ノマド

=キャリア型 VS その日暮らし型

=家父長制 VS ジェンダー・フリー

=家族単位 VS 個人単位

 

  

5.「リゾーム」の発想によるしょぼいノマド的実践

 

 個人単位の社会となれば、国家や資本主義の枠内でも、その日暮らしやノマド的生き方がやりやすくなると書いた。とはいっても、システムは早々に変化することは期待しにくい。システムの問題だけを言うのでなく、個人個人がしょぼいノマド的実践をすることで各々がエンパワーされることも大切だ。行動や意識レベルでの個人単位化と言えそうだ。

 

 車上生活の映画が話題になっている。車上生活は現代のノマド的な生き方だけど、車が買えない人や運転すらできない人もいるのでやや敷居が高い。だから、日常の中にノマド的要素を取り入れしょぼい非日常を楽しむやり方もあみだしていく。日常において旅をする。

 

 ノマド的感性とは地に足をつけられず浮足立っている感覚といえる。これは、無意識の欲望にある程度従っていてフワフワしている状態だ。計画性というよりも偶然性に身を任せる。将来にピントを合わせて行動するだけでなく、「いま・ここ」に中心を置き、その場その場で楽しみの供給をしていく。

 

 知らない場所にひょいっと出かけたり、知らない人と話すのを恐れず、思いがけないことを期待してワクワクしながら毎日をおくる。変わった格好やジェンダーを揺らすような装いをして日常世界を変える。今の秩序に適合できない人は、ヤケッパチになってもがくしかない。ヤケッパチになって、何か思わぬことが起きないかとワンチャン狙って生きていく。その都度、その都度、迫ってくるものに応じていく。

 

 これらは、計画、規則にとらわれないカオスのように見えるが、実は無意識の中にある別の秩序の表出なのだ。ドゥルーズは既存の序列や規則によらない別の秩序(多様体)を「リゾーム」(地下茎)と呼んだ。ちょうど、色んなところに根がポコポコと出てきて各々が自由な欲望を体現していく感じだ。ツリー型の主流の価値体系(幹を中心とした序列化)によらないリゾーム型の価値追求をしていきたい。個人個人が能動的に自己の欲望を体現できることが自由の実践となる。自由とは状態ではなく、自由に向かう実践の中でこそ自由を体感できる。だから、課題は「反復するかどうかではなく、どのように反復すべきか」(バトラー)なのだろう。引きこもりの人にふさわしい言葉は、「一丸となりバラバラに生きよ」だとも言えそうだ。

 

 ※「ツリー」と「リゾーム」については、宇野邦一(前掲書)の第4章「微粒子の哲学」を参考にしました。

 

 

【実践しやすい】

・知らない路地に入る

・知らない駅やバス停で降りて街を散策する

・電車移動を徒歩で移動してみる

・いろんなコミュニティにちょろちょろ足を運ぶ

 

【すこし思い切ってできること】

・街で知らない人に話しかける

・路上パフォーマンスをする

 

 

 

【文献】

檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』講談社選書メチエ212

話しかける

 

 たびたび街で知らない人に話かけて会話をする。こちらから一言話しかけたら、それに応じて向こうが近況や身の上話をたくさん話すこともある。街の人と話していると、【高齢+貧困+独居】の人(特に男性)の社会的孤独がかなり目につく。暇そうな人と話してみたらたいてい長話になる。長話になるのは普段思い思いに自分のことを話せる相手が不足していることの裏返しだとも思う。わたしのようにロクに働けない半引きこもりのくせしてヘンクツな人間は、人とも親しくなりにくい。京都には話し相手がいなかったが、2月に路上一揆して出会ったおっちゃんとは社会福祉関係の話で意見が合うので、家に遊びに行ったり花見したりした。引きこもりにとって近くに話し相手が一人できたのは非常に大きいのだ。このように、路上での生存権アピールで、生きづらさについて視点が合う人と出会えることもある。ただ、そういうレアなことはそうそうないので、街でブラブラして素性がよく分からない人にも話しかけてみて、しょぼく孤独解消をやっていくのも大事であると思う。

 

 

【目次】

 

 

※いろいろ前置きの文章が長くなってしまったが、わたしの経験した街の人との会話エピソードは【3】からです。

 

 

1.孤独による生きづらさ

 

 4月のはじめに京都の三条京阪の路上で生存権カフェ(しょぼい一揆)をしていると、通りがかった70代前半のおっちゃんと話しになった。おっちゃんも働いているけど、2万円代の炊事場共同の安アパートで貧乏生活している。生きづらさや孤独問題のことで話を聞いた。高齢者の働く場がないことが問題だという。仕事がないと社会に居場所がなくなってしまうという。高齢者が年をとっても働こうとするのは、お金のためだけでなく、仕事をしなければ居場所ごと失ってしまうためでもある。家に一人でいてもしんどくなりマイナスの感情に襲われるという。孤独でいるとよからぬ事を考えてしまう。それで衝動的に自殺する人も多いのではないかと話していた。そのため、おっちゃんは気晴らしのため外でブラブラするようにしているという。これは、路上で出会うおっちゃんからよく聞くことだが、生活保護を利用している人には自殺者が多い。これは、データでも示されている。生活保護利用者の自殺率は全国平均の2倍だ。さらに、教育社会学者の舞田俊彦さんの記事によると、生活保護利用者の自殺率は30代が一番高く全体の5.5倍だという(10年前の統計に基づくものだが)。働き盛りの人が働けないことによる世間からのプレッシャーが大きいためではないかと語る。人を死に追いやるのは金銭的欠乏によるだけではなく労働規範による圧力も大きいのだと察するところだ。

 

tmaita77.blogspot.com

 

 

2.孤独な人が多いのにマッチングしにくい問題

 

 生活保護利用者の方から聞くのは、支給額が削減されて社交に使える金がほとんど無いという問題だ。カフェ、飲食店、居酒屋などに入れず、社交の機会がもちにくい。交通費も負担であり移動に制限がかかり人とも会えなくなる。わたしが路上で出会った生活保護を利用しているおっちゃんは、「生活保護費の削減は、利用者から自由を奪い、精神的に追い詰めることで自殺に誘導している」と語った。人と交流するためのお金がないだけでなく、生活保護利用者という弱い立場ゆえ差別的な扱いを受けやすく、その懸念から人を避けるようにもなる。人との出会いや行動が制限されると希望や楽しみも得にくくなっていく。世間からの目も厳しい。働いてない人がブラブラしていると咎められる。咎められなくても後ろめたい気持ちにさせられる。障害者や困窮者を気軽に街でブラブラさせてくれない。世間の目という見えない権力が張り巡らされ「監獄」と化している(フーコーのいうパノプティコン)。近代社会は街から浮浪者をつまみ出して監獄に入れて街を見かけ上キレイにした。同じように、障害者や困窮者を街にブラブラさせないように家に居させたり作業所に誘導する形で、街からそういった人たちの存在を不可視化させているとも言える。

  

 

 街で人と話してみて思うのは、話し相手がいなくて誰かと話したがっている人は多いのに、そういう人同士がうまくマッチングできていないという状況がある。誰かに話をしたい寂しめのおっちゃんと、孤立した引きこもりの人が上手いことマッチングできたらええのになと思ったりする。おっちゃんはある程度の人生経験があるから話も退屈しないだろう。街で落ち着いて居られるところが失くなりつつある構造的な問題もあるのだが、見ず知らずの人に話しかけにくいという見えない抑圧もある。他人にスキを見せにくい社会だし、女性なら知らない男性から声をかけられるとナンパやキャッチではないかと警戒してしまう。この問題はもちろん頭に置いた上で、半引きこもりのわたしのようなしょぼい人ができることをやってみたいなと思う。タイミングなどが合えば相手に負担をかけない形で話かけてみる。「知らない人に話しかけてみる」の実践である。

 

 

 生活保護の利用者が誰かと良好な関係をつくるのは簡単でない。引きこもりの人なども同様の問題を抱える。特に、引きこもりの人の抱える弱点はタフな人間関係がしんどくなるということだ。いろいろ弱みを突かれる立場であるため余計に困る。他者からのジャッジ(承認/否定)に気を張るため、相手とうまく話ができない。これらは、引きこもりの人が過去のキビシイ経験などから身につけた思考やコミュニケーションのパターンであり、本人だけの責にはできない。どうしようもない。どうしようもないが、まだもがきたい。フツーの関わりが難しいなら、フツーとはズレたイレギュラーなやり方で人と関わっていくことも考えたい。ある組織やコミュニティーで立派な構成員になるなどキレイな社会復帰だけを是とするのではなく、宙ぶらりんでギコチナイ形での社会との接し方を模索することにも目が向けられるべきだと思う。それは、網野善彦の言うところの「無縁」のようなものじゃないだろうか。主流社会の中には組み込まれてないが、時折オモテに現れて人と接する芸能民タイプの人である。タフな人間関係やめんどうな付き合いが苦手なら無理をする必要はない。自分の対人能力や精神的状況が優先されるべきだろう。固定する人や組織との密で継続的な関係は急がない。できたらいいなくらいのオマケと考える。主流の人間関係が難しいのであれば、断片的な関係でしょぼい物語をつくっていくことでまず進んでいきたい。

 

 

3.街で知らない人に話しかけてみた 

 

① 会話のフラグが立つと話しやすい

 会話がしやすそうな雰囲気を漂わせていたり、会話してくださいというサインを出してくる人を見つけたら話しかけてみる。 

 

・公園でワンカップもったおっちゃんがVサインしてくる

 

 これは、わたしに絡めというサインだから、絡みに行くしかない(笑)。西成は向こうから話しかけてきたりサインを出す人が多くて、会話のフラグがすごく立ちやすい。

 

・手持ち無沙汰でぼんやりしてるおっちゃん

 

 街でミカンの木を切ってるおっちゃんに話しかけたらミカンをもらった。町内会でミカンを収穫していたそうだ。たくさんミカンをもらったので、街の誰かにあげようとした。河原で水筒をぶら下げて何分も立ってるおっちゃんに思い切って 「ミカンいりませんか?」と話しかけてみたら、会話になった。定年退職して大学院の聴講生をやってるがコロナで休校になり暇で外をブラブラすることが多くなったらしい。コロナ初期には会社クビになって公園で暇つぶししている人も多かったとか。女性や非正規が多かったとか。ブラブラして色んな人と話してるそうだ。ブラブラの達人だ。

 

・ブラブラしてるおっちゃん

 

 この前、公園のベンチでぼんやりしてたら自転車でやってきたおっちゃんと目があって、「どうも〜」って挨拶して会話になった。80代でコロナで居酒屋とか喫茶店に行けなくなったので、外でブラブラすることが多くなったそうだ。長距離散歩することも多くなりよかったとも言っていた。今の住宅地の昔の様子について聞いたり、戦後の食糧難の時代に親が日本海若狭から自転車で闇米を運んでいた話を聞いた。親は立派やったと語っていた。野菜ドロボウもしていたそうで、「それ、まさに火垂の墓ですやん」と思わず返してしまった。「おっちゃん、他にも悪いことしてたでしょ?」と聞いたら、「浮気をちょっとな」という話をされたり。おっちゃんから、悪いことは早いうちにしとけよと言われた。「人生は後悔と失敗だらけや」と言うおっちゃんはたいてい楽しそうなので、後悔や失敗は怖くないなと思ったりした。こうやって街の中で闇米や野菜ドロボウの話をするおっちゃんも10年後にはいなくなるのではないだろうか。

 

 おじいちゃんおばあちゃんも、家族の中では言えないようなケシカラン話ができる人が欲しいのだろう。ガス抜きだ。ただ、公民館で茶話会のような場が与えられれば十分だという訳でもないのだろう。

  

・動物を見ている人

 

 野良猫にエサをやってたり見ている人には、猫の話題で話しかけやすい。野良猫の説明を聞いたりできる。猫はかすがいと言えそうだ。

 

 河原でヌートリアが水浴びしているのを発見した。横でおばちゃんも見ていた。おばちゃんに話しかけてみるとヌートリアの調査をやったことがあるらしい。下流まで車で移動しながらヌートリアを数えるそうだ。ヌートリアは野菜とかも食べてしまうらしく、河川敷の畑で育ったおいしい京野菜を食べているそうだ。

 

・変わった格好をしている

 

 奇抜な格好や変わったファッションをしている人は話しやすい。帽子に人形をつけていたり、頭の上に荷物を載せている変わったスタイルの人に話しかけたりした。わたしも女装していると話しかけられやすいし、こちらが話しかけたら話のネタをつくりやすい。

 

 

② 話しかけてみたら路上生活者を支援に近づけたことも

 

 西成の夜道のイスに座って競馬新聞を見ているおっちゃんがいた。「おっちゃん、競馬負けたんじゃないですか?」と話しかけてみたら、お金がないから缶コーヒーを買って欲しいという話になった。滋賀県の会社に勤めていたが、病気で職場復帰が難しくなり寮を出ていくことになった。それからの経緯について、住居があるのか生活保護を申請したのか話が錯綜したが、日雇いをして簡易宿泊所に泊まろうと考えて数日前に西成に来たらしい。わたしが、「生活保護とらないんですか?」と聞いたら、自力で頑張りたいと言っていたので支援者の名前だけ教えてその場を去った。後に、路上生活者の見回りをしている知人に連絡して事情を話したら駆けつけてくれて、おっちゃんにまた会う。すると、おっちゃんは支援があるなら利用したいと前向きになり、とりあえず無料シェルターを案内した。おっちゃんも自分の事情をうまく説明しにくそうなので、後の手続きは支援者に任せるしかない。このように、路上でたまたまおっちゃんに声をかけたことで支援に近づけることもできた。西成で困ってる人がいたら「ふるさとの家」に行ってもらうのがいいそうだ。

 

 路上で、目的もなく人に声をかけることで思わぬことをもたらすこともある。社会で分断されつつある人と人との信頼関係を編み直すのはそういうミクロなところからではないか。根拠はないがわたしは前向きな自信をもっている。北九州で困窮者支援活動をするNPO法人抱僕の奥田知志さんと歴史学者の藤原辰史さんとの対談に示唆された。藤原辰史さんの『縁食論』では、子ども食堂においては「貧困支援」と強く打ち出さず、とりあえずみんなでご飯を食べましょうという弱目的性のゆるさを出すことによって、結果的に困窮者が気軽に来やすくなるという。また奥田さんは、路上生活者と会話になっているのかよくわからないような言葉のやり取りを重ねるうちに、相手が心を開いて思わぬ進展になることがあるという。弱目的性の会話によって予測不可能な「誤配」も起こる。対話になってないように見えるが心のどこかには何かが響いている。そのような、「メタ対話」と呼べるようなものにも可能性はあるのだろう。

 

 

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