生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「変わった人」になる:しょぼい境界の攪乱

  

 J.バトラーの『ジェンダー・トラブル』をもとに、規範からズレた「変わった人」になり、「生」を拡張することを通して「自由」になっていく試みについて書いてみたい。バトラーの提示するアイデンティティの攪乱は、あらゆるマイノリティや社会的弱者が規範の縛りから抜け出す実践を後押ししてエンパワーするものになると心揺さぶられる。

 

・J.バトラー、『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社、1990=1999)

 

【目次】 

 

 

1.規範からズレることで「自立」する

 

 この社会はランク付けの発想に染まっている。学力、経済力、能力、立場、ジェンダーセクシャリティ、ルックス、コミュニケーション能力などで優劣をつける主流秩序のランク付け志向が、秩序に適合する特定の人々に特権を与え、それ以外の人々を序列下位に置き差別を正当化している。例えば、偏差値の高い大学に行き、大企業に入社し、ちゃんと金を稼いでいい相手と結婚して立派な家庭を築く標準的な生き方が主流秩序の価値体系では評価される。標準的な生き方をすることにより自己のアイデンティティを正当なものとして示すことができる。主流秩序では勝ち組や支配者を中心に価値体系が形成され、みんなが秩序の上位を目指す実践によって支えられる。主流秩序とは常に序列を巡る競争を生み出し、上位の者が下位の者を見下す差別意識をエネルギーにして成り立つ。主流秩序のランク付け発想を積極的に支持して、自分だけが他者を出し抜いて特権を得ようとする態度は差別への加担となる。主流秩序の規範が人のランク付けを正当化している。主流秩序におけるランク付けの風圧をかわすためには、支配的な価値体系に「従属」せず、秩序から外れて「自立」する実践とアジール(=解放区)が必要である。主流秩序の価値や規範からズレる実践を通して「変わった人」となることで、秩序のランク付けからスピンアウトして「自立」するとともに、秩序の価値体系そのものに小さな亀裂を入れることもできるかもしれない。

 

 

2.規範からズレた「主体」の構築

 

「行為する人」は行為のなかで、行為をつうじて、さまざまに構築されるのだ。

(バトラー、p.250)

 

 

 常識や規範からズレようと思っても、世の中なかなか認めてくれません。でも粘り強くあれやこれやズレるような実践を「反復」していくと、ズレたキャラとして段々定着していきます。これが攪乱的な「主体」の立ち上げであり、「変わった人」になっていくプロセスである。何だか言葉では切り取りがたいモヤモヤした存在として社会にフワフワしておく。「変わった人」は既存の価値体系によっては社会にポジショニングされない「無縁」の存在である。これは、脱・アイデンティティを目指す実践とも言える。その人のその人らしさ(=アイデンティティ)は行為の前にあるのではなく、むしろ行為によってそのつど立ち現れていくものだ。行為に先立って「主体」は存在せず、行為を通して「主体」(=アイデンティティ)は構築されていくのである。

 

 

他者のなかで、他者をつうじて、各人が言説によってさまざまに自己を構築していく。

(バトラー、p251)

 

 

 以上の「主体」を巡る見方に基づくと、わたしたちは、常にすでに何らかの実践を通して不断に「主体」を立ち上げていることになる。そして、この「主体」の立ち上げはわたし一人でおこなわれるのではなく、他者の言葉を「引用」し、他者との相互作用を通しておこなわれる。アイデンティティは真空地帯では立ち現れない。つまり、自己のオリジナリティ(=唯一性)とは他者の言葉の堆積物にほかならない。他者から「引用」された言葉はわたしの中に沈殿し、わたしの歴史(=アイデンティティ)となる。そして、歴史性をもったわたしは、さらに発話や実践をおこない、新たな他者の言葉を引き寄せる。「引用」の蓄積が、次の「引用」を呼び込むのだ。わたしは、「引用」を通して新たなバージョン(異本)となる。このような「反復」を通してパフォーマティブに「主体」は形成されていく。

 

 

3.「主体」の構築は賭けである

 

 人の言葉や実践には水面に一石を投じ波紋を生じさせるように他者に呼びかる作用がある。呼びかけに応じる他者との相互作用で私と他者(=世界)は更新されていく。自己の立ち上げに必要な言語資源は他者(=社会)に依存しているため、「引用」できる言語資源は限られている。しかし、「引用」の仕方次第では意味付けを組み替えられる自由があり、そこにオリジナリティ(=攪乱)の契機がある。ただ、発話や実践が行為者の意図と反する結果になることは常である。他者とは自分と規範や価値体系が異なるゆえに他者であるので、自分の考えや狙いは他者にはそのまま受け取られることを保障しない。さらに、他者の反応は場当たり的であり結果は予測できない。だから、呼びかけは常に「投企(=賭け)」となる。そして、「主体」の立ち上げは、このような自己(=行為体)と他者との応答による「反復」の結果であり、らせん状に巻き上げられてどんどんバージョンが更新されていく感覚である。わたしたちの言説実践は他者からの理解可能性をめぐる「賭け」なのだ。そして、わたしたちは言説実践という「反復」の中にすでに投げ込まれている。だから、わたしたちができることは「反復すべきかどうかということではなくて、どのように反復すべきかということである」(バトラー、p.259)。生きるというのは不確実性の中に身を投じて「賭け」をすることである。そして、予定調和でない場当たり的な出会いや経験を楽しもうという姿勢をもっていたい。意外性が攪乱のあらわれになるのだろう。

 

4.しょぼい境界の攪乱

 

 主流社会の規範に完全に従うのでもなく、完全に存在を消すわけでもない絶妙なポジションで生きたい。モヤモヤな存在として境界を攪乱させる。意識・無意識を含めて言語によって構造化されている領域は「象徴界」と呼ばれ、象徴界によって放逐される混沌たるカオスの領域は「現実界」と呼ばれる。象徴界が支配する主流秩序の言語体系は、その言語で「理解できるもの」と「理解できないもの」をしるしづけて序列づけをおこなう。理解可能なものとは主流の言説で構成されるカテゴリーである。実在はカテゴリー(=言語)を介してのみ認識の中に立ち現れる。カテゴリー以前的な「実在そのもの」にわたしたちは到達することができない。既存の価値体系(=言語)ではカテゴライズ不可なものは、実在はするがわたしたちの認知を越えた得体の知れない存在なのだ。攪乱とは既存の価値体系では理解が届くか届かないかわからない絶妙な存在になりみんなをギョッとさせることである。多数からは理解しがたいものがその実在を示しつつも、完全には理解可能にならないギリギリのところを攻めるのが境界の攪乱であり、そのようなギリギリの実践を通して、常識や規範に揺さぶりをかける。多くの人から理解しがたい「変わった人」は、その実在を示すだけで既に秩序を揺るがしている。わたしの中で境界を攪乱するとは、「象徴界」と「現実界」の狭間でユラユラしている感じだ。完全に社会から不可視化されるのはつまらないので、たまに主流社会にひょっこり顔を出して変わった事をしてみんなをアッと言わせたい。主流の言語によって体系づけられた秩序をカオスの爪で引っかいていく感じだ。秩序の価値に積極的に逆らう力技をするのではなくて、カテゴリーと非カテゴリーの境界でウロウロしてしょぼい攪乱をすることで、主流/非主流を分かつ規範(=カテゴライズ)に対するカウンターをおこなう。秩序の枠組みからフワフワ浮遊してそこにいるんだけどなんだか実体がよくわからないオバケとか妖怪みたいになればよい。

 

 

5.しょぼい女装:生まれ変わり

 

①ホモ・ソーシャルから距離をおくための女装

 

 しょぼい女装を始めたのは理由はジェンダー的な関心からだがミーハー的なノリもあった。ネットで女装している人を見て窮屈な男性性を脱いでる感じや世間から浮いてる感じがいいなと思ったり、男性的な外見があまり好きでないとか、自分の心地よい装いを実践したいという思いから始めたのだと思う。同時に、ホモ・ソーシャルの連帯から外れていこうとねらってもいた。男性が社会で生きていくにはホモソーシャルのノリを求められやすい。女性をひどくすることへの同調、競争や強さの志向、モテ度の競い合いや女性経験を自慢げに話すことなどに加担させられやすい。わたしは男性であることでホモソに加担させられたくないので、ヘッポコ女装をしてホモソの劣位にいる方がまだ気楽である。男か女なのかよく分からない変なやつと見られることで、男性ジェンダーへの同調圧力もやわらぐ。男性として特権的立場を得ることに付随して、たくましさとかしっかりした感じといった「男らしさ」も求められる。しかし、男性の規格から外れると、ホモソの中では序列下位に置かれるが、「変な人」とか「ヤバイ人」として自由度が高い振る舞いもできたりする。劣位のポジションになることで可能性が広がる。

 

 男性が「女装」をして女の要素を身にまとったら、奇異の目で見られたり性的な視線を受けるようになる。自分がしるしづけの対象になると生きるシステムが違ってくる。「眼差す立場」(=主体)から「眼差される立場」(=客体)へと転倒すると、男性として生活していると気づきにくい男性ジェンダーの抑圧性や女性ジェンダーにより被るコストについても経験的に理解がおよぶようになる。街では訳のわからない絡みをされたりスケベ目的で男性が寄ってきたりする。自分が性的なネタやターゲットにされて、男性の態度がバグったりしょうもない振る舞いをするのを見ておもしろさや驚きも感じるが、過剰なからかいの対象になることのしんどさや怖さも同時に体験する。

 

ジェンダー規範からズレる

 

 ジェンダーをズラすとシステムが変わる。これは、相手の態度が男装の時と女装の時とでは異なり、それに応じて自分の対応も変化していくためである。30代のおっさんが「かわいい」と言われるなんて想像もできなかった。「かわいい」とか「お化粧きれいね」とか言われると照れくさくなったり、調子にのってぶりっ子ポーズするのも「男性」からズレた感じを味わえて単純に楽しい。男性的装いの時にはとてもじゃないができない女性的な仕草や言葉遣いもできるようになったのは新鮮であり解放感がある。ジェンダーをズラして「男」とも「女」ともカテゴライズしにくい「変わった人」になることで、主流のジェンダー規範による抑圧から浮き出やすくなる。外見のジェンダーを変えることが、自分のアイデンティティパフォーマティブに変える足がかりになることが実感できる。たかが外見、されど外見だが、男女二元論のジェンダー表象が支配する世界ではカテゴライズは外見に規定されやすい。

 

 わたしのように化粧をしたり女性ファッションを身につけることは「女装」だと言われるが、わたしとしては女性を目指していないから、自分では「女装」とは積極的に言いにくい。「女装」に気合を入れてない。化粧もyoutubeの動画でテキトーにものまねしたくらいで全然学んでない。完璧な女性的装いを目指していないから、化粧がテキトーで落書きみたいでも気にしない(下手だとか自覚できてない・・)。誰かから化粧が下手と言われても、化粧で勝負してないから平気だ。「女装」の競争には参加しない。そういうジェンダーに基づくルッキズムからズレたしょぼい女装の位置にいるのが楽である。しかし、「男装」でもなく「女装」でもない表現がこの社会にはない。人はあらゆる要素で男性か女性かに振り分けられる。わたしは自分の格好を積極的に「女装」とは言わず「変わった格好」だと言っておきたい。こういう格好が自分の心理にフィットする。自分の落ち着けどころ(=居場所)としてのしょぼい女装である。「女装」と表現するのは仕方ないのだが、「女装」と言う根拠を「化粧しているから」と言いがちなのもジェンダー・バイアスなんだという認識も自覚しておきたいところではある。 

 

ジェンダーをチャラチャラさせる

 

ジェンダーは男女の社会的な性差である。ということは、社会のなかに「男」と「女」がいるということである。それはどういうことか?それは、社会のなかに「男」と「女」以外の者はいないということであり、人はかならず「男」か「女」かのどちらか一方であるということだ。したがって「男」でもなく、「女」でもない「中途半端な」人間は、ジェンダー規範のなかでは存在することができない。「気味が悪い」とか「異常」だとみなされる。ある側面をとれば「男」であり、べつの側面では「女」であり、さらにべつの側面では「男」であり……といった混雑的な人間は(しかしすべての人間はこの混雑性を有しているのだが)、ともかくもその混雑性に蓋をして、どちらかのジェンダーに――ジェンダーは生物学的な性であるセックスのうえに構築されるものなので、セックスによって――強制的に振り分けられていく。

 

竹村和子、2000、『フェミニズム』、岩波書店、p.21)

 

  

  人は「男」であるか「女」であるかジェンダー的存在として振り分けられないと社会的存在としてポジショニングされない。ジェンダー二分法に支配されつつも、既存の二分法の規範からはみ出そうとしたりズレる実践の反復により、ジェンダーの境界をモヤモヤさせて、ジェンダー認知のパターンを増殖していく試みが攪乱の契機となりうる。竹村さんの書いたとおり、「男」とか「女」とかにカッチリはまっている人がそもそもいないのだ。「男」と「女」という幻想がまずあり、わたしたちはそれに従って「男」か「女」かのどちらかのカテゴリーにカッチリはまろうという実践をしているにすぎない。そのような実践がジェンダーを再生産する。ジェンダーをチャラチャラさせると「変なやつ」と見られるから、主流社会ではジェンダーを浮つかせることはできない。しかし、ジェンダーが構築物である以上、人のジェンダーはチャラチャラするものだし、チャラチャラしてよいのだ。チャラチャラさせてくれない硬直したジェンダー・システムのあり方のほうがおかしいのだ。「生物学的に男性とされた人は男性らしくしなさい」という社会のジェンダー規範の圧力に逆らっていく行為は、ジェンダー規範をかき乱している。わたしは自分の身体(=生物学での「男性」)とは逆のジェンダー表現である女性的な要素を取り入れて、「かわいい」と言われてチヤホヤされたり、キモいと言われたり、ヤバイ人として避けられたりしているのだ。わたしみたいなおっさんが、そんな感じでジェンダー・バイアスを逆手にとって何だか得体の知れない「変わった人」として社会にフラフラしておくのも、ジェンダーの攪乱にもなるだろう。

 

 

 6.イタイ人になる

 

 「生きづらさ」を抱える人が、その「生きづらさ」を強いる規範から解放されるための戦略が攪乱となる。「変わった人」になるのは生き延びの作法でもある。抑圧されてきた人は世間でいうところの「ちゃんとした人」を実践している人が多いと思う。それが、「生きづらさ」となっている。人は自分の欲望よりも「立場」を基準に行動している。しっかりしなきゃとか思わない方がいいのです。年齢とかジェンダーとか社会的地位を気にして世間から期待される振る舞いをするのではなく、自分の欲望に忠実になり思い切って恥ずかしいことでも堂々とやった方が「回復」していくと思う。欲望を無意識の中に抑圧しようとするとこじらせの原因となる。フロイトの臨床の話でもあるが、無意識の中に自分の欲望を封じ込めようとすると、いろいろな精神的な不調やしんどさとして現出するという。欲望を抑え込んで対処するよりも、むしろ欲望を安全に実行できる空間を探すのがよいのだろう。若いうちにキャピキャピした事やヤンチャな事をしたい欲望を抑圧したまま地味な人生を送ると歳をとってから不全感でしんどくなると思う。そして、「もう30歳でいい歳だから、変わったことはやめておこう」とまた自分の欲望を抑圧するとずっとしんどい状態は続く。40歳になるといよいよ、「ああ、30歳でやりたいことやっとけばよかったな」と引きずると思う。だから、変わった事や恥ずかしい事は今のうちにやっといた方がいい。それで失敗したりやらかしても後々ネタや武勇伝として笑いの種になるので大丈夫である(多分)。わたしは今、20代前半くらいのちょいギャルの気分になっています。「生まれ変わり」を実践している。わたしはイタイ人になることでわたしの欲望を実践したい。

 

 

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↑わたしです。しょぼいギャルを実践しとる。ギャルサーのメンバー募集してます。みんなで路上で集まりたい。

 

4コマ劇場(6)

4コマ劇場の26〜30作目です。 

 

【題目】

 

 

◉ 立ち飲み屋のおっちゃん

 

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◉ あんた男?

 

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◉ いつもの三角公園

 

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◉ おっちゃんの矛盾

 

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◉ 過激派のおっちゃん

 

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アジール(=避難所)とは

 

【目次】

 

 

1.「生きづらさ」の緩和に必要な3つのこと

 

 貧困や生きづらさを緩和するために必要なこととして、【①生存権保障【②尊重原理(=差別されない空間)】はよく言われることである。この二つは欠かせない原則である。そして、わたしはさらに一部の人には【③超絶経験】が必要であると思っている。これが、以下でいうアジール(=避難所)になりうる。

 

 

生存権保障について

 

 家族単位から個人単位へと社会保障システムをつくりかえる。すべての人に保障が行き渡るようにする。これは前に書いた記事でお願いします。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

・尊重原理に基づく居場所

 

 居場所はそこに参加する人全員が安心して居られる空間にならないといけない。居場所では尊重原理に基づき否定や差別がなされないことが重要となる。属性や立場で人をからかったりネタにしてはいけない。自分が言いたくないことは言わなくてよいことが尊重されるべきで、他者のプライバシーを聞きすぎるのも慎重にならないといけない。男性がよくやりがちな性的ネタを言ってウケをねらうようなロッカールーム・トークにならないように気をつけなければいけない。なので、当たり障りのない会話が中心となる。コミュニケーションも対話が重視され、他者への応答や言葉選びに慎重にならないといけない。居場所は誰もが羽を休めることができる場として位置づけるべきだろう。

 

 

2.アジールとはアカン事が言える空間

 

 しかし、居場所だけでは物足りない人もいる。安全に気をつかいすぎると、トンデモナイ事が言えないので不全感を抱える人もいるだろう。人が安全でいられる潔癖な空間だけでなく、カオスで少しヤバそうな空間で超絶経験をしてエンパワーされる人もいる。自由になるためには、失敗ややらかしができる事が必要だ。さらに重要なのは、失敗ややらかし経験を堂々と言える場である。そういう場がアジールになりうる。アジールとは「アカン事を堂々と言える場」だ。アカン事を言えてアカン者同士で連帯をつくれる場である。

 

自助グループなど

 

 アルコール依存症自助グループは、酒でやらかした事やトンデモナイ経験を言える場である。一般社会で言うとドン引きされて疎んじられるような事が言いやすい場である。つまり、主流社会の価値に逆らうようなことも否定されない場だ。むしろ、やらかした経験が共感や笑いを呼び、エンパワーされると「回復」の助けになる。ある種の非日常である。

 

・西成マジック

 

 わたしは西成によく遊びに行くのだが、西成では一般社会では言えないようなトンデモナイことを言う人がいたりする。アカンことをしてくる人もいる。ガチでヤバイことをされたらキツイのだが多少のことは笑えて楽しい。おっちゃんと話していると、こんなトンデモナイ経験している人がいるのかと驚いて超絶経験となった。

 

 ある日、西成の三角公園でベンチに座っていると一人のおっちゃんがトボトボ歩いてきたので声をかけてみた。おっちゃんはいきなり「110円がなくて酒が買えへん」とわたしに言ってきた。生活保護で暮らしているが保護費を使い果たして酒が買えないと嘆いていた(飯はあったらしい)。わたしの横に座って、「110円がなくて酒が飲めない。こんな情けないことは人生で初めてや」とボソボソ話しはじめた。酒が買えないと言っていたが、朝まで酒を飲んでいたそうで酒臭かった。酔いが覚めてまた飲みたくなったそうだ。おっちゃんは酒をおごってほしかったのか、ワンカップをおごったらすごく嬉しそうになった。西成以外では知らない人に「保護費を使ってもうて酒が買えん」とはさすがに言いにくいだろう。必ずひんしゅくを買うし、ケシカラン奴だと言われ怒られる。西成だから安心して言えるのだろう。

 

 早朝の西成の公園で出会ったおっちゃんは、自己紹介で「あっちで野宿してるわ。わしは万引きでは捕まったことがないけど、人を殴って3回捕まってもうたわ」といきなり言われた。いろいろ違法なことをしてた事もユーモアたっぷりに聞かせてもらった。また、朝の闇市(ドロボウ市)では、路上で古本を売っていたおっちゃんから、昔のワンルーム貧乏生活の話を聞きながら神田川かぐや姫を一緒に歌った。周りは廃棄弁当眠剤を売ってる空間でそれが超絶的なテンション(=変性意識状態)をもたらしたのかもしれない。主流社会ではアカンとされている事が西成では大目に見られる。やはり人情だろう。西成マジックとでも言うべきだ。一般社会ではアカンとされることがむしろ笑いのタネとなる。そういった「反転の弁証法」が作用する空間でこそ、オルタナティブな非日常の超絶を感じられる。

  

・型にはまったコミュニケーションをしなくてもいい空間

 

 西成を歩いていたら、いきなりおっちゃんが話しかけてくることがよくある。タカリの人もいたが、脈絡ない話をいきなり吹っかけてくる人が多い。「兄ちゃん、このコロナはたたりなんやぞ!」と話しかけてきたり、「今から警察行くけど一緒に来るか?」と言われたりする。普通は、知らない相手と話すには相手との接点を探るべく当たり障りない話から始める。会話も相手とのキャッチボールを成り立たせようとする。でも、西成のおっちゃんは文脈を意識せずに話したいことをぶつけて相手との会話状態をつくる。言いたいことを言ったれという感じだ。こういうのは、生産性の論理からズレたコミュニケーションのあり方なんだなと思える。そういう、型にはまらない会話こそ他者とのコミュニケーションのハードルを低くする。

 

・一緒にアジールをつくれるのが友だち

 

 友だちとは、一般社会では言えない事を言えたりアカン事をできる仲のことだ。一緒にアジールをつくれる間柄だ。主流秩序から外れたことを一緒にできる人が仲間だ。ただ、傍観者としてじっと鑑賞してるだけだったり、困った時やヤバイ時に知らんふりするような人は仲間とは言えない。この人の人生になら巻き込まれてもいいと思えるような人が仲間である。

 

アジールとは「無縁」でいられる場所

 

 アジールというのは、何らかのキッチリした組織とか連合の中ではできないのではないか。公式化されると「健全さ」が重視され、ヤバイ部分が刈り取られ当たり障りない空間になってしまう。社会的な枠組みから外れたモヤモヤした隙間の中にこそアジールはできるのだと思う。公式化された象徴界の中では存在できない。場所や人が固定されない遊動的なものだ。河原でブラブラしている人、商店街の隅にいる人、場末のスナックなどの日常空間の中にある「隙間」に偶発的にアジールはできるのかもしれない。匿名の他者として「無縁」の存在で人と関係できる場がアジールとなるのだろう。

 

・ヤバイ人になる

 

 弱者やマイノリティほど主流秩序を乱さない無害な存在として「ええ子ちゃん」でいる事を求められる。規律に従わされ、社会からのお情けで生かされる弱者として無力化させられる。秩序に「従属」させられ「自立」ができない。この規律化へのカウンターは秩序を乱すようなヤバイ当事者になることである。素行の悪い暴れる存在になって世間を怒らせる。世間が抑え込もうとすることに反発したり、時にかわしたりすることでエンパワーされることができる。このように、支配の圧力からの「自立」を試みて、精神的なアジールをつくることによっても「生きづらさ」は緩和されるのかもしれない。

4コマ劇場(5)

経験したことや聞いたことを4コマにしています。変わった人との出会いを楽しむ。21〜25作目です。

 

【題目】

 

 

◉ 青春ですね〜

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◉ ウソつきのおっちゃん

 

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◉ GOTO 西成警察署

 

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◉ バクダン!

 

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◉ おっちゃん撃退

 

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男性の「生きづらさ」は女性差別に由来する

 

 11/19は国際男性デーということで、思うところをTwitterでツイートしてみた。そうしたら、ツイート内容が気に食わない人がたくさんいたようで引用RTで、「男性の「生きづらさ」は女性による男性差別があるからだ」、「女性の加害性を指摘しろ」、という反応がちょこちょこあった。これがいわゆるミソジニーである。これを材料に男性の「生きづらさ」は女性差別に由来していて、男性の解放は女性差別の解消によってしか実現しないことを書いてみたい。

 

 

 

【目次】

 

 

1.「男らしさ」と「女らしさ」はフラットに扱えない

 

 男女が非対称のジェンダー体制における「男」と「女」というカテゴリーは、単なる《二つの差異》であるだけでなく、それらが階層的に序列づけられて《一つの差別》となっている。「男」とされるカテゴリーが優位性をもつためには、「女」とされるカテゴリーを有徴化し劣位に置くことによって可能となる。

 

「男」は「男」ではない存在を作りだすことによってのみ――つまり「女」というもうひとつのカテゴリーを作りだすことによってのみ――みずからのカテゴリーを保持することができる

 

竹村和子、2000、『フェミニズム岩波書店、pp.19-20)

 

 

 ジェンダー化とは、「女」のカテゴリーに特殊性や他者性をもたせることで劣位におくことであり、それによって「男」が「普遍的な人間主体」として君臨できる。つまり、ジェンダー体制とは「女」を性によってしるしづける記号支配のシステムのことである。このため、ジェンダー差別において「男らしさ」と「女らしさ」をフラットに扱うことはできない。この二者には階層的な非対称性がある。そのため、否定的に意味づけられた「女らしさ」の地位を回復し、「男らしさ」のもつ抑圧性を無くすことによって、「〜らしさ」に由来する息苦しさを解消できる。「女らしさ」から否定的意味付けがなくなれば、男性も「男らしさ」から外れることに恐々とせずにいられるので、男性の解放にもつながる。

 

 2.男性が経済力を求められるのは家父長制による

 

  男性が経済力をもたなければいけないという社会的圧力は家父長制(=ジェンダー差別)に由来する。男性の「生きづらさ」として、経済力を求められたり過重労働になりやすい問題がある。これは、男性が一人で家族を養うことを前提に設計されている日本型雇用システムがもたらす「生きづらさ」だ。男性は経済力を得て家長として女性や子どもの上に立つことができるが、そのコストが男性に過重労働として跳ね返る。つまり、男性はたくさん働き、たくさん稼ぐべきだとするプレッシャーは日本型雇用システムが生み出し、それを支えるのが家父長制である。日本における家父長制は、女性に多い非正規労働者の賃金が低いために、男性の正規労働者がたくさん稼がなければいけないというジェンダー構造をつくっている。非正規労働者は誰かに養われることが前提になっているから低賃金が正当化され、逆に正規労働者は家族を養うことを前提としているから高い給与を得るために過剰労働となる。このように、家族の扶養関係に基づいて設計された家族単位の労働システムが労働において男性への重圧となっている。誰かに扶養されなくても生活できるように個人単位の賃金水準となれば、男性が家族を扶養するための負担も減っていく。非正規や女性の賃金が上がれば男性にかかる経済的負担は解消されるので、一人ひとりが経済的自立できるように最低賃金を大幅に引き上げなければいけない(時給1,500円以上)。女性差別に基づく日本型雇用システムを改め、ジェンダー・フリーな労働体系にすれば男女ともにジェンダー・ロールの重圧から解放されることになる。

 

 

労働システムの個人単位化については以下を見てください。

 

nagne929.hatenablog.com

  

 

3.生殖イデオロギー脱構築

 

 「男に女をあてがえ」という主張が、「少子化解消のため」という大義を都合よく動員してなされるので、それへの対抗言説を書いておく。

 

① 生殖行為は本能によるものではない

 生殖行為は本能によるものではない。性行為は性欲(=生理的欲求)からなされるというよりも支配欲(=所有欲)からなされるという事はよく指摘されている。性行為は生理的欲求を満たすというよりも、性行為に付随するイメージを実現しようとする行為だ。ああやってこうやったらいいなという幻想を満たしたいから性行為をする。性欲を発散させるには自慰行為で十分なはずなのに、他者の身体や生殖器を通して発散させようとするのは、セックスにまつわる思い込み(=性幻想)があるためである。性行為に他者を介したいと思うのは、自分の性欲望に他者を従属させようとする支配欲求に基づく。「性行為は性欲や本能からなされる」という言説は、性行為における他者への支配欲求をカモフラージュするための物語なのである。つまり、性行為を正当化するために用いられる「愛」や「生殖」や「本能」という言葉は、性行為における支配/従属関係から生まれる暴力性を透明化するために動員される物語にすぎない。「生殖は本能によるものだ」という言説こそ性行為を正当化するための幻想なのである。

 

② 「女をあてがえ」と言いたいために少子化解消が大義として都合よく動員されている

 

 自分の欲望を満たすために他者を動員する性行為はデフォルトで暴力であると書いた。そして、他者を妊娠・出産させることもデフォルトで暴力であることを指摘しておきたい。生殖を正当化する出生主義(=子どもを生むべしという支配的な考え)は産む側に一方的に負担をかける。そして、産む側が不利益を被りやすい社会において、その社会の構造を度外視したまま産む側に結婚や出産を迫ることは差別となる。このように、生殖行為はデフォルトで暴力であるから、当事者間の合意や産む側の負担を軽減する社会システムが求められるわけである。つまり、ジェンダー・フリーを進めることに気を払わず、ただ自己の欲望を満たしたいだけのために、「少子化解消のために女性は男性と結婚しろ」とか、「女性をあてがえ」と言うことは差別への加担となる。結婚して子どもが欲しいと言うのであれば、せめて今のジェンダー構造をつくる主体(=マジョリティ)となっているシスヘテロ男性が、女性が結婚・出産しやすい体制をつくることに積極的に動くべきであろう。

 

③ 子どもの生存保障がなされるべきである

 

 「少子化解消のために女性は男性と結婚すべきだ」と言う男性には、少子化解消を大義名分にして女性を自分の支配下におきたいという欲望が透けて見える。人口が減ると経済の活力もなくなってよくないと思われがちだが、地球規模では環境破壊や資源収奪が進んでいて人口増加は好ましくない。資本主義における経済成長は労働力と資源を収奪することでしか成り立たない。ゆえに、貧困や環境破壊を根本的に解決するには脱・成長の方向しかないと指摘されている(*)。つまり、経済成長よりも富の再分配によって社会問題は解決されるしかない。現在の経済や社会保障の仕組みは右肩上りの人口増加・経済成長を前提としたもので制度疲労をおこしている。人口が増加しないと年金などの制度が維持できないと言うならば、低成長を前提とした制度へとシフトするべきである。その上で、少子化解消を言いたいならば、婚姻外の親子への差別をなくし、子どもの生存保障を整えることが近道である。むしろ、子育て支援が十分にないことで男性が多く稼がなければいけない構造になっている。男性の経済的負担を減らすには、女性や子どもの生存権が保障されるシステムにするしかない。女性の賃金が上がり生存権も保障されれば、男性に多くの経済力を求めることもなくなっていく。男性の解放は女性が「自立」しやすい社会になることで可能となる。

 

(*)斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(2020、集英社新書)より。

 

 

詳しくは以下の記事でお願いします。

 

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4.男性は「大きな問題」を話したがる

 

 内田樹さんの「引きこもりは里山に行けばいい」という提言がひどく不評だった。山村問題へのアプローチの仕方が間違っているという指摘もあるが、山村問題という大きな社会問題について何か言いたいがために、引きこもりの人をダシにしたことも批判された。引きこもりの当事者がおかれた事情を度外視して、引きこもりの人たちを「100万人の引きこもり」という束で見て、社会問題解決のために自分が動員できる資源(=モノ)として雑に扱ったことで不評を買った。このようにリベラルや左翼的だと見える人でも、安保や原発といったデッカイ社会問題には積極的に飛びつくが、生きづらい人やマイノリティには無関心であり雑に扱うことが少なくない。知識人、特に男性は政治や経済などデッカイ問題ばかり論じがちだけど、それはマッチョイズムの姿勢ではないか。大きな社会問題を論じるほど威信を示すことができる。そのような「大きさ」が「男らしさ」の標識となり、高いポジションを得やすい。逆に、社会的弱者やマイノリティに関する細やかな話題は、目立たなくて地味だから関心を寄せない。

 

 「公的なこと」が男の領域で、「私的なこと」が女の領域というジェンダー的な構造があり、男性は「公的なこと」に取り組むことで権威づけられる。逆に男性が「私的なこと」に取り組んでも、社会的に評価されにくく、いいポジションを得られない。だから、男性は大きな話題ばかりに飛びついて、ミクロな問題を見たがらない。男性は「公的な存在」になることによってしか男性としての価値を認められにくい。男性は「公的なこと」を話すべきで、「私的なこと」を話したらみっともないと思われる。だから、男性は個人的な悩みを言いにくく、それが生きづらさとなっている。細やかさが取るに足りないことだと軽んじられやすいのは、生産性の論理が支配したマッチョイズムのためだろう。男性が安心して細やかさに敏感でいられる社会になるべきである。そのため、男性がもちやすい大艦巨砲主義的な発想は改めていくべきである。

 

 

5.弱者男性問題は男性差別ではなく主流秩序による差別である

 

 いわゆる弱者男性問題というのは、男性というジェンダーだけに由来する「生きづらさ」ではなく、経済力、能力、ルックス、コミュ力など他のパラメーターによって不遇な状態になってしまう問題である。男性差別」という言葉があるが、ジェンダー構造において男性は女性よりも有利であり、男性の「生きづらさ」は他の要素に由来するところが大きい。あえて男性の「生きづらさ」をジェンダーの問題に還元したがるのは、他の要素を捨象して男性を一方的な被害者としたい発想があるためである。この発想は、「男性も生きづらいんだ」と言うことでどっちもどっち論に持ち込み、ジェンダー構造において下に置かれやすい女性の「生きづらさ」や、女性差別の問題を矮小化する方向に向かいやすい。だから、弱者男性の「生きづらさ」を語る際には、「男性差別だ」と言って女性を糾弾するのは筋違いで、主流秩序によって人のもつあらゆる要素がランク付けされる社会の偏差値主義を問うべきである。

 

 

6.非モテの問題

 

 非モテの一人として、非モテというのはしんどい人にはしんどい。非モテに対して、モテなくてもいいじゃないか、恋愛しなくてもいいじゃないかという意見はそのとおりなのだが、性愛幻想をもってしまった者は欲望を無意識の中に押し込むとこじらせやすいという問題がある。

 

 非モテというのは、異性との関係がないだけでなく、同性との関係も希薄である人が多いように見える(ここでは、シスヘテロに限る話をします)。だから、恋愛関係をつくろうと急ぐのではなくて、同性や異性に関わらず人との友好な関係をつくることをまず目指すべきなのであろう。男性は「強さ」を示すことで承認を得ようとしがちだが、「強さ」を示して人つながろうとすると競争原理に駆り立てられてしまう。競争原理では人との親密な関係には発展しにくい。男性的な「強さ」で競い合い、「強さ」で連帯をつくるやり方ではホモ・ソーシャルにも転じやすい。これでは、自分が優位になろうとするあまり他者に対して抑圧的になる。弱者男性にも、抑圧された状況から脱したいと思うだけでなく、抑圧構造の上に登り自分が支配する側に立ちたいという覇権主義的な発想をもつ人はいる。非モテの男性が「男らしさ」を獲得してホモ・ソーシャルの中で地位を高め、女性をモノにして支配したいと志向することは、ジェンダー差別への加担となってしまう。被抑圧者が抑圧者の側に立とうという発想は、自分が上に立つかわりに別の被抑圧者を生む。だから、他者を抑圧しない形の関係つくりを目指していくしかないだろう。

 

 

7.「ケアの関係」の構築

 

 男性の関係は《競争原理》に偏りがちだと述べた。これは、戦いの論理だ。だから、《尊重原理》に基づく平和的な関係をつくりにくくなる。自分が一方的に評価されて承認を得ようとばかり考えるのではなく、与え与えられる相互扶助的な「ケアの関係」を構築する必要がある。肩書き、スペック、能力といった「男らしさの鎧」でコミュニケーションをするのではなく、「鎧」の中にある自分自身を出して対話をしていくべきだ。「強さ」を見せて近づきがたい雰囲気を出すのではなく、スキをつくることで人が接しやすくする。かといって、「弱さ」ばかり見せて相手から温情を買うことをしたり、従属したいわけでもない。「強さ」も「弱さ」も積極的に志向せず、「変わった人」として規範からズレることで、誰かに対して抑圧的にならず自由度を上げるやり方をわたしはやっていきたい。

 

モテるかモテないかはよく分からないが、これらは人間関係つくりにおいて基本ではないかと思う。

 

これは、以前ブログで書いたので見て頂きたいです。

 

 

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年金は払ったら負けだ

 

【目次】

 

 

1.年金払えないし、払っても将来生きられない

 

 国民年金の保険料は月額16,540円である(令和2年度)。この額はワーキングプアーの人には重すぎる。しかも、20歳から60歳まで40年間きっちり満額収めても、月65,000円程度しかもらえない(*1)。ワーキングプアーの人は生活費を削って年金をまじめに納めても、将来の生活すら保障されない。貯金もできないし年金だけでは生活ができない。何のために年金を払わされるのだろう。

  

*1 日本年金機構によると令和2年度は国民年金の満額は65,141円だ。

  

2.そもそも年金制度は社会保障ではない

 

 年金は社会保障ではなく保険である。年金は掛け金が多いほど受給額も多くなる。金がある人がより多く金を得られる仕組みであり、富の偏りをならす再分配ではない。だから、低所得者は年金制度の恩恵を受けにくい。年金が社会保障制度だとみんなに思われているために、ちゃんとした生存保障が整備されないままだ。政府も年金制度を形だけ維持することに必死で、庶民の暮らしのことは真剣に考えてない。集められた年金はどう運営されているかもよく分からない。集められた年金は年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)という組織で株式投資に使われているらしい。知らぬ間にトンデモナイ多国籍企業に投資されている可能性もある。GPIFはたびたび大赤字を出している。コロナ下の2020年1~3月期には18兆円の最大規模の赤字を出した。払った年金がアベッチやスガッチの株遊びで蒸発してしまう。GPIFは集めた年金で130〜160兆円規模の事業体となり「世界最大の機関投資家」「クジラ」などと呼ばれる。以前は、国民の資産をリスクに晒さないという観点から国債中心の低リスクの運用をしていた。しかし、安倍政権は2014年10月に基本ポートフォリオを大幅に変更し、株式への投資を全体の半分にまで増やすことを決定した。要するに、年金が株式購入の原資となりバクチに使われるようになった。株が当たって一時的に利益を上げたとしても、何兆円規模の赤字が出るとまたたく間に泡と消える。そして、アベノミクスでは株価引き上げのために年金が利用されるようになった。日銀による公的資金とGPIFの年金で大量の株が買われた。これで株価が上がって見せかけの景気回復を演出してハッタリをかましたのがアベノミクスであった。年金は政府が株遊びをするためのお小遣いとなっているのが実態だ。

 

 *アベノミクスで年金が溶けたことについての記事

lite-ra.com

 

3.賦課方式は世代間対立をあおり、将来世代にツケを回す

 

 現行の年金制度は昭和の高度成長が続くことを前提とした仕組みだ。将来に人口が増え、GDPも右肩上がりにならないといけない。しかし、人口は微減し経済成長も見込めない。現役世代が老齢世代を支える賦課方式では今の社会に対応しきれない。現行の年金制度では将来に年金が払われるかも分からない。これでは、将来世代にツケを回す「大洪水」となる。低収入の高齢者も多いため年金だけでは対応できない。また、若年者にも低所得者が多く年金を払う余裕もない。世代間扶助の発想ではお金を取るべき人から取れず、取るべきでない人のお金を取ることになり不公正が生まれる。このやり方では、富の再分配の問題がぼやかされる。若年世代に不公平感が植え付けられることで世代間の軋轢をうみ、若者VS高齢者という安易なトロッコ論法に足をすくわれやすい。これで得するのは資本家や富裕層だけだろう。現行の年金システムは社会的公正をもたらさない。

 

・年金制度を守るために少子化対策をするのは間違っているという記事

 

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4.年金は差別的なシステムである

 

 会社員などに扶養されている配偶者は保険料0円でも年金を納めているとみなされる第3号被保険者制度も見直されるべきだ。第3号は、正規職の男性と、その男性に養われる専業主婦やパート主婦の組み合わせを標準家族として優遇している。婚姻家族を基準にした税制や年金制度は、日本型雇用(=正規職・年功制度・家族単位賃金)のもとで働き家長になる男性と、主婦化する女性というジェンダー規範を再生産している。家族単位のシステムは主婦を経済的に支えるように見せかけて、家父長制を存続させることが目指されている。今の国民年金はある程度余裕のある正規職とその配偶者(第3号)しか払うことが難しくなっている(あと、金持ちの経営者や資産家)。そして、日本で正規職に就けるのは《日本人、男性、シスヘテロ、モノアモリー、高学歴、中流、健常者》がメインとなる。年金はみんなに中立に見えるが、実際にその恩恵を受けられる層は限られているので差別的システムといえる。現行の年金制度ではマイノリティほど不利になる。だから、誰に対しても中立な無条件の生存保障が必要になる。

  

5.お金のない人は西成方式でいこう

 

 西成などで日雇い労働をして暮らしてる人は、収入がその日暮らしの水準であるため年金を払えない人や払ってない人が多い。貯金もできずに年齢を重ねる。高齢になったり病気になって働けなくなると生活保護を利用する人が多い。そもそも非正規や日雇いでは貯金もできず、年金も払えない構造となっている。今のように貧困層が貧困から抜け出せない社会では、できるところまでサバイブして、お金が尽きたら生活保護に移行する西成方式で生きるのが現実的となる。社会は将来不安をあおって人を働かせ、納税させ、年金や保険を収めさせ、貯金もさせる。将来不安をあおることで人々を資本のもとに‘包摂’する。しかし、低収入者が将来の安泰を求めてがむしゃらに頑張っても、手元にお金は残らずジリ貧でずっと生きざるを得ない構造となっている。だから、マジメに働いて将来に備えようという自己責任論の発想は問題の解決に結びつかず、きちんと生存権を求め続けることが重要になってくる。時代遅れで運用のやり方が怪しい年金制度を維持するのではなく、みんながちゃんと生存保障されるマジメな社会保障システムが作られるべきである。

即席の居場所をつくる:遊動型アジール

 

【目次】

 

 

1.居場所とは「自立」ができる空間

 

 この社会での人間関係は生産性の論理に支配されている。学校では学力やスポーツ能力、教室で上手く立ち回るスキルなどが求められる。これらの能力による序列づけがスクール・カーストとなり、学生は序列の下位にいかないように能力をつけることに必死になる。仕事では職務能力に加え、組織で上手くやる能力、コミュニケーション能力などが求められる。学校や仕事といった公的領域において評価されなければ家庭という私的領域(=親密圏)でも居場所を失う。自分の立場を失わないために生活のいたるところで自分の有用性を示さなければならず気が休まらない。社会全体が評価原理で覆われていて人の存在そのものが尊重される空間がない。人は生産性の論理に従属することでしか自分の価値を示せなくなっている。つまり、生産性の論理が支配している限り、人は「自立」ができない。

 

 「自立」というのを「支配されていない状態」と捉えたい。「自由」とも言い替えられる。「自立」の反対が、規範や評価原理に支配された「従属」の状態である。「自立」を困難にしているのは個人の能力の問題ではなく、人をある基準により序列づけようとする主流秩序の仕組みである。主流秩序では学力、地位、経済力、ルックス、モテ力、コミュ力など人のあらゆるパラメータが資本の論理で序列づけられる。ランク付けの発想が支配する社会では、人は誰かの上でいることでしか自己の価値を示すことができず、誰かを蹴落としたりディスったりすることを平気でやってしまう。

 

 資本の論理が支配する社会では人の存在が無条件には肯定されず否定されることがデフォルトになる。そのため、社会で下位に置かやすいマイノリティや経済的弱者が常に踏みつけられ自尊感情まで奪われる。その秩序のあり方を変革する試みをしつつも、その秩序の風圧から逃れられる空間も必要になる。評価原理に侵されていない空間において、はじめて人は「自立」ができる。そのようなアジール(=避難所)の重要性を提言することは可能だが実際に作り出すのは難しい。だから、居場所つくりなどが手こずっている。

 

 

2.資本の論理から離れたくて人は居場所を求める

 

 資本の論理から離れた居場所は宗教共同体が担うことが多い。アメリカや韓国など日本よりも新自由主義が強く競争が激しい社会では、キリスト教がバッファーとなっていることで社会がパンクせずに回っている。日常から離れる非日常の空間が宗教的空間となっている。そのような後ろ盾があるから日常でも戦える。逆に宗教ネットワークに属さない人は不利になりやすい。日本では村落社会が近代化によって崩れ、都市に流れた人々は寄る辺を失う。この孤立感を埋めるように創価学会などの新興宗教が発展した。また、資本主義的な価値観を否定するヤマギシ共同体なども生まれた。このように寄る辺のない人や主流秩序で疎外される人々を吸収する形で宗教共同体は成り立った。しかし、オウム真理教サリン事件が起こると日本では宗教に対して悪いイメージがもたれるようになった。金儲けや権力に走る宗教団体もある。宗教は教義を共有することで成り立つ空間であるから、必ずしも生きづらさや社会的価値を共有する場ではない。そのため、宗教によらず、生きづらさやマイノリティ属性を通した繋がりをつくることが志向されている。日本における居場所つくりの盛り上がりは宗教共同体の代替を求めるものなのかもしれない。

 

 

 しかし、当事者の居場所などでも人間関係によって問題が生じやすい。メンバーが対等な関係でいようとつとめても、能力や力関係によってだんだん関係性に傾きが生じやすい。マイノリティの中でも、さらにマイノリティの立場にある人が居場所を奪われやすい(例えば、ジェンダー/セクシャル・マイノリティの中における経済力格差やコミュ力格差など)。どのようなコミュニティも面倒な人間関係がつきものだ。主導権を握ろうとする人が現れたり、上下関係が生まれたり、陰口やいじめなど誰かを「いけにえ」にしてしまうなど(=スケープゴートの論理)。人が集まると群生論理が支配しやすい。人の価値は他者との差異により意味づけられ、その意味づけは資本の論理に支配されやすいため、人間関係は階層的な序列づけに傾きやすい。

 

 

3.遊動型アジール

 

 固定された人間関係だけで居場所をつくるだけでなく、偶然出会った人と一時を過ごして即席の居場所をつくる非日常の実践でも「生きづらさ」は低減されると思う。街で知らない人に話しかけて会話をしたり、旅やブラブラして非日常を経験するなど場当たり的なやり方である。子どもの道草を思い浮かべてほしいが、学校帰りに小川で遊んだり、小さな塀をよじ登ったり、道や空き地で何か見つけて興味を掻き立てられる経験はその場で非日常を作り出す行為といえる。既存の居場所が空間や人が固定された「定住型」とすれば、空間や人が常に変わる居場所は「遊動型」と言える。知らない人や普段会わない人とならば、損得や日常のしがらみを気にせず比較的自由でざっくばらんな会話ができたりする。知らない人とならば非日常モードをつくりやすい。このような、その場限りの非日常もアジールとなる。非日常を経験すると超絶がおこり、もとの日常に戻っても違う自分に生まれ変わっている。このような、ポイント・オブ・ノーリターンを繰り返し自己の更新をおこなう。非日常のアジールを連続させることで、資本の論理からズレた「主体」をつくり上げることができる。このように、オモテとウラの複数領域をまたがる存在となることで、オモテの世界をなりすまして生きることができる。それによって、生きづらさを低減させることができる。

 

 

4.わたしのアジールつくり

 

① 街でゆるそうな人に話しかける

 

 街でブラブラしてるおっちゃんに話しかけたら、たまに会話が続き色んな話を聞くことができて面白い。手持ち無沙汰で誰かと話したい人もいる。そういう人には話しかけたら喜ばれる。

 

* わたしの出会った変わったおっちゃんは4コマ劇場で描いてます。

 

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② 旅をして偶然の出会いを楽しむ

 

 旅をして景色を見たり名所に行くことも楽しいが、普段出会うことのない人と出会える楽しみもある。歩き旅や鉄道旅などで大きな荷物をもっていると、旅モードの非日常感が出て人から話しかけられやすくなる。旅人はその存在が非日常なのだ。旅人でなくても日常から離れた存在になると一期一会の出会いが生まれやすくなる。

 

③ 野外で何かする

 河原でコーヒーを沸かしたりお茶をつくると、その場が、自分のアジールになったような気がする。その場を自分の居場所とする。焚き火などもよいね。

 

 


河原で野外カフェ

 

 

④ 電車でアーレントの本を読んでたおっちゃんに話しかけてみた

 

 電車の座席に座っていると、向かい側に座っていたおっちゃんがアーレントの本を読んでいた。気になったから「アーレント読んでるんっすね?」と話しかけてみた。おっちゃんにはビックリされたが、わたしが「労働主義が全体主義に結びついてますね」などと自分の考えを話したらおっちゃんも同意してくれた。おっちゃんはシャイだったため、あまり会話は続かなかったが、その場でアーレント的な価値をもつ人と一時を過ごすことができたことに意味があると感じた。こういうのを「しょぼい現れの空間」と呼んでみたい。

 

⑤ 変わった格好や行動をしてスキをつくる

 

 わたしはしょぼい女装をしている。女装をするなど変わった格好をしていたらスキができて人が接近しやすくなる。いろんな人から話しかけられた。「あんた、なんやその格好は」とおっちゃんから絡まれワイワイ話したことが楽しかった。変わった人になれば今までとは違う世界が少し開けてくる。

 

 

・非日常にスピンアウトすることの意味を書いた記事

 

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