生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

努力主義の脱構築

 

【目次】

 

 

1.「努力」という言葉がトーンポリシングのために使われる

 

 よく、引きこもりや生活保護利用者などに対して「努力してるのか?」と聞いてくる人いるじゃないですか。何もしてなかったりブラブラしていると白い目で見られる。マジメに努力してる態度を求められ、常に緊張を強いられる。働いてない人に厳しく当たり、みんなへの「みせしめ」にしている。まるで監獄の囚人だ。でも、逆だよ。外に出て活動的になったり人と交流したりすることが社会復帰を促すからね。困窮者などが「あなた努力してるの?」と問いつめられると、相手から非難されるのをかわしたいから努力していることを証明させられるじゃないですか。あれがすごくバカバカしい。努力とかそんなの関係なく困窮したらみんな社会保障で生活をカバーされなきゃいけない。だから、福祉利用はその人の経緯ではなく今置かれている状況(保護水準)から判断されなくてはいけない。生存権保障に努力義務が課されると、当人が努力しているかが立場の強い者により恣意的に判断されるスキを与え、生存権における無条件原則に反してしまう。生存権の話で努力がなんだと持ち出してくるのは、単に困窮者に対する追い打ちであり「懲らしめ」の意味しかない。働けない人ってお情けで生かされていると思われてるじゃないですか。だから、お情けを買うために健気に努力してる姿が求められる。実績や能力を示せない人は、その替わりに誠実さや努力する姿勢といった内面を差し出すことを強いられ無力化される。これこそ、魂まで奴隷にされるというやつです。人を従属させるために「努力」という言葉が都合よく使われる。

 

 

2.努力主義を脱構築する

 

 教育社会学では、能力主義のもと平等をうたうメリトクラシーのシステムがむしろ階級の再生産をおこなっているとされる。タテマエでは教育はみなに開かれていて能力に応じて適当な職に就けるとされるが、現実には学力のつけやすさは親の収入や環境に依存するので機会は平等でない。よく、貧困家庭に生まれたり幼少期にグレたりしたが、その後に成功した事例が感動物語として持ち上げられる。そして、そのような著名人の発言力が高まると、逆境にあっても上手くいくかどうかは本人の努力次第だという言説が強まる。しかし、教育社会学では努力できるか自体も階級や環境に左右されることが定説になっている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)。努力が価値あるものだと思うには、努力は報われるものだという意識がもてなければいけない。親が努力して成功したのであれば努力は価値あるものと信じやすいし、勉強熱心な人が多い進学校などの環境では努力することが高く評価される。逆に、努力するのはクダラナイという人に囲まれると、努力は評価されにくいし、時に疎んじられるため、努力そのものがしにくくなる。このように、環境により努力に対する価値づけが違うことを考えると、努力できる機会も不平等だといえる。ここから、「努力できるかは条件次第」という言説が生まれる。

 

 

 しかし、わたしは「努力できるかは条件次第」という言説のその先に行きたい。わたしたちは有用な成果を生み出すことをすると努力したとみなしがちだ。有用な成果とは大抵はお金を生み出すことだ。また、お金にならなくても人に対して分かりやすい効用や成果をもたらした時にも努力したとみなされやすい(もちろん金を生み出す行為の方が評価は上)。それに対して、社会的評価がされにくい行為をすると努力してないと言われるが、その行為にはエネルギーが使われていないのだろうか。鬱でしんどい人はメールを読むのも風呂に入るのも苦労する。発達障害を抱える人には部屋を掃除したり、遅刻しないで学校や会社に行くのも大変だという人もいる。コミュニケーションが苦手な人は誰かと少し会話するのもエネルギーがいる。このように、何らかのハンディがある人は生活を成り立たせること自体にかなりのエネルギーを消耗し努力している。しかし残念ながら、エネルギーは使っているが社会的に評価されにくいから努力とは判定されにくい。このように、努力の基準は有用性に偏っている。努力評価の基準に偏りがあるため、社会的評価がされにくい行為で苦労したりエネルギーを消耗している人が低く評価され、いつまでもエンパワーされにくくなる。秩序に適合しにくい人たちの地位を回復するには、生産性で努力量を測ろうとする資本の論理を脱構築することが求められる。

 

 

3.社会で上手くいくかは努力ではなく適合できるかの問題

 

 人はそれぞれ違うがゆえに、それぞれができることや持続できることも異なる。ある人が自分のもつ特性や能力で努力できる事が、主流秩序に適合するどうかは分からない。主流秩序に適合した特性や能力をもっていたり身につけやすい人が、マジョリティとなりやすく優位なポジションを得る。努力の判定もマジョリティ基準であり、努力評価はフェアではない。努力主義の強調により、特定の特性や能力を有利にする社会構造の問題が、努力という意思の問題にすり替えられ、構造により格差が生まれている本質的な問題がぼやかされる。

 

 

 高度に発展した資本主義では、人が生きていくには高度な能力を求められる。金が稼げる資格を取得したり技能を蓄積するには年単位を要する。資本主義の中で評価される能力をもてるのは、コツコツ努力できる持続性のある人だ。これが、勤勉・勤労を美徳とする近代のエートスとなっている。これは、前資本主義における狩猟採取民がその日暮らしで拠点を点々とする遊動型であったのに対して、定住・定職を基本とした計画的な生き方を求める定住型と言える。資本主義では、この定住型パラダイムに沿った人が制度的に有利になり、コツコツできない遊動型は不利になる。システムがその日暮らしのヤケッパチ人生をよしとしない。資本主義で生きにくくなる特性の例として、発達障害でよく見られる衝動性や多動性がある(診断はないが、わたしもこれらが強い)。場当たり的に行動することや持続性がないことは組織生活や技能蓄積に不利であり安定した職に就きにくい。また、主流のコミュニケーションができるかも秩序への適合具合を決定づける。主流のコミュニケーションがしにくい人は「コミュ障」とバカにされたり、疎外されやすい。以上のような特性は、チームや組織で行動したり、有用な成果を出すのに不利である。このように、定住・定職・持続性・計画性を求める資本主義社会の標準モデルがそれに適合できない特性をもつ人を不利にしていると言える。逆に西成などに行くと、みんないきなり文脈関係なく言いたいことを言ってくるので、コミュニケーションのあり方を気にしなくなる。

 

 上で書いたように、社会で上手くやっていけるかは努力できるかよりも適合しているかの問題である。そして、社会に適合しにくい人ほど適合するための努力を強いられる。適合しにくい人はシステムでワリを食っていると言える。金、教育、ジェンダーフリーなど機会の平等はなされるべきだが、機会の平等さえ整えば著しい格差は許容されるのかといえば、そうではないと言いたい。システムでエンパワーされやすい特性や能力をもつ人は階層の上位にいけるが、そこではシステムでワリを食って下位になる人の存在が必ずいる。ある人の優位性が際立つのは、別の人を劣位に置くシーソーゲームによる。上位の人には自らのエンパワーのための資源になった下位の人に対する相応のコストは課される。人は自分の実力だけでは優位に立てず社会的な関係性を必要とする。自分を勝ち上がらせるのを可能にした社会(=他者)に対するコストと捉えたい。

 

 

 

【過去記事】

 

◉コミュニケーションは個人の能力よりも適合の問題であること

 コミュニケーションの可否は自分の発話能力の問題だけでなく、相手や環境にも依存する。「コミュ障」なのは自分のせいなのかと悩む人に読んでもらいたい。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉自分の社会的成功は自分の力だけでは成されない

nagne929.hatenablog.com

 

炎上商法としての陰謀論

 

 街の中心で、「コロナは嘘」と大声で集会している陰謀論者をよく見かける。しかも、日に日に勢いを増している。街の中心ではビッグイシューのおっちゃんも販売活動していて、陰謀論者が勢力を広げると、おっちゃんの営業活動が妨害される。また、街から居場所も奪うことになる。

 

 

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【目次】

 


1.裏口からワンチャン狙うのが陰謀論

 

 陰謀論にハマる過程をツイッターでわかりやすく説明したのは高知東生さんだ。「俺だけがこの動画にたどり着き、世の真実を知ってるんだと。そうか、やっぱり!と。どんどんハマっていきました」。つまり、自分だけが知っているという優越感を簡単に得られるから陰謀論にハマりやすいという。自助グループの仲間に陰謀論をマジメに話すと笑って間違いを指摘されたことで、自分を修正できたという。仲間から笑われたが、それを素直に受け止め、後にネタに昇華できたことが陰謀論脱出によかったという(これは、依存症からの回復にも通じるだろう)。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

 陰謀論者はデタラメな事を「みんなが知らない真実」とでっち上げて、それを知っているワレワレという超越的立場を得ることを目的としている。裏ワザでワンチャン狙っているのだ。いびつな形での権力欲の発現だといえる。「コロナは嘘」だと路上で騒ぐことで、衆目を集めてインチキな仲間との連帯感をもつ。彼らにとってはたまり場であり非日常を味わえる居場所にもなっているのだろう。カルトや陰謀論の人たちも主流秩序に乗れなかった人たちなのだろうとは思う。でも、ただの非主流のダサい生きざまはつまらないから、デタラメをカマして注目をあびたり権力を取ろうとしている。これは炎上商法といえる。 

 

 オウム真理教はその中がピラミッド型の階級秩序となっていた。ナントカ大臣など現政府と相似した役職をつくって疑似的に権力を体現していた。しかし、自前の組織での権力ゴッコにとどまらず、メディアや選挙に出るなど主流社会でも権力を志向していく。そのこじらせた権力欲が数々の殺人事件ともなった。カルトや陰謀論に自分が一体となってアクションをすると万能感を得た気分になる。この気分から降りることができず、そこが居場所となってしまう。これはやがて、活動の目的そのものではなく、組織や居場所を維持するだけの活動になってしまう。

 

2.「満たされなさ」がカルトや陰謀論を勢いづかせる

 

 カルトや陰謀論の原動力は「満たされなさ」だろう。主流秩序からの疎外感を、みんながしないことをして特別な存在として自己をアイデンティファイしようとして誤魔化しているのではないだろうか。疎外された人がブレずに立ち止まっていられることは難しい。やり場のないやるせなさの向け先がわからない。見えない自由が欲しくて見えない銃を撃ちまくりたいのだ。社会で通用する高い実力をもっていたり、何らかの自信をもっていないかぎり、それを穴埋めする形でヘンテコなスピ系、カルト、陰謀論などに飛びついてしまう心理は他人事として片付けられない。人はもろいからだ。居場所というのは自分の力をうまく体現できる場や人間関係なんだろう。自己表現ができる居場所が得にくいと、大きな敵と戦うストーリーで連帯して一体感を得ようとしたり、マジメに反社会的活動をやって安易なガス抜きに走りやすくもなる(ネトウヨ、過激派、カルト、陰謀論)。

 

 いわゆるパリピなどの陽キャは、派手に遊んでつながりも作りやすい。うまいこと気晴らしをしながら生きられる。対して、陰キャはそういった派手なことに憧れつつも、それができないでいて「満たされなさ」を感じやすい。陽キャのようにワーッと騒げないが、内面には騒ぎたい欲求がある人も多いのだ。その欲望を発露できる場としてカルトにスライドしやすい。だから、意外にも、地味な人が一発逆転的な感じでカルトなどに行きやすい。例えば、大学ではよく宗教勧誘がなされているが、まだ大学で知り合いができていない新入生がターゲットとなる。また、ハミゴになりやすい性格がおとなしめの学生が勧誘されやすいという。疎外感による寂しさが付け込まれやすいのだいう(島田裕巳『わたしの宗教入門』ちくま文庫)。

 

 疎外感は自分が他者に影響を及ぼせていない不全感に由来する。自分が権力の主体になれず風を切ってる感じから生まれる。社会や他者に自分なりの関わりができないことが生きづらさとなる。自分のしっくりくる形で社会に存在できている実感が大切で、そうでない形でごまかしながら社会と関わってるとインチキな承認となり自己がぐらつく。わたしは以前ブログで、抑圧的になりすぎない形でしょぼい権力をさりげなく行使できることが大切だと書いた。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

3.裏ワザに走らず、あくまで正攻法にとどまる

 

 「生きづらさ」とは、生産性主義/能力主義/家族主義といった主流秩序による問題である。陰謀論に走るのは、正面から主流秩序はおかしいと問うことが抑圧されていて、さらに正論がダサいと思われている風潮も理由にあるのではないか。これは、陰謀論だけでなく、教祖系、奢られ系、レンタル系などの人たちがインフルエンサーとして崇められ、秩序のあり方は問われずテクニックばかり強調されることにも重なるのではないか。浮足立って安易な裏ワザに走ろうとせず、腰を据えて主流秩序を問うたり、ズレるような実践をしていきたい。それで仲間や話のわかる人とつながり、対話をしていく正攻法が自己をエンパワーして社会の変革にもむすびつく。

「いま・ここ」の哲学

 

 

 ある日、朝の仕事がおわり河原でぼんやり歩いていた。そしたらカラシナをみつけた。思いがけない春の訪れを感じた。あてもなくブラブラして繁華街に向かった。そこでは、「コロナは嘘だ」と大声で集会してる連中がいた。通りを挟んでビッグイシューを販売しているおっちゃんがいた。おっちゃんに話しけてみた。「コロナは嘘やと言ってる人たち、うるさいですよね。営業妨害やって言いにいきましょうよ〜」と冗談まじりで話しかけてみた。ビッグイシューを買ってから、わたしも路上で生活保障のことをアピールしていると言った。「おっちゃん、僕、女装してんねんけど」と言って女装の写真を見せたら、ウワーっとおっちゃんが驚いてウケた!ひとりで路上アピールしていると通りがかりの人からお小遣いをもらった話とかをしたら、「おお。じゃあ、ワシも女装しよかな〜」とおっちゃんも話を面白がってくれた。アイスブレイキングである。

 

 ビッグイシューは路上生活者の自立のためのビジネスなので、話題としてはマジメな社会問題としてオカタイものだ。おっちゃんたちと交流するにしても、どうしても話題は貧困問題などマジメな話を中心とした表面的なものになってしまいがちなのではないか。でも、わたしが思い切って、自分のやってる女装をネタにして話してみたら、笑いのモードになった。気持ちのゆるみ(スキ)が生まれたと思う。「変な人」であることを自己開示してオフザケがしやすくなると、相手との境界線も超えやすくなる。このようにスキを見せる行為も、生産性からズレる実践だと思う。スキをつくるのも意識しないとやりにくい。

 

◉ 河原でみつけたカラシナ。パスタにしようかな。このように偶然に野草を見つけるのも小さな非日常である。

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 無駄に見えることやズレることをするのは、生産性の論理から外れる行為である。人はデフォルトで生産性のある行為をしがちだ。わたしたちは観念や行動パターン(ハビトゥス)までも生産性の論理に支配されている。知らず知らずのうちに役に立つかどうかで判断したり、常識や他者目線で行動してしまう。気を抜くと主流に流され、無駄なことをしなくなる。無駄にみえることやズレることをおこなうことは主流に逆らい自分自身を拠り所にしようとする行為だ。自分を律することで主体的になり、それが「自立」になるのではないだろうか。小さなことだが、普段なら電車で行く所を歩いていく。そうすると、道端や空き地で野草をみつけたり、知らない人と会話になったりする。スピンアウトすることで、予期せぬ偶然がおこる。「誤配」である。このように脇道にそれたり寄り道をするのも意識的にやらないとできない。さらに、野草や何かおもしろいものがないか意識を払うことや、誰かと話そうとするのも意識しないとできない。また、素朴なものや何げない事を楽しむ技能も必要だ。さっきのビッグイシューのおっちゃんとの出会いも、ある勉強会に行く途中に街をブラブラしてたから起こった。

 

 

 人は常に外部からの影響や刺激の中にいて、みずからの意志だけで行為をしているわけではない。スピノザは、自由であるとは能動的になることであると言ったそうだ(國分、p.110)。能動であるとは、自ら自身が原因となって何かをなすことをいう。自分の力がうまく表現できる行為をつくるだすことが、自由になるために一番大切だという。人には、生産性の論理に従った発想や行動をとる慣習(=コナトゥス)が染み込んでいる。自分自身の力の表現というものは、そのような主流の流れから自由になれたところでこそ発揮されるのではないか。予定調和でない非日常においてこそ「現れ」が生まれる。それが、誰のものとも代えがたいオリジナルな経験となり自分のアイデンティティの核にもなる。小さな思い出をつくっていく。

 

 

 見返りを求めたり、将来のことを念頭に置いた考えや行動は、目の前の現実に対峙するのではなく先のことに基づいてしかモノゴトを判断しなくなる。それは、目の前のことをおろそかにして「いま・ここ」を疎外する。それが有用性の発想なのだろう。有用性に押し込められない「過剰」が真に自由になるためのカギではないか。街をブラブラして、何かを発見したり偶然出会った人と目的のない会話を楽しむ。何か目的があるから話をするのではなくて、ただ話すことだけを目的とする。目の前に現れた現実や予想外のことを楽しもうという姿勢をもつ。目の前のことに自分なりに関わろうとすると、有用性の枠からあふれた非日常が立ち現われ「祭り」となる。「いま・ここ」の哲学なのだと言いたい。

 

 

【参考文献】

國分功一郎、2020、『はじめてのスピノザ講談社現代新書 

 

しょぼい一揆:路上でできる一人アピール

 

 

 2021年2月11日に京都の路上でひとり一揆をやった。生存権を求めるアピールだった。一律給付金の支給と生活保護制度の改善(扶養照会の条件緩和)などをホワイトボードに書いて、通行人に見せていた。同じことは年始から数回した。途中、友人がチューハイ片手に遊びに来てくれた(西成によく出かけて面白い人と絡んだり、引きこもりの事情や貧困問題について詳しい)。その友人とダラダラ話していたら、通りかかったフォトライターの方と話した後に写真をとってもらい、ブログで紹介された。いきなりモデルになってしまった。通りすがりの酔っ払いのおっちゃんから大した理由もなくお小遣いをもらったりもした(カオスや)。さらに、アナーキー生活保護利用者のおっちゃんが通りかかって、生活保護利用者が置かれている状況や、働かない生き方の心構え(笑)について話を聞いた。このように、ひとり一揆をやったら、モデルにもなれて、お小遣いももらえて、アナーキーなおっちゃんとも知り合えて、一挙四得となった!

 

 路上を一時的な〈コモン〉 として、みんなに開かれた対話型アジールにできる可能性を示唆したい。これにより、固定された場所や同一の人間関係でない遊動的な居場所として、権力が生じにくい人との関わり合いをつくれないだろうか。

 

 今までも、街でブラブラしてるおっちゃんと話になって、変な話やケシカラン話をして楽しんでいた。今回のように生存権のアピールをして、話しかけてくれた人と生存権のことや社会問題について対話するのも心地いいなと感じた。対話もケシカラン話も両方好きです。

 

 

【目次】

 

 

1.フォトライターの方に写真を撮られてモデルデビューした

 

 路上アピールをしながら友人とダラダラ話をしていたら、通りかかった人が話かけてくれた。コロナにおける生活保障について話をしていて、生活保護については、保護費をもっと上げるべきだと語った。そうしないと、保護を利用しても生活が困窮したままになる。利用しにくいのは保護制度に不備がありすぎるからだという話をした。また、「首相が「最後に生活保護がある」と言ったのだから、役所に行ったら「首相が生活保護を取れと言ったから、取らせてください」と窓口で言ったらいい」と話して、みんなで「それ、いいですね〜」と言い合った。首相がお墨付きを与えたのだから、みんな堂々と生活保護を申請しよう。また、森喜朗の問題について、「今までの政治への怒りが爆発して、森喜朗を追い込んだ。性差別発言をする偉い人をちゃんと退陣させることができたのは、ジェンダー平等にとって大きなことではないか」と話した。話を終えた後、フォトグラファーであり街で出会った人を写真に撮ってブログで紹介しているとのこと。わたしについても写真で撮ってもらった。女装してからモデルをやってみたいなと思っていたが、路上でいきなりモデルデビューを果たしてしまった。立派なカメラに撮られるのは初めてで、これでも緊張しましたのよ。

 

 

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撮影してもらった写真(モデルデビュー作)

 

 

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みかんで話のきっかけつくり

 

 

2.酔っ払いのおっちゃんにお小遣いをもらった

 

 先のフォトライターの人が去った後、通りがかりのおっちゃんが「お前かわいいの〜」といきなり言ってきて、財布から1000円を取り出して手渡した。おっちゃんは顔を赤くしてめっちゃ酔っ払っていて機嫌がよかった。生存権のアピールをしていると言ったのだけど、それには反応してなくて、とにかくわたしの格好がお気に入りだったみたいだ。何か容姿をいじられそうだったので、先手をとっておっちゃんにありがとうと言って抱きついたら、ウワーと驚かれササッっと離れていった。女装して見た目のジェンダーをズラして、見てくれを「変わった人」にしていると、物好きや変わった人が話しかけてくる。男性的な格好でゴツゴツした感じよりも、女性ジェンダーをちょっとチラつかせてソフトな感じにした方が、人が接しやすくなると思う。「変わった人」になってスキをつくることで、街の知らない人と話すきっかけがつくりやすいと思う。まさか、お小遣いをもらえるとは。美人は得することもあるよね〜。笑

 

 

3.アナーキーなおっちゃんから生活保護の実情と、脱労働のススメを聞いた

 

 その後、自転車で通りがかったおっちゃんから生活保護についていろいろ話をしてもらった。おっちゃんは生活保護を利用して暮らしている。生活保護利用者が置かれている問題として、消費税が上がったにも関わらず、保護費が削減されているため生活が逼迫していると言われた。消費増税対策はおこなわれたが、それらは生活保護利用者には適用されないという問題を聞かせてもらった。おっちゃんは、年金生活者支援給付金が支給されても、収入認定されてしまい役所に没収されるそうだ。これはおかしいと役所に訴えていて、役所の対応次第では裁判をしたいとも語っていた。

 

 この問題については、みわよしこさんの『生活保護のリアル』に記事を見つけたので抜粋しておく。

 

 消費増税の前に、値上がりが生活を圧迫している。しかし、食料品には軽減税率がある。低所得層には「プレミアム商品券」、年金生活者には「年金生活者支援給付金」がある。クレジットカード利用者には、ポイント還元もある。 

 

 政府が準備している対策は、消費増税そのものや便乗値上げに対して、十分な手当てにはならないかもしれない。しかし一般低所得層の人々は、それらを並べて「まあ、これで、なんとかしなくては」と考えることができる。 

 

 生活保護で暮らす人々には、そのすべてが無縁だ。もしも、225000の商品券が入できる「プレミアム商品券」を入したら、差5000が召し上げられる。年金生活者支援付金を得たら、その分が生活保護費から減額される。クレジットカードの使用は禁止されているため、ポイント還元の恩恵もない。

 

 理由は、生活保護費が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しており、生活保護で暮らす以上、その「最低限度」の範囲で生活することが求められていることにある。

 

 

(引用記事のリンク、4-5ページ面)

diamond.jp

 

 

 また、生活保護利用者の生活は厳しくなっているが、その窮状について声が上げにくくなっているという。片山さつき橋本徹などの政治家や有力者が生活保護バッシングをしたため、生活保護に対するスティグマが強まり、利用者をより肩身の狭い立場に追いやっているという。このように生活保護利用者は政治により無力化され、現代社会の「いけにえ」にさせられていると語った。生活保護では芸術や文化が楽しみにくいという。文化は高所得層だけが楽しめばいいものではなく、庶民や貧しい人もある程度楽しめるものでないと文化として成り立たない。多くの人が消費活動や文化的な楽しみができてこそ文化や経済が活発になり社会が成り立つと語った。資本主義は完全な競争とすると社会が壊れてしまう。低賃金で過重労働させていると労働者の再生産はできず、貧困層を増やすと消費活動が停滞して資本主義が成り立たなくなる。資本主義は再分配を通してしか維持できないとするピケティの考えが頭を巡った。

 

 「ぼく、引きこもり気味であまり働けないんだけど、将来は生活保護を考えています」とおっちゃんに言うと、「それでいい。働かなくても、堂々と生きたらいい」と答えてくれた。おっちゃんもゆるく生きたい志向で脱労働を勧めていた。働かなくてもブラブラ遊んでいたらいいと語った。アナーキーだ。若い頃からゆるく生きたくて、働いてみたり失業保険で暮らしたり、タイで10年くらいブラブラして、最後のシメで生活保護を取ったそうだ。あまり働かずゆるく生きてる人と出会って話を聞けるのは大変心強い。今度、おっちゃんのところに遊びに行かせてもらう予定です。

 

 

4.匿名の存在として「対面」することで自由な対話空間が現れる

 

 このように、路上でひとり一揆をしてたら予期せぬことが起こった。生存権についてアピールしていると、思わぬ人と出会って対話ができたり、意外なことが起こって非日常空間が立ち現れる。一揆は「祭り」なのだ。わたしは、生存権のアピールそのものよりも、路上で何かしらアクションをすることで意外なことが起こるのを楽しみにしている。スピンアウトによって予定調和でないことを楽しむ。思わぬ出会いを楽しむ。レヴィナスは、他者とは無限の可能性なのだと言っていたそうだど、自分の広がりは他者によって可能になる事が多い。「個」の自己完結の孤独を破るのが他者の存在だ。時には見知らぬ他者の中に自分を投げ出していくことも大切だと思う。路上には無数の他者がいる。路上は宇宙なのだ。

 

 たくさん人がいる集会などは街の通りがかりの人も近寄りにくいけど、一人や少数でだらだらしながらアピールをしていたら街の人が話しかけやすくなる。声を荒げたり左翼用語を連発して威嚇するようなアピールをしていると人も近づきにくいだろう。マスでなくて個として市民と向かい合うなら、交流や対話もしやすくなるとも思う。目の前の個人に開かれている姿勢を見せることも大切だろう。

 

 今日は街で知らない人と生存権のことを話し合ったけど、対話の可能性について思ったこととして、立場の弱い側に対して聞く耳をもつこと、他者に対して開かれていることは前提となるだろう。相手にこちらの話が聞かれる余地があると感じた時、対話の可能性は生まれる。相手が「顔」として現れるのではなく、「壁」となると対話はできなくなる。路上での出会いは、世間や共同体から離れた「無縁」という立場の人にはピッタリだ。固定された集団ではなく、その場その場の出会いに重きを置き、「いま・ここ」を生きる実践になる。一期一会の出会いで生温かい思い出を積み重ねる人生もいい。しがらみから離れると人は思っている事を言いやすくなる。しがらみの中にいると、わたし自身が語るのではなく、しがらみの論理でしか語ることができなくなる。しがらみを離れ匿名の存在になることで、一人称の「わたし」が語り出すことができる。人は世間の立場を離れた「無縁」な存在になることで自由になれる。人は匿名の存在になってこそ言いたいことを言うことができ、対話をも可能にする。路上で出会う人は、みな一時的に平等に接することができる。立場や階級を離れた「対面」に可能性を感じる。

 

 奇跡はいずれ起こるだろうか。しかし、奇跡は何気ない小さな非日常やズレの集積の上で起こる。完全なる偶然はなく、常に偶然は何かの結果である。だから、しょぼいわたしたちにできることはズレる実践の反復のみなのだろう。

 

※今後は、路上での見知らぬ人との「対面」について考察していきたい。

 

Youtube】 


ひとり一揆(2/11)

 

 

【以前やった路上での活動】

 

 コロナ以前に引きこもりへの生存権保障(社会保障の個人単位化)についてビラ配りを何回かした。新聞記者の方や、引きこもりの甥をもつ人と話をして問題を説明できた。そこでも対話ができた。

 

note.com

 

 

【過去の関連記事】

 街や公園にいる緩そうなおっちゃんに声をかけて話ができることがよくある。西成ではよく見ず知らずのおっちゃんと話をする。いきなりギャグを言ったりアカン話をする変わったおっちゃんが多い。変わったおっちゃんとの出会いで心が軽くなる。超絶である。生きづらい人は変わったおっちゃんに出会って頭のネジを緩めていくのがいいと思う。

 

◉ 意識的にスピンアウトすることで非日常をつくる

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 主流の価値から反転したアジールについて

nagne929.hatenablog.com

 

nagne929.hatenablog.com

 

◉ 「無縁」という匿名の存在になることについて 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 聞く姿勢をもち双方に変化をもたらすような対話がエンパワーにつながる 

nagne929.hatenablog.com

 

4コマ劇場(8)

経験した出来事を4コマにしました。いろんな人に会ってエンパワーされたい。36〜40作目です。

 

【題目】

 

 

◉ 貧乏人の生き方

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◉ ドヤの風呂

 

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◉ パンツ事件

 

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◉ ラムネ?

 

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◉ ウィッグ

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能力主義を問う(2)

 

 能力主義が強調されると社会の不公正が問いにくくなる問題を指摘する。新自由主義の競争主義によって、貧困に陥るのは能力がないからだという語りがなされやすい。この発想からは、貧困化しないためには個人の能力をつけさせようという能力主義的な解決が目指されやすい。しかし、貧困は構造的な差別が生み出しており、能力主義が強調されることでかえって差別の問題が問いにくくなる。貧困問題は再分配の問題であるが、能力の問題にすり替えられてしまっている。また、「能力」のつけやすさにも格差があり、社会的弱者やマイノリティほど構造的差別で不利になることを指摘する。

 

 

【目次】

 

 

1.能力主義が社会の不公正を問いにくくする

 

 新自由主義では市場原理が強調され、貧困に陥るのはその人に市場価値が無いからだと能力の問題とされやすい。しかし、能力をつけろと言われても、能力をつけても最低賃金を上げなくては安く買い叩かれるままとなる。低すぎる最低賃金こそ企業が労働者を安く雇うことを正当化しているからだ(非正規は昇給すらしない所が多い)。賃金があまりにも安いことや、生存保障が不十分であるために貧困が生じている構造的問題が、能力主義を持ち出されることで問えなくなっている。最低賃金の低さを指摘せず能力主義だけ煽るのは、資本の搾取を正当化するロジックにはまることになる。

 

 新自由主義により能力主義が都合よく本質化されている問題がある。以前も指摘した通り、最低賃金が低すぎるのはジェンダー差別に起因する。女性は男性に養われるから賃金が安くてもいいという発想が、最低賃金を低く押さえているのである。最低賃金が低いことや生存権保障がないことは、個人の能力の問題ではなく家族主義に基づくジェンダー差別の問題である。つまり、差別が貧困を生んでいる。能力主義が貧困の本質的原因とすると差別構造が問えなくなる資本のトリックがある。ジェンダー差別の問題を個人の能力の問題にすり替えて、自己責任化するのが新自由主義で浸透している能力神話である。

 

 LGBTQ、外国人といったマイノリティ属性にいる人たちは、スティグマや制度によって不利になっている。そのため、主流社会でうまくやっていくには不利な立場を押し返す労力が求められる。能力や経済力のあるマイノリティは社会の表舞台に立ちやすいが、それは、必ずしもマイノリティ属性そのものの地位が上がったわけではなく、能力や経済力が評価される状態にとどまる事もある。マイノリティのもつハンディを能力や経済力で代替する能力主義的な発想の差別解消に向かいやすくもなる。つまり、能力主義によって差別構造がうやむやにされやすくなるやっかいな問題がある。

 

 

 

※このブログで何度も繰り返して言っていてしつこいのが、貧困問題は家族単位のシステムが生んでおり、貧困問題の解消には個人単位のシステムにすることが前提である。

 

【当該記事】

  

nagne929.hatenablog.com

 

 

2.見かけ上の自由が差別を問いにくくする

 

 「職業選択の自由」において個人の自由が保障されているように見えるが、内実は不平等である。タテマエは大事なのだが、タテマエだけ自由であるだけでは、かえって不平等が問われにくくなる問題がある。労働者がひどい労働条件に置かれても、ひどい労働環境を選んだのは個人の選択の責任(判断ミス)とされやすい。つまり、「選択の自由」が不正を問いにくくさせている。低賃金の労働をしている人に、「能力をつけたらいい条件の仕事が見つかる」と能力主義的な解決を求めるのは、構造的な不平等を等閑視させる効果をもつ。イス取りゲームの発想では全員の生活水準はよくならず、誰かが必ず貧困に陥ることを正当化する。貧困を前提としているシステムは差別そのものだといえる。能力主義に基づく自己選択の責任という考えが、自分が能力をつけるだけの見せかけの問題解決に向かいやすく、構造的な不平等が問いにくくなる問題がある。

 

 

3.ケイパビリティの欠如が「自由な選択」を阻害している

 

 ケイパビリティが不足しているマイノリティや経済的弱者は自由な意思決定がしにくい。何かをなすための能力や経済力、人的資源が乏しいために現実的にとれる選択が限られてくる。他者との関係や状況によっては自分に不利になる行動をしなければいけない。例えば、学校に行って教育を受け、専門性を身につけて就職する方が経済的には安定しやすい。しかし、経済力に余裕がない、精神的な余裕がない、あるいは能力を活かせる場がないなどの問題で、目先の安定を優先し時給1000円くらいのバイトでしのいでくことになる。生涯年収を考えると、学歴や職務能力をつけ働くほうが圧倒的に高くなるののだが、いろいろな事情が重なり合理的な行動がとりにくくなる。これは、本人の意志や能力の問題だけではなく、ケイパビリティの問題が大きい。ケイパビリティの格差により「自由な選択」が保障されにくい現実を見ると、不本意な結果に対して本人がすべて甘受すべきという自己責任論は成立しなくなる。

 

 社会的な立場が強く選択肢が多い人は「自由な選択」がしやすいが、弱い立場の人には「自由な選択」がないという構造的な非対称性がある。この構造的非対称性が等閑視されたまま、リベラリズム的発想による「自由な選択」が強調されると、選択と決定において不利なマイノリティの脆弱性に目が届かなくなる。「自由な選択」による結果責任は、構造的な差別とリソースの偏り(格差)が是正されない段階では、本人に全的に帰すことはできない。

 

4.主流秩序の価値体系が最適行動をとれなくさせている

 

 また、主流の価値観や世間からの目線を気にして、自分の意志とは異なる行動をとり、結果自分をさらに不利にしてしまうこともある。あるいは、主流秩序の価値を内面化してしまい、能力主義的な行動をとることでかえって状況を悪化させることがある。あるシンポジウムで困窮者支援に携わる人の話を聞いたのだが、路上生活者が体を悪くしても「医療にかかるのは恥」という自己責任論をもっていると、支援者がすすめても医療機関に行かずにさらに体を悪化させてしまうこともあるという。自助神話は自助に結びつかない弊害がある。

 

 困窮したり自由が奪われると、次第に自分の欲望が分からなくなっていく。そうすると、自分の意志を持ちにくくなり、判断・決定する能力も衰えていく。このため、被抑圧者(=マイノリティ)ほどマジョリティの意思決定に振り回されやすくなる。生存権が保障されていないことで、マイノリティの主体性が奪われていく。社会的弱者は物質的なリソースが不足しているため取れる選択が限られていることと(物質的欠乏)、主流の考え方に抑圧され自分の欲望に従った行動が取りにくい(精神的支配)という二重の差別を受けている。経済力や能力の問題だけでなく、弱者を低い位置に留めおこうとする主流秩序の価値体系そのものも突いていかなければならない。

 

 

◆◇◆関連記事◆◇◆

① 意志の力だけではうまくいかない事について

 近代合理主義の発想により自己責任論が正当化されがちであるが、人は必ずしも自由な意志と自己決定で能力形成ができるわけでないことを指摘した。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

② 社会的弱者やマイノリティが這い上がれない構造的問題について

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しょぼい権力論

 

 

「少しは権力欲しいよね・・」

 

 前に、孤立気味にある友人と話をしていて、「権力が全く無いのもキツイよね。権力100はよくないけど、権力30くらいは欲しいよね」という話をしていた。この話から考えたことを書いてみたい。

 

【目次】

 

 

1.人は権力の行使を通して社会と関係できる

 

 権力という言葉は、力をもつ覇権的な人が振りかざすものだというネガティブなイメージが強いので使いにくいが、人は生きる中で常にすでに誰かに権力を行使していて、逆に権力を行使されている。そして、人は権力を行使することでしか社会と関わることができない。権力そのものだけが問題なのではなく、権力が誰かに偏りすぎて別の誰かの権力を奪いすぎることが問題なのだと見ている。これを前提とすると、他者に対する一方的な支配や暴力とならないかたちで、やんわりと権力を行使して他者に影響を及ぼせる状態にあることが「生きづらさ」の緩和になるのだと考える。自分の言葉や行為に対して何らかの反応があったり、誰かの心に何らかの影響を与えられた感触を得られることで自分の存在を感じることができる。自己効力感である。

 

 言葉を発すことは他者に対する働きかけだという(オースティンの言語行為論など)。発話は自己や他者を変えるためになされる。発話だけでなく何らかのパフォーマンスも相手にメッセージを投げかけて変化を求める。相手に対する要求から、自分を理解してほしい、評価してもらいたい、共感してほしい、相手を笑わせたいなどの思惑があり、自分が相手を変化させることを求める。こういった、他者を変化させようとする行為は権力の行使といえる。直接的な暴力や暴言による他者への命令ではなく、やんわりと言葉や行為によって「他者の行為に対する働きかけ」(フーコー)をおこなうことも権力の行使となる。

 

 

2.権力を行使できてこそ他者に応答できる

 

 人はうまく言葉を発することができないと不全感をもちやすい。これは、國分・熊谷(2020)による責任(レスポンシビリティ)と応答(レスポンス)に関する話から得た視点です。

 

応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりの仕方でというところが大切であって、決まり切った自動的な返事しかできないのならば、その返事は応答ではなく反応になってしまう。哲学者アーレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えた。

 

國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究新曜社、p.4-5)

 

 

 自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく対応できないとき、人は苦しさを感じる。他者が自分の言葉に対して通りいっぺんの当たりさわりのない言葉や、常識に基づいたことしか返してこないのであれば、自分に向き合ってないのだなと疎外された気持ちになることがある。逆に、他者の言葉に対して自分が返す言葉をもたない時は歯がゆい気持ちになる。うまく応答ができないことがもどかしさになる。応答できないというのは他者に働きかけができない状態であり、権力がうまく行使できないというモヤモヤした状況になる。社会や他者に対して自分なりのやり方で応答できないことで、社会でポジショニングできなくなる。応答を通して、自分なりのやり方で権力を行使できることで人は社会に自分の存在を示すことができる。

 

  

3.「依存先を増やす」とは「権力の行使先を分散させること」

 

 人が社会的な存在であると実感を得られるのは、他者との関わりにおいて影響を受けたり、影響を与えたりすることにあるだろう。つまり、贈答関係をもてると人はエンパワーされる。精神医療の領域では、よく患者を「かよわい当事者」として社会や他者に従属するだけの構造的弱者の立場に追いやろうとする。パターナリズムによる包摂的対応なのだろう。しかし、本人の主体性が尊重され他人と関わることでエンパワーになり回復していく場合が多い。人から権力を消し去る無力化や無害化をするのではなく、他者からほどほどに権力を行使され、自分は複数の他者に権力を分散して行使できるような形で、精神的に健全になるのだと思う。

 

 しんどさを抱えた人がいるとしよう。そういう人は、甘えたことを言ったりしょうもない事をしてしまうのかもしれない。しかし、その人は甘えられる関係やしょうもない事ができる場が不足しているのだと思う。世間ではしっかりしたように見える人も、実は見えない所で誰かに甘えたりしょうもない事をしている。その人に甘えの心があることが問題なのではなく、甘えられる場が不足していることが問題である。甘えられる人や場が少ないと、他の何かで埋め合わせることになる。特定の誰かに甘えが集中すると支配や共依存になり、自傷行為、アルコールやギャンブルなどの依存症にもつながる機序が生まれる。広くゆるく甘えられる状況でこそ人は健全になる。これも、誰かに甘える=誰かからケアや笑いを引き出すという権力の行使と見れる。ただ、このケアは女性や立場の弱い人にかかりやすいという問題がある。立場の強い人が一方的に誰かに権力を行使して疲れさせやすいことには自覚的になるべきだ。広く浅く誰かに依存できるのが理想であるというのはケアにおける課題なのでしょう。

 

 

※ケアにおいて気をつけるべき点は、以前に記事で書いたことがある。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.お金と権力

 

 お金があれば権力が得られる。逆にお金がなければ権力は得られない。困窮者はお金がないから他者から一方的に権力を行使される立場になり「自立」ができなくなる。お金がない引きこもりなどは親のお金に頼らざるをえなので、気まずい立場となる(脅して金をもらうのは問題だが)。他者の援助により得たお金は使うのに後ろめたさがある。だから、好きなものを自由に買えない。自由が制限されると、自分の欲望すらも曖昧になり活力がなくなる。自由に使えるお金があると自分の欲望を作りだすことにもなる。自分が何が欲しくて何を買いたいのか欲望をもち、持っているお金と照らし合わせ自分で選択して購買ができて「自立した消費者」となれる。資本主義ではまず消費行動ができることが前提となる。子どもに小遣いを渡すことは、消費者になるためのトレーニングとなる。引きこもりの人でも障害年金が入ったことで消費活動の幅が広がりエンパワーされた人がいる。生活保護を現物給付にしろという声も聞くが、それは生活保護の利用者を追い詰める。消費活動ができなくなるので、社会適応能力を奪うことになる。それによって、社会復帰も難しくなるだろう。また、孤立した人が手っ取り早く人と交流するには金をつかうことである。社会に居場所をつくるには、少しくらいの権力は必要となる。そのためにも最低限のお金は必要となる。

 

5.聞く姿勢の重要性

 

 相手に聞く姿勢があれば、人は自ずと自分の言葉で話し出す。拙い言葉かもしれないが、自分の話がちゃんと聞かれると分かれば躊躇なく話すこともできる。相手の言葉に対して、こちらも応答すれば、相手もさらに語り出しコミュニケーションが生まれる。発話やコミュニケーションは話者の問題ではなくて、聞く姿勢の問題であるといえる。この人は自分の話を聞く気がなさそうだし、話を聞いてもあら探しや説教をかましてくるだろうと思ったら、話す気にはならない。抑圧的な姿勢(=取り締まりの態度)をもつ人に対しては、何かしら足払いや言いくるめをされるのではないかと警戒してしまうから、自由な言葉を発しにくい。また、同じ言葉でも立場次第ではちゃんと聞かれたり聞かれなかったりする。立場の弱い人やマイノリティの声は聞かれにくい。言葉が聞かれないのは聞く側の姿勢の問題が大きいが、話す側の立場が弱い場合は、話者の言語化能力や説明能力の問題にすり替えられやすい。立場の弱い人ほど言葉の能力を一方的に求められる問題がある。言葉の武装を求めれるとしんどいのだ。繰り返すのだが、コミュニケーションが成り立つかは、個人の言葉の能力が問題ではなく、聞く姿勢の有無が問題となる。聞く姿勢とは学ぶ姿勢であろう。相手から影響を受ける余地を示すことである。そして相手の言葉を取り入れ変化する準備があることだ。はなから変化するつもりがない人に対して、話をしても手応えがなくノレンに腕押しとなる。権力が行使できないからだ。対話は相手から権力を行使されることで始まる。自分と共鳴する言葉をもつ人や、自分の言葉が聞かれそうな関係を見つけたい。人から聞き、別の人に話す。インプットとアウトプットのサイクルができる。知識や学びは貯め込むのではなく流すことで社会に循環して、それがゆっくりと社会の変化に結びつくのかもしれない。

 

「人には語る能力がないわけではない。語ることができる場を設けられれば人はおのずと語ることができる」という発想から対話の場はできるのだろう。人が語れないのではなく、構造が人を語れなくしているという指摘を前にブログで書いたので、また読んでいただきたいのです。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

6.対話のために開かれた人になる

 

 話してもこちらの言うことが響かないなと思える人には話す気になりにくい。応答をちゃんとすると互酬の原理が生じる。誰かが何かを発言する。それに対して相手が理解や関心を示して応答する。応答された方は自分の言葉が響いたと感じ嬉しく思う。さらにその反応を見た側も、自分がちゃんと応答できたことに満足感を得られる。応答による相互作用が人のエンパワーになる。対面した相手への関心が軸になる。心が通じる感覚とはこういうことなのだろう。

 

 自分が他者に影響を与えるためには、自分も他者から影響を受ける態度をもたなければいけない。そのためには、自分がどのような言葉をもっていて、どのような人であるかを開示しておき、他者に対して開かれていること。いい意味でスキがあることも大事。余裕がないと相手に対してもちゃんと応答ができないだろうから。

 

 

※わたしのツイッターやブログも、誰かに対する権力の行使だろう。「生きづらさ」の問題や生存権オルタナティブについて誰かに響かないかと願い、日々わちゃわちゃと書いている。たまに、ヒットして、いい人ともめぐり会える。誰かに権力を行使できるためにも投企(言葉の撒き散らし)をおこなう。奇跡をおこすためには、しょぼくて小さな「呼びかけ」が大切だと思う次第。