生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

能力主義を問う(2)

 

 能力主義が強調されると社会の不公正が問いにくくなる問題を指摘する。新自由主義の競争主義によって、貧困に陥るのは能力がないからだという語りがなされやすい。この発想からは、貧困化しないためには個人の能力をつけさせようという能力主義的な解決が目指されやすい。しかし、貧困は構造的な差別が生み出しており、能力主義が強調されることでかえって差別の問題が問いにくくなる。貧困問題は再分配の問題であるが、能力の問題にすり替えられてしまっている。また、「能力」のつけやすさにも格差があり、社会的弱者やマイノリティほど構造的差別で不利になることを指摘する。

 

 

【目次】

 

 

1.能力主義が社会の不公正を問いにくくする

 

 新自由主義では市場原理が強調され、貧困に陥るのはその人に市場価値が無いからだと能力の問題とされやすい。しかし、能力をつけろと言われても、能力をつけても最低賃金を上げなくては安く買い叩かれるままとなる。低すぎる最低賃金こそ企業が労働者を安く雇うことを正当化しているからだ(非正規は昇給すらしない所が多い)。賃金があまりにも安いことや、生存保障が不十分であるために貧困が生じている構造的問題が、能力主義を持ち出されることで問えなくなっている。最低賃金の低さを指摘せず能力主義だけ煽るのは、資本の搾取を正当化するロジックにはまることになる。

 

 新自由主義により能力主義が都合よく本質化されている問題がある。以前も指摘した通り、最低賃金が低すぎるのはジェンダー差別に起因する。女性は男性に養われるから賃金が安くてもいいという発想が、最低賃金を低く押さえているのである。最低賃金が低いことや生存権保障がないことは、個人の能力の問題ではなく家族主義に基づくジェンダー差別の問題である。つまり、差別が貧困を生んでいる。能力主義が貧困の本質的原因とすると差別構造が問えなくなる資本のトリックがある。ジェンダー差別の問題を個人の能力の問題にすり替えて、自己責任化するのが新自由主義で浸透している能力神話である。

 

 LGBTQ、外国人といったマイノリティ属性にいる人たちは、スティグマや制度によって不利になっている。そのため、主流社会でうまくやっていくには不利な立場を押し返す労力が求められる。能力や経済力のあるマイノリティは社会の表舞台に立ちやすいが、それは、必ずしもマイノリティ属性そのものの地位が上がったわけではなく、能力や経済力が評価される状態にとどまる事もある。マイノリティのもつハンディを能力や経済力で代替する能力主義的な発想の差別解消に向かいやすくもなる。つまり、能力主義によって差別構造がうやむやにされやすくなるやっかいな問題がある。

 

 

 

※このブログで何度も繰り返して言っていてしつこいのが、貧困問題は家族単位のシステムが生んでおり、貧困問題の解消には個人単位のシステムにすることが前提である。

 

【当該記事】

  

nagne929.hatenablog.com

 

 

2.見かけ上の自由が差別を問いにくくする

 

 「職業選択の自由」において個人の自由が保障されているように見えるが、内実は不平等である。タテマエは大事なのだが、タテマエだけ自由であるだけでは、かえって不平等が問われにくくなる問題がある。労働者がひどい労働条件に置かれても、ひどい労働環境を選んだのは個人の選択の責任(判断ミス)とされやすい。つまり、「選択の自由」が不正を問いにくくさせている。低賃金の労働をしている人に、「能力をつけたらいい条件の仕事が見つかる」と能力主義的な解決を求めるのは、構造的な不平等を等閑視させる効果をもつ。イス取りゲームの発想では全員の生活水準はよくならず、誰かが必ず貧困に陥ることを正当化する。貧困を前提としているシステムは差別そのものだといえる。能力主義に基づく自己選択の責任という考えが、自分が能力をつけるだけの見せかけの問題解決に向かいやすく、構造的な不平等が問いにくくなる問題がある。

 

 

3.ケイパビリティの欠如が「自由な選択」を阻害している

 

 ケイパビリティが不足しているマイノリティや経済的弱者は自由な意思決定がしにくい。何かをなすための能力や経済力、人的資源が乏しいために現実的にとれる選択が限られてくる。他者との関係や状況によっては自分に不利になる行動をしなければいけない。例えば、学校に行って教育を受け、専門性を身につけて就職する方が経済的には安定しやすい。しかし、経済力に余裕がない、精神的な余裕がない、あるいは能力を活かせる場がないなどの問題で、目先の安定を優先し時給1000円くらいのバイトでしのいでくことになる。生涯年収を考えると、学歴や職務能力をつけ働くほうが圧倒的に高くなるののだが、いろいろな事情が重なり合理的な行動がとりにくくなる。これは、本人の意志や能力の問題だけではなく、ケイパビリティの問題が大きい。ケイパビリティの格差により「自由な選択」が保障されにくい現実を見ると、不本意な結果に対して本人がすべて甘受すべきという自己責任論は成立しなくなる。

 

 社会的な立場が強く選択肢が多い人は「自由な選択」がしやすいが、弱い立場の人には「自由な選択」がないという構造的な非対称性がある。この構造的非対称性が等閑視されたまま、リベラリズム的発想による「自由な選択」が強調されると、選択と決定において不利なマイノリティの脆弱性に目が届かなくなる。「自由な選択」による結果責任は、構造的な差別とリソースの偏り(格差)が是正されない段階では、本人に全的に帰すことはできない。

 

4.主流秩序の価値体系が最適行動をとれなくさせている

 

 また、主流の価値観や世間からの目線を気にして、自分の意志とは異なる行動をとり、結果自分をさらに不利にしてしまうこともある。あるいは、主流秩序の価値を内面化してしまい、能力主義的な行動をとることでかえって状況を悪化させることがある。あるシンポジウムで困窮者支援に携わる人の話を聞いたのだが、路上生活者が体を悪くしても「医療にかかるのは恥」という自己責任論をもっていると、支援者がすすめても医療機関に行かずにさらに体を悪化させてしまうこともあるという。自助神話は自助に結びつかない弊害がある。

 

 困窮したり自由が奪われると、次第に自分の欲望が分からなくなっていく。そうすると、自分の意志を持ちにくくなり、判断・決定する能力も衰えていく。このため、被抑圧者(=マイノリティ)ほどマジョリティの意思決定に振り回されやすくなる。生存権が保障されていないことで、マイノリティの主体性が奪われていく。社会的弱者は物質的なリソースが不足しているため取れる選択が限られていることと(物質的欠乏)、主流の考え方に抑圧され自分の欲望に従った行動が取りにくい(精神的支配)という二重の差別を受けている。経済力や能力の問題だけでなく、弱者を低い位置に留めおこうとする主流秩序の価値体系そのものも突いていかなければならない。

 

 

◆◇◆関連記事◆◇◆

① 意志の力だけではうまくいかない事について

 近代合理主義の発想により自己責任論が正当化されがちであるが、人は必ずしも自由な意志と自己決定で能力形成ができるわけでないことを指摘した。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

② 社会的弱者やマイノリティが這い上がれない構造的問題について

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しょぼい権力論

 

 

「少しは権力欲しいよね・・」

 

 前に、孤立気味にある友人と話をしていて、「権力が全く無いのもキツイよね。権力100はよくないけど、権力30くらいは欲しいよね」という話をしていた。この話から考えたことを書いてみたい。

 

【目次】

 

 

1.人は権力の行使を通して社会と関係できる

 

 権力という言葉は、力をもつ覇権的な人が振りかざすものだというネガティブなイメージが強いので使いにくいが、人は生きる中で常にすでに誰かに権力を行使していて、逆に権力を行使されている。そして、人は権力を行使することでしか社会と関わることができない。権力そのものだけが問題なのではなく、権力が誰かに偏りすぎて別の誰かの権力を奪いすぎることが問題なのだと見ている。これを前提とすると、他者に対する一方的な支配や暴力とならないかたちで、やんわりと権力を行使して他者に影響を及ぼせる状態にあることが「生きづらさ」の緩和になるのだと考える。自分の言葉や行為に対して何らかの反応があったり、誰かの心に何らかの影響を与えられた感触を得られることで自分の存在を感じることができる。自己効力感である。

 

 言葉を発すことは他者に対する働きかけだという(オースティンの言語行為論など)。発話は自己や他者を変えるためになされる。発話だけでなく何らかのパフォーマンスも相手にメッセージを投げかけて変化を求める。相手に対する要求から、自分を理解してほしい、評価してもらいたい、共感してほしい、相手を笑わせたいなどの思惑があり、自分が相手を変化させることを求める。こういった、他者を変化させようとする行為は権力の行使といえる。直接的な暴力や暴言による他者への命令ではなく、やんわりと言葉や行為によって「他者の行為に対する働きかけ」(フーコー)をおこなうことも権力の行使となる。

 

 

2.権力を行使できてこそ他者に応答できる

 

 人はうまく言葉を発することができないと不全感をもちやすい。これは、國分・熊谷(2020)による責任(レスポンシビリティ)と応答(レスポンス)に関する話から得た視点です。

 

応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりの仕方でというところが大切であって、決まり切った自動的な返事しかできないのならば、その返事は応答ではなく反応になってしまう。哲学者アーレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えた。

 

國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究新曜社、p.4-5)

 

 

 自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく対応できないとき、人は苦しさを感じる。他者が自分の言葉に対して通りいっぺんの当たりさわりのない言葉や、常識に基づいたことしか返してこないのであれば、自分に向き合ってないのだなと疎外された気持ちになることがある。逆に、他者の言葉に対して自分が返す言葉をもたない時は歯がゆい気持ちになる。うまく応答ができないことがもどかしさになる。応答できないというのは他者に働きかけができない状態であり、権力がうまく行使できないというモヤモヤした状況になる。社会や他者に対して自分なりのやり方で応答できないことで、社会でポジショニングできなくなる。応答を通して、自分なりのやり方で権力を行使できることで人は社会に自分の存在を示すことができる。

 

  

3.「依存先を増やす」とは「権力の行使先を分散させること」

 

 人が社会的な存在であると実感を得られるのは、他者との関わりにおいて影響を受けたり、影響を与えたりすることにあるだろう。つまり、贈答関係をもてると人はエンパワーされる。精神医療の領域では、よく患者を「かよわい当事者」として社会や他者に従属するだけの構造的弱者の立場に追いやろうとする。パターナリズムによる包摂的対応なのだろう。しかし、本人の主体性が尊重され他人と関わることでエンパワーになり回復していく場合が多い。人から権力を消し去る無力化や無害化をするのではなく、他者からほどほどに権力を行使され、自分は複数の他者に権力を分散して行使できるような形で、精神的に健全になるのだと思う。

 

 しんどさを抱えた人がいるとしよう。そういう人は、甘えたことを言ったりしょうもない事をしてしまうのかもしれない。しかし、その人は甘えられる関係やしょうもない事ができる場が不足しているのだと思う。世間ではしっかりしたように見える人も、実は見えない所で誰かに甘えたりしょうもない事をしている。その人に甘えの心があることが問題なのではなく、甘えられる場が不足していることが問題である。甘えられる人や場が少ないと、他の何かで埋め合わせることになる。特定の誰かに甘えが集中すると支配や共依存になり、自傷行為、アルコールやギャンブルなどの依存症にもつながる機序が生まれる。広くゆるく甘えられる状況でこそ人は健全になる。これも、誰かに甘える=誰かからケアや笑いを引き出すという権力の行使と見れる。ただ、このケアは女性や立場の弱い人にかかりやすいという問題がある。立場の強い人が一方的に誰かに権力を行使して疲れさせやすいことには自覚的になるべきだ。広く浅く誰かに依存できるのが理想であるというのはケアにおける課題なのでしょう。

 

 

※ケアにおいて気をつけるべき点は、以前に記事で書いたことがある。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.お金と権力

 

 お金があれば権力が得られる。逆にお金がなければ権力は得られない。困窮者はお金がないから他者から一方的に権力を行使される立場になり「自立」ができなくなる。お金がない引きこもりなどは親のお金に頼らざるをえなので、気まずい立場となる(脅して金をもらうのは問題だが)。他者の援助により得たお金は使うのに後ろめたさがある。だから、好きなものを自由に買えない。自由が制限されると、自分の欲望すらも曖昧になり活力がなくなる。自由に使えるお金があると自分の欲望を作りだすことにもなる。自分が何が欲しくて何を買いたいのか欲望をもち、持っているお金と照らし合わせ自分で選択して購買ができて「自立した消費者」となれる。資本主義ではまず消費行動ができることが前提となる。子どもに小遣いを渡すことは、消費者になるためのトレーニングとなる。引きこもりの人でも障害年金が入ったことで消費活動の幅が広がりエンパワーされた人がいる。生活保護を現物給付にしろという声も聞くが、それは生活保護の利用者を追い詰める。消費活動ができなくなるので、社会適応能力を奪うことになる。それによって、社会復帰も難しくなるだろう。また、孤立した人が手っ取り早く人と交流するには金をつかうことである。社会に居場所をつくるには、少しくらいの権力は必要となる。そのためにも最低限のお金は必要となる。

 

5.聞く姿勢の重要性

 

 相手に聞く姿勢があれば、人は自ずと自分の言葉で話し出す。拙い言葉かもしれないが、自分の話がちゃんと聞かれると分かれば躊躇なく話すこともできる。相手の言葉に対して、こちらも応答すれば、相手もさらに語り出しコミュニケーションが生まれる。発話やコミュニケーションは話者の問題ではなくて、聞く姿勢の問題であるといえる。この人は自分の話を聞く気がなさそうだし、話を聞いてもあら探しや説教をかましてくるだろうと思ったら、話す気にはならない。抑圧的な姿勢(=取り締まりの態度)をもつ人に対しては、何かしら足払いや言いくるめをされるのではないかと警戒してしまうから、自由な言葉を発しにくい。また、同じ言葉でも立場次第ではちゃんと聞かれたり聞かれなかったりする。立場の弱い人やマイノリティの声は聞かれにくい。言葉が聞かれないのは聞く側の姿勢の問題が大きいが、話す側の立場が弱い場合は、話者の言語化能力や説明能力の問題にすり替えられやすい。立場の弱い人ほど言葉の能力を一方的に求められる問題がある。言葉の武装を求めれるとしんどいのだ。繰り返すのだが、コミュニケーションが成り立つかは、個人の言葉の能力が問題ではなく、聞く姿勢の有無が問題となる。聞く姿勢とは学ぶ姿勢であろう。相手から影響を受ける余地を示すことである。そして相手の言葉を取り入れ変化する準備があることだ。はなから変化するつもりがない人に対して、話をしても手応えがなくノレンに腕押しとなる。権力が行使できないからだ。対話は相手から権力を行使されることで始まる。自分と共鳴する言葉をもつ人や、自分の言葉が聞かれそうな関係を見つけたい。人から聞き、別の人に話す。インプットとアウトプットのサイクルができる。知識や学びは貯め込むのではなく流すことで社会に循環して、それがゆっくりと社会の変化に結びつくのかもしれない。

 

「人には語る能力がないわけではない。語ることができる場を設けられれば人はおのずと語ることができる」という発想から対話の場はできるのだろう。人が語れないのではなく、構造が人を語れなくしているという指摘を前にブログで書いたので、また読んでいただきたいのです。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

6.対話のために開かれた人になる

 

 話してもこちらの言うことが響かないなと思える人には話す気になりにくい。応答をちゃんとすると互酬の原理が生じる。誰かが何かを発言する。それに対して相手が理解や関心を示して応答する。応答された方は自分の言葉が響いたと感じ嬉しく思う。さらにその反応を見た側も、自分がちゃんと応答できたことに満足感を得られる。応答による相互作用が人のエンパワーになる。対面した相手への関心が軸になる。心が通じる感覚とはこういうことなのだろう。

 

 自分が他者に影響を与えるためには、自分も他者から影響を受ける態度をもたなければいけない。そのためには、自分がどのような言葉をもっていて、どのような人であるかを開示しておき、他者に対して開かれていること。いい意味でスキがあることも大事。余裕がないと相手に対してもちゃんと応答ができないだろうから。

 

 

※わたしのツイッターやブログも、誰かに対する権力の行使だろう。「生きづらさ」の問題や生存権オルタナティブについて誰かに響かないかと願い、日々わちゃわちゃと書いている。たまに、ヒットして、いい人ともめぐり会える。誰かに権力を行使できるためにも投企(言葉の撒き散らし)をおこなう。奇跡をおこすためには、しょぼくて小さな「呼びかけ」が大切だと思う次第。

「義務」を捉えなおす

 

「義務を果たしてら権利を主張しろ」と言いがかりをつけてくる人が多いので、それへのしょぼい対抗言説として文を書いておく。カント、スピノザアーレントなどの考えをもとに、真の意味で「義務」を果たすとはどういうことかを考えたい(とはいっても入門書をハシゴして書いたショボいものです)。

 

【目次】

 

 

 

1.能力に応じて社会的責任を果たすことが「義務」

① 「勤労の義務」は必ずしも「善」に資さない

 

 働いてなかったり、生活保護などで暮らす人が権利を主張すると、「義務を果たしてから権利を主張しろ」と言って主張を無力化しようとする人がたくさんいる。ここで言われる義務は、きまって「勤労・納税の義務」である。そこでいう労働は、「金を稼ぐ活動」に限られる。つまり、「社会的な義務を果たせ」と言われる時に指す「義務」が極めて狭い意味なのである。この「勤労・納税の義務」というものは資本主義を成り立たせるために必要とされていることだ。それは、市民社会を成り立たせるためのものでは必ずしもない。資本の論理と市民的正義は相容れない場合が多い。辺野古に土砂を運ぶトラックの運転手は「勤労の義務」を果たしているが、それが民主主義や住民・環境・動物にとっての「善」に資すると言えるだろうか(もちろん、トラックの運転手は生活のために仕方なくいやっている側面があり、一方的に「悪」とは言えない。辺野古の埋め立てを決意した政治家や利権が根源的な「悪」である)。原発などがそうだが、社会には無いほうがよい仕事(=ブルシット・ジョブ)が多くあり、労働することが必ずしも社会によい結果をもたらすわけではない。しかし、社会にとって望ましくない労働に従事しても、「勤労の義務」を果たしているからと評価されたり正当化されてしまう。サラ金や高額なヘンテコ商材の販売などは人を追い詰めていることの方が多い。他人を不幸にして儲けている人よりも、働いてない引きこもりのほうが倫理的である場合もある。「勤労の義務」が人を何が何でも労働させて、倫理に反する行いすら正当化させている現実がある。

 

② 「義務」の一元化により人が社会的義務を果たせなくなるパラドックス

 

 資本主義は人から生産手段を奪い、労働者として資本のもとに従属させる。人は資本に寄与する活動でしか価値を示せなくなっている。社会への貢献度が稼ぐ力でのみ計られ、「勤労の義務」として人々の義務観念を支配している。しかし、金を稼いで納税することだけを義務と見てしまうと、金に結びつかない活動などが度外視されて、人々がもつ多様な能力を活かすことができない社会になる。人がはぐくむ能力は多様で、それぞれの能力を上手く活かすことで社会的課題に応えることができる。しかし、一般的に義務とされている行為は経済活動に限られている。そのような義務観念の狭さが、人がもつ能力を活かす機会を摘んで社会にとってもマイナスになっている。果たすべき責任や義務のかたちを一元化すると、必然的にその要請に応えられない人をつくる。金銭的貢献しか認めない狭い義務観念により、個人が自分の能力をつかって社会に関わることができず、社会的責任を果たせなくさせている。これは、個人にとっても社会にとっても不幸なことだ。個人は金になる能力ばかりを伸ばすようになり、社会から多様な可能性が失われる。個人は代替可能な部品としてしか社会に存在できず、自分のもつ能力で社会にうまく応答できないことで、自尊心が傷つけられ疎外される。技術力が高まりAIが富を生み出せるようになれば、人を労働に駆り立てるばかりでなく、人のもつ能力をうまく社会で活かすという発想をしていくべきだ。自分が他者や出来事、あるいは社会からつきつけられた課題に、自分なりのやり方で応答する可能性をハンナ・アーレントは、「複数性」と呼んだ(國分・熊谷、2020、p.4)。「複数性」が可能となるとは、個人が尊重されることを意味する。自由な活動ができるようになってこそ人は社会的課題に向き合えるようになる。

 

③ 「義務」は特権に対するコストである

 

 「勤労・納税の義務」などの一般的に「義務」とされるものが、勝ち組に優位に設定されていることにも注意したい。勝ち組が自分たちが優位なように「義務」を設定することで、負け組の権利主張を封じ込め続ける戦術にすることもできる。現実的に「義務を果たしてから権利を主張しろ」という勝ち組によるトーンポリシングの口実として「勤労の義務」はよく使われる。しかし、「働かざるもの食うべからず」という義務観念は、そもそも社会主義的な文脈で出てきたもので、不労所得で暮らす資産家などを牽制するためのものだった。本来、富裕層を戒めるための格言が、貧困層を押さえつけるような意味合いにすり替えられてしまった。このように、勝ち組によって「義務」の意味付けが都合よく設定される(勝ち組は自分たちに有利なルールを作れる)。そして、この「勤労・納税の義務」させ果たしさえすれば何をしてもいいんだという思い上がりを正当化することにもなる。コロナ下でエッセンシャルワーカーが感染症の最前線で働いているにも関わらず、給与は最低賃金レベルの人が多く生活すら保障されない。一方で、コロナで株が高騰して富裕層の資産は増えたという。労働者の生み出す経済的価値よりも低い価値で人を働かすことで資本は利益を生み出す。株式の利益も労働者の生み出した富の一部である。金融投資自体は何も生産していないので、結局は社会から富を収奪しているだけだという。ただ、株を保有しているだけで莫大な富を得る富裕層は社会に対して何も責任を負わなくてよいのだろうか。「義務」は特権に対するコストである。勝ち組が社会の中で得た特権性に思い上がらずに相応の責任を果たすために意識されるもので、負け組を抑え込むための道具ではないだろう。勝ち組が自発的に相応の責任を果たしていれば、社会からも非難されにくい。つまり、「義務」は責任を果たすべき人に責任を果たさせるためにある。勝ち組が社会的な課題にしっかり応じることで、勝ち組が自信の社会的名声を上げることにもなり、結果的に勝ち組の地位が保てるのだろう。

 

※米国の富裕層がコロナ下でボロ儲けしていることを伝える記事

https://www.cnn.co.jp/business/35165645.html

 

※金融投資による利益は社会の負担から生まれるという話(マルクス経済学者の佐々木隆治さん)

www.asahi.com

 

 

④ 「義務」はトーンポリシングのための道具ではない

 

 権利と義務というのはセットで語られやすいが、取引関係にはない。生存権などの権利は基本的人権としてあらゆる人に保障されているものだ(でないと、障害者や子どもは生かされなくなる)。そして、「義務」は立場の強い者の権力を牽制するために課せられるものだ(現に、累進課税方式などは正当化されている)。2020年の一律給付金の際にも、生活保護利用者には給付金を渡すべきでないという声がたくさんあがった。橋本徹とかは、露骨に「権利と義務」を持ち出して煽っていた。政府はコロナでの生活支援として一律全員に支給すると決定したにも関わらず、わざわざ「この人はOKで、あの人はNGだ」と言って自分が条件を設定できる立場にあるとなぜ思えるのだろう。この事例からも、自分が義務を果たしている側として、「権利と義務」を持ち出すのは、自分が他人の権利主張を押さえ込める超越的立場にいると思い上がっているからである。

 

 

2.カント哲学から考える義務

① 動機付け型の義務がもたらす弊害

 

 義務は、「〜すべき」という道徳観である。しかし、「権利と義務」という動機付け型の義務は、純粋な意味での義務ではなくなる。「義務を果たすことで権利が得られる」という義務観念を採用すると、権利を奪われたくない、あるいは他人からバカにされたくないという強迫的動機により人は義務を果たそうとする。つまり、保身のための義務遂行となる。これは、カント哲学において仮言命法と呼ばれ、見返りを求める意識(底意)が動機付けとなる。義務というのは一般的に美徳とされているものが多い。勤勉、勤労、自助などである。動機付け型の義務は、「成功したければ、努力すべし」という仮言命法の型をとる。そして、努力して成功すると他者に勝ったという“快感”を報酬として得られる。努力のよさよりもむしろ、実績を収めることの満足感が動機付けとなる。このように、動機づけ型の道徳は打算的な人間を生み、エゴイズムを導きやすい。これは、必ずしも社会正義にとってよい結果にならない。動機づけの倫理にひそむパラドックスといえる。

 

② 真に道徳的な義務とは

 

 人は働かないと世間から見捨てられたり、白い目で見られることを恐れて「勤労の義務」を果たそうとする。つまり、義務を果たさないと大きな代償を払うことになる。逆に言うと、大きな代償を支払うことがなければ、人は労働しなくなる。これを考えると、強迫的動機に基づく労働とは真の意味での道徳的行為と言えるだろうか。以上で述べた条件付き動機に基づく仮言命法とは異なり、カントは無条件の命法である定言命法を提示した。「〜だから、〜せよ」という条件を伴わない、単に「〜せよ」という純粋な道徳性からの命法である。このように、何らかの条件に規定されず、完全に自発的な意志による行為をおこなうことこそ「自由」であるとされる。つまり、見返りを求めない道徳的行為こそ純粋な意味での義務である。

 

③ 理性的存在であろうとすることが「自由」となる

 

人というのは、他者を出し抜こうとしたり、抑圧しようとしたり、俗情に流されたりする。「べし」という命法は、理性が感性に働きかけるものとする。人は理性的存在となり欲望(感性)を超越することで、「自由」になることができるという。この道徳意識は、個人の根本指針(カントは「格律」と呼ぶ)を導く。カントはこのような道徳的行為をもたらす意識を「道徳法則への敬意の念」と呼んだ。

 

  多くの人は良心的存在でありたいと願う。誰かを犠牲にしたり、蹴落としてしまったこと。いじめてしまったこと。不遇な誰かを見て見ぬふりしてしまったこと。助けの声を無視したこと。このような後ろめたさを抱えていると、心は完全に安寧にならない。完全には幸福になれない。こういう振り払いがたい意識を喚起するのが「道徳法則への尊敬の念」という。つまり、良心である。

 

④ 内発的な道徳的行為により社会的義務を果たす可能性 

 

 「勤労の義務」など義務の一元化を命令しなくても、自分が社会の中で何をすべきか、何ができるのか、内なる動機に基づき行動できることで人は道徳的存在となり、社会的義務を果たすことも可能である。そこにおいては、人は単なる賃金労働ではなくて、社会的意義を感じられる労働(活動)に進んで従事しようとする。内発性に基づき道徳的行為をおこない社会的責務を果たせることは、すなわち「自由」となることでもある。自らの意志で、自らの力を表現できる行為をおこなえることが「自由」であるとスピノザも言ったそうだ(國分、2020)。

 

 カントは、道徳性が幸せを約束するわけではないが、幸せになるに値する人間になるように道徳性を磨くことはできると言った。日頃から陰徳を積んでおけば、幸せが訪れた時に、堂々と幸せを享受することができる。自らの従うところの真に道徳的な行為をおこない、あとは幸せになれるよう祈るしかできない(「投企」をする)。

 

 

3.市民としての「義務」のあり方

 

 ハンナ・アーレントは抑圧や貧困からの解放だけが「自由」ではないと述べた。孤立した人間が「自由」なのではなく、公的領域での「活動」をおこなうことで「自由な人格」として他の市民から認められるようになる。経済活動やプライベートな事しかおこなわないのは、「自由」ではなく単なる自己チューなのだ。

 

 公的領域で「自由な人格」になるとはどういうことか。それは、政治的共同体の中で「共通善」を求める主体になることだという。民主的なおこないを「偽善」だとバカにして、「悪」を平然とおこなう人がたくさんいる。「悪」であることや冷笑的であることがカッコいいとされ、倫理的であることが軽んじられる。つまり、「偽善」という仮面を取り払うと人は自らの欲望のままにふるまう自己チューになる。心の闇、差別意識、おごりは誰しももってしまうもので、仮面の中の素顔は有害なものである。アーレントのいう【人間の条件】とは、人格という仮面をかぶり、「善き市民」を公衆の面前で演じることにある。だから、その人の正体が“善人”であるかは問題ではない。市民社会の公的利益を求める時、人は「見せかけ=現れ」の存在にならないといけない。個人の複数性が尊重される自由な社会は、自ずとはつくられず、主体的に(意識的に/人為的に)つくり上げるものだからだ。人は自発性に基づき市民として自らの「役割」を演じられる時、つまり、「人間の条件」(=義務)を果たせる時に「自由」になれるのだろう。それが、「現れの空間」(=アジール)にもつながる

 

 

4.義務をしょぼく果たす

 

 以上、哲学者の言葉を参考にしながら、「義務を捉えなおす」をテーマに書いてみた。とはいっても、アーレントの言うような市民的役割は能力主義が強い。公的なことに関心は持ちながらも、内なるしんどさを抱えてあまり目を向けられなかったり、社会の流れや情報の量について行けない、あるいは考えるのがしんどくなってしまう人もいる。また、社会参画はマイノリティや社会的弱者ほど負担が大きいという問題がある。社会活動の場も、マッチョイズムや能力主義が強く、弱い人やできない人はついていけなかったり追いやられるのも現状としてある。市民として十分な責任を果たせない人は、「しょぼい活動」をして、わずかでも倫理的な人として振る舞いたい。社会的責任の基本は、強い立場の者を牽制するためにあり、あまり力のない人を追い立てるような使われ方はされるべきでないと考える。

 

【社会的な課題に対して】

・社会問題系の学習会、シンポジウムに行って参加者と話したり、内容をSNSで発信する。

・しょぼい社会活動→ デモや集会に参加、一人アピール

・ボランティアの参加

SNSで愚痴や非難ばかりせず、人をエンパワーする言説実践をする。

・他者から学んだことを自分の中に取り入れて自己を更新する。この反復が社会変革にもつながる。

 

【消費行動において】

・ひどい企業の商品を買わない。

・動物搾取への加担を減らす。エシカルな商品を買う。

・大量消費社会への反発として自分で何かつくったり、野草やキノコを採る。

・できるだけ消費しない。

 

【つながり】

・困ってそうな人に声をかけてみる

・街で知らない人に声をかけてみる

・居場所をつくる、居場所に参加する、自助グループ、対話できる場をもうける

 

【差別に対して】

・いじめに加わらない、いじめを見て見ぬふりをしない

・差別に対してできる範囲で反対する

・社会的弱者やマイノリティのことに関心をもち調べたり勉強する

 

 

 

【参考文献】

石川文康、1995、『カント入門』ちくま新書

國分功一郎、2020、『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書

國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究新曜社

仲正昌樹、2009、『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書

 

 

【過去に書いた関連記事】

 

◉ 労働主義が全体主義に結びつく弊害について

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 低収入層ほど「働いたら負け」になる構造について 

 

nagne929.hatenablog.com

 

4コマ劇場(7)

 

4コマ劇場の31〜35作目。

 

出会った人や経験したことを書きます。他愛もないことやささやかなことを楽しみたい。

 

【目次】

 

 

◉ 山のおっちゃん

 

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◉ 西成のサンタクロース

 

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◉ みかん

 

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◉ 家庭教師

 

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◉ ミラーリング

 

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採取:しょぼいサブシステンス活動

 

野山や公園で野草やキノコを採ることについてのオルタナティブな意義を提示したい。自給農業や贈与経済とか“立派なオルタナティブ”ができないしょぼい人ができる事としてボソボソ声で提起したい。採取を通して今の消費システムから僅かにズレる実践をすることで一種の非日常の楽しみも味わえる。それを、しょぼいサブシステンス活動と呼びたい。こういう楽しみ方をみんなでやりたいですね。

 

【目次】

 

 

★★★ 2020年に採取した野草やキノコ ★★★

 

◉ 3月 河原のカラシ菜をパスタにあえた

 

河原でカラシ菜を採って、パスタにあえて食べた。アブラナ科は食べやすい。

 

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◉ 9月 道端のドクダミを天ぷらにした

 

住宅地の高架下でドクダミがたくさん生えていた。採取して天ぷらにした。他にもいろんな所で生えてる。長い季節楽しめる。乾かしてお茶にする人も多い。

 

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◉ 9月 山でエゴマを採った(何度も採れる)

 

山でエゴマがたくさん生えていた。これ、以前わたしが種を撒いたらずっと自生しているやつだ。しぶといのだ。大豆ミートとキムチを包んでサムギョプサル風にして食べた。また、たくさん採れたので醤油づけにして保存した。秋遅くまで成長して葉がたくさん採れる。

 

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◉ 9月後半 山の中でヒラタケを採る

 

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◉ 10月中頃 山でアケビを採る

山の中でアケビが採れた。アケビは中の果実を食べたら苦い皮が残る。これは、渋抜きして味噌などで炒めるか、肉詰めピーマンみたいに調理するなどで食べる。わたしは肉食を控えているから、大豆ミートと香辛料を皮の中に入れて、かんぴょうで縛って油で炒めた。カレー風味のアケビの皮の大豆ミート詰めだ。

 

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◉ 10月半ば 公園でイグチを採る

イグチというきのこが公園にたくさん生えてた。表面はぬめりがあり、裏はスポンジのようになっているのが特徴。ポルチーニ茸の仲間です。味噌汁にして食べた。

 

 

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◉ 10月後半 河原でミントティー

 

河原でミントを採ってお湯を沸かしてミントティーをつくる。エゴマもあったのでエゴマ茶もつくった。辛ラーメンに大葉を入れてもおいしいっす。

 

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★★★ 理論編 ★★★

 

1.立派にオルタナティブができない人はどうするか

 

 低い技術水準にあった狩猟採集民の生活は生存ギリギリではなく余裕のある食生活をしていたという。そして、狩猟民の生活資源の多くは植物に依存していた。人々は自然から追い立てられることで、寝床や食料の確保ができなくなり賃労働へと駆り立てられる(=本源的蓄積)。資本主義によって貧困は生み出されたと指摘される。

 

 

 資本の市場システムから離れたオルタナティブな生き方として、自給農業がよく推される。しかし、小さな菜園すら手に入れたり借りたりするのは難しい。そして、家庭菜園の小さな畑でも維持管理するのは想像以上に難しい。障害やいろんな理由で継続的な畑仕事がしんどい人にはハードルが高い。そして、怠け者で農作業がロクにできなくてもそれはそれで仕方がないことだ。土に触れて自分で野菜をつくる事は、自分の暮らしを自分でつくっている手応えを感じられるので素晴らしいことだと思う。しかし、自給が十分にできない人が何もできないと嘆くのではなく、しょぼくても何かしらできないか。わたしがボソボソ声で提案したいのは、技術や資源を必要としないしょぼいサブシステンス活動である。熟達した能力をもたない無力な者、自給する資源すらもたない無所有者ができるしょぼい「遊び」である。しょぼい人は資本主義へのしょぼいカウンターを実践をして、しょぼい楽しみを得ていく。そして、しょぼい活動でも自信をもってその楽しさを示していったらいいと思う。

 

 

2.「祭り」としてのサブシステンス活動

 

 農漁村の人たちが、生業のためでなく自然の中で山菜をとったり海で小魚や貝をとったりする非経済的な「遊び」の活動がマイナー・サブシステンスと呼ばれる(松井健など)。生計維持としては経済的な意味はまったくないのに、意外なほどの情熱で維持されている。山菜をとったら近所の人を家に招いたり、おすそ分けするなどして祝祭的な場がつくられる。マイナー・サブシステンスには、地域に受け継がれてきた伝統的な「祭り」としての側面がある。商品経済において採取活動は経済的利益に結びつかないどうでもいいこととされる。しかし、人の採取活動というのは、食料確保という有用性の次元だけでなく、非日常をもたらす「遊び」としての意味がある。山菜採りやキノコ採りに夢中になる人は、自然との関係で貨幣価値に還元できない楽しみを得ているからだろう。このような、自然との関わりを通した「遊び」を主流秩序からズレる活動として実践したい。農漁村のマイナー・サブシステンスには、小動物を獲ったり川や海で魚介類をとる活動があるが、わたしはアニマルライツにも配慮したやり方として植物の採取だけをしていきたい。わたしの言うところのしょぼいサブシステンス活動は、共同体で大掛かりにする装置的なものではなく、個人的におこなう即席的なものだ。たまたま通りがかった道端のドクダミをとったりする行為である。つまり、何の準備もいらず偶発的にできる気軽なものである。

 

3.「自立」のためのサブシステンス活動

 

 資本主義によって人は既成品を買うことでしか生活できなくなった。人々は一方的に消費者の立場に追いやられてしまった。この結果、人々が制度や市場に依存せざるをえなくなり、「従属」を強いられる。みずからの内発的な思考や行動によるヴァナキュラーな生活・活動ができなくなり、「自立」ができなくなってしまった。サブシステンスという言葉はフェミニズムの文脈で使われ、市場での経済的価値は認められないが生きる上で必要な営為とされる。そして、女性に割り当てられやすいサブシステンス活動が無償になされることが批判される。このように資本に都合よく女性が無償でサブシステンス活動をすることが美化されることは問題となる。ここでは、資本に従属しないサブシステンス活動の可能性について言ってみたい。イリイチのいう自立自存としてのサブシステンスである。生業という生産性の観点ではなく、資本に依存しないかたちで、「自立」した遊びを自給していくという発想である。しょぼいサブシステンス活動は資本の包摂作用に対して、わたしのようなしょぼい人がとれる微々たるカウンターである。これは、資本主義によって商品化されているわけでなく、さりとて公共化されているわけでもない、しょぼい〈コモン〉の発見と言えるかもしれない。システムの「隙間」にあるものだ。

 

 

 イリイチはヴァナキュラーな活動を、生き生きとした「節度ある楽しみ」(=コンヴィヴィアリティ)の実践として意味づけた。つまり、金儲けのために自然を過剰に使うのではなく、自分の充足のために必要の限り利用する。「足るを知る」という観念に基づく。しょぼいサブシステンス活動とは、近代技術(テクノロジー)や高度な能力を要さず、わずかな技能や知識をもとに楽しみを得る「足るを知る」の実践だといえる。

 

 

◉ 過去記事ではイリイチの自給理論について触れた(文が拙いなぁ・・笑)

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

4.〈コモン〉をしょぼく取り戻す

 

資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。

 

(斎藤幸平、2020、『人新世の「資本論」』、集英社新書、p.221)

 

 

 資本主義が進むと、土地の「囲い込み」がおこなわれ〈コモン〉が奪われていく(=本源的蓄積)。この収奪は「私的所有の原理」により正当化される。そして、土地は利用料(レント=地代)を払わなければ使えなくなる。畑や住居などの生きるために必要な資源を得るにも高い金を支払わなければいけなくなる。資本主義は社会から〈コモン〉を無くすことで人々を貧しくするシステムである。しょぼいサブシステンス活動は、資本によって奪われた〈コモン〉の豊かさをこっそり取り戻す試みだと言える。つまり、資本によって閉じ込められた人の可能性を回復させ、「生の拡張」をおこなう。資本の論理からズレる実践を可能にして複数性の創出ができる。資本主義が浸透した日常世界の中に〈コモン〉による非日常をつくり出す。こういうしょぼい活動もアジールになると思う。

 

 

【参考文献】

 

 

 

◉ 野草のレクチャーを受けた話

 

nagne929.hatenablog.com

 

コミュ力について

 

【目次】

 

1.コミュ力主義は差別になる

 

 この社会はコミュ力を求めすぎだ。しかし、一般的に言われるコミュ力というものは、内容そのものよりも話し方の上手さであったり、当たり障りない事をうまく言える能力であるようだ。コミュニケーションの仕方は、本人の情報処理能力、応答能力、思考パターン、人間対応パターンなどで変わってくる。これらは、階級や所属によるハビトゥス(慣習行動)や、知的能力あるいは障害の有無などが変数となりうる。社会的によいとされるコミュニケーションのあり方が、空気や分脈をしっかり読み、ちゃんと会話の受け答えをして、今風の話題で気の利いた事を言ったりウケをねらうように定型化されていっている。コミュニケーションが洗練され、凸凹がなくなり多様性がなくなっていく。コミュニケーションにおけるジェントリフィケーションと言える。この定型化の圧力こそ会話における息苦しさを生む。コミュ力」は主流のコミュニケーションができない人の社会参加を阻む障壁となっている。主流のコミュニケーションのあり方はその正当性を維持するために、それにそぐわない人を「コミュ障」とか「発達」とマイナスにしるしづけ下に置こうとする。これにより、コミュニケーションにおける定形/非定形の序列が生まれる。このコミュ力秩序によって、コミュニケーション弱者や発達障害の人などが社会の隅に追いやられたりバカにされたりしている。主流秩序のコミュ力主義は差別をもたらしていると言える。

 

 コミュニケーションの仕方によって社会でのエンパワーのされ方が変わり、社会的地位の達成しやすさも変わる。コミュニケーション能力は主流秩序のランク付けにおいて重要な要素となっている。そして、コミュニケーション能力は訓練次第ではみんなが獲得しやすい平等なものと見られる。しかし、主流のコミュニケーション能力は階級や属性、パーソナリティ、障害などで身につけやすさが違う。ハビトゥス(慣習行動)の問題はコミュニケーションの仕方にかなり影響するだろう。人が構築的に身につけるハビトゥス(慣習行動)が社会での位置を規定しやすい。主流秩序のハビトゥスを規律化できた者がエンパワーされやすくディスタンクシオン(卓越性)を得る。さらに、主流秩序の上位の人たちが自分たちが獲得しやすいハビトゥスを「主流」として、下位にいる者のそれを「非主流」として見下す。このように、マジョリティは自分たちに有利に記号を操作できる立場にある。マジョリティ/マイノリティの構造的な位置関係において、ハビトゥスディスタンクシオンの視点は欠かせない。社会で優位なポジションを得やすいハビトゥスはマジョリティが規範化しやすく、マイノリティが規範化しにくいものとなっている。このため、コミュニケーション能力が格差を生む問題は、本人の能力や努力だけには還元できない。マジョリティ/マイノリティにおいて獲得しやすいハビトゥスが異なりコミュニケーションの仕方も異なる。つまり、ジョリティの獲得しやすいハビトゥスやコミュニケーション能力を優位にする主流秩序こそ格差を生んでいる。また、人が身につける振る舞いや話し方といったハビトゥス(慣習行動)は階級間移動を妨げる。荒っぽい振る舞いや話し方が身についた人は、洗練された振る舞いや話し方をしにくい。また、ハビトゥスは個人のアイデンティティとなっているので、自分のハビトゥスを改めるように迫られることは自分の根拠を揺るがされアイデンティティの喪失となる。異なるハビトゥスを身につけるのは自己の消去となりやすく容易ではない。だから、階級は固定しやすい。このように、主流秩序は高い階級のハビトゥスを身につけにくい人を下の位置に押しとどめるよう作用する。洗練されたマナーや過度なコミュ力が求められることでそうなっている。

 

2.人は語る能力がないのではなく、構造により語れなくさせられている

 

 は何かを語る時、自分の内心から語るのではなくて「立場」をもとに語る。組織や家族など自分が属する集団における「立場」を考慮することなしに人は語れない。自分の内心を正直に言うと自分の「立場」があやうくなるからだ。自由になるにはしがらみから解放され、内心を話せる場に自分を置くことだ。そういう場がアジールとなる。組織やコミュニティ、家族の中での立場や力関係で人の発話は決定づけられる。弱い立場の人なら発言に大きな制限がかかる。家族であれば、経済的立場の弱い女性や子どもが自由に発言しにくい。マジョリティ/マイノリティの関係においても発言の自由度は異なる。女性は常にミソジニーから嫌がらせを受ける。ジェンダー/セクシャル・マイノリティの人たちは自分のアイデンティティや置かれた状況すら公言できない不自由を強いられている。在日コリアンの人たちも何かしら政治批判をおこなうと右翼や保守から「在日」というだけですぐ攻撃の標的にされ、発言するのもかなりの負担がかかる。引きこもりや生活保護の人の話は聞く耳さえ持たれないし、弱音や不満、批判を口にしようものならバッシングをされてしまう。発言に伴うコストが違うのだ。つまり、人は語ることができないのではなくて、社会構造が人を語れなくさせている。社会の差別がマイノリティや社会的弱者の口をふさいでいると言える。主流の価値体系ではマイノリティや社会的弱者を肯定的に意味づける言葉が不足している。このような言語資源の少なさと構造的劣位性が、マイノリティや弱い立場の人を語れなくさせている。

 

 人は自分の発言が論評されず否定もされない空間であれば自由に話せる。その発想が自助グループの言いっ放し聞きっぱなし方式にはあるのだろう。人には語る能力がないわけではない。語ることができる場を設けられれば人はおのずから語ることができる。例えば、わたしはyoutubeツイキャスでひとり語りみたいなことをするのだが(視聴者がほぼ来ない・・)、話す内容を特に決めなくても言いたいことを殴り書きのように話すことはできる。世間や相手の顔色を伺うことがないから、比較的のびのびと話すことができるようになる。会話は他者がいないとできないが、他者が会話の制約にもなる。また、プレゼンみたいにやれとかキッチリ起承転結つけてオチもつけて話すことを要求されると困って話せなくなる。そういう論理力とか整理能力はない。コミュ力主義が自由な話し方をできなくしている。コミュ力主義が定形のコミュ力を獲得しにくいコミュニケーション弱者(=非定形)を発言できなくしている。

 

 

3.コミュ力の重圧から解放されるために

 

 主流秩序のコミュニケーション能力は生産性の論理に貫かれている。相手の発した言葉をちゃんとキャッチして、状況などを踏まえ瞬時に返す言葉を頭の中でひねりだし、的確に表現して相手に投げ返すことである。フツーの会話は実はかなり高度な作業である。まともにやっていたらすぐに疲れる(というかできない)。このようなキャッチボール型のコミュニケーションがうまくできない人は主流のレールに乗れない。相手の発した言葉や意図からズレた受け答えをするドッジボール型の会話は相手を困らせたり疲れさせたりすることになるので嫌われる。キャッチボール型の会話が苦手で知らず知らずのうちにドッジボール型の会話をしてしまう人もいる。それは、クセであったり障害などが原因かもしれない。円滑な人間関係のためにキャッチボール型の会話を意識することは必要かもしれないが、自分に身に染み付いたコミュニケーションのやり方は中々変えられるものではない。

 

 キャッチボール型の会話をするのが苦手だとかしんどいと思う人は、ドッヂボールできるところを見つけられたらいいのだと思う。自分が一方的に話せる空間だったり、キャッチボールしようと気にしなくてもいい相手を探すなどである。コミュニケーション能力と言われるが、みんな会話に潔癖さを求めすぎなのだろう。結局、コミュニケーションを介して他人といい感じで関わるには、キャッチボール型であるかドッヂボール型であるかよりも相手との相性の方が重要な気がする。気が合う人の話は一方的に聞いていても疲れないというのは実感としてあると思う(てか、そもそも相手の話をあんまり聞いてない、笑)。コミュニケーション下手な人を上手くさせようとするよりも、人と適度な距離を置くようにする方が有効な解決になると思う。コミュニケーションの方法なんて中々変えられないだろうから。

 

 会話において気をつけるべきなのは、コミュニケーションのやり方よりも力関係だろう。今のコミュニケーション能力というのは弱者を押さえ込み、強者を増長させる働きをしている。就活生など弱い立場の人は謙虚さや慎重な言葉使いを求められるけど、ホリエモンなんかはひどい事を言いたい放題だ。このように、コミュニケーション能力は立場の弱い人ほど求められ、立場の強い人には求められにくいという非対称的な作用をしている。ある能力を求められる対象が偏ることで弱い立場の人を低い地位にとどめ置き差別構造が維持・強化される。弱い立場の人を抑圧せずに自由に発言させ、強い立場の人を牽制するためのコミュ力とならなければ倫理的でない。コミュニケーションに必要な対話や傾聴は立場の強い者こそより意識するべきだ。立場の強い人が言いたい放題言ったり、あけすけにズケズケ言うことは弱い立場の人が一方的にダメージを食らうから問題なのだ。コミュ力は弱い立場の人を追い詰めるためでなく、強い立場の人が傲慢にならないために求められる。

 

 

4.言いたいことを言ってしまえ式の会話

 

 西成の街を歩いていたらおっちゃんがいきなり話しかけてくる。それも、自分とはなんの関係があるか分からない話をぶつけてくる。街を歩いていたら「おい、兄ちゃん、このコロナはタタリなんやぞ。わしは東京オリンピックが中止になることを予見しとった」とおっちゃんに突然話しかけられてよく分からないまま話を聞かされた。立ち飲み屋では「トンキン湾事件はな、でっち上げなんやぞ」と横にいたおっちゃんがいきなり話かけてきた。夜に歩いていたら「今から警察署行くわ。一緒に来るか?」と声をかけられ、西成警察署に一緒に付き添った。街でケンカしてお騒がせしたから警察に謝りにきたらしい(すぐ追い返された)。公園ではいきなりチューハイおごってとおっちゃんに言われて、ベンチで1時間ぐらいだべった(朝の6時から酒盛り)。夜の公園ではおっちゃんがいきなり飲み物を渡してきて話がはじまった。でも、何を話したか覚えてない。睡眠薬を飲んでフラフラして三角公園にいたのでちゃんとした会話ができてなかった気がする。多分、おっちゃんたちも文脈を読んで話をしようとしてない。一般的に知らない人同士は、あいさつから始まり相手の情報を小出しに聞き出して、自分と相手の接点をさぐり共有できる話題を話すのが会話のプロセスだろう。普通の会話は文脈やキャッチボールを重視する生産性の論理に基づくが、街で突然話しかけてくる西成のおっちゃんとはそういった生産性の論理が支配しない変わった会話をすることになる。当たり障りない会話をしなくていい。主流のコミュニケーションからズレているし、ズレていても問題にならない。一般社会でこういう会話をしたら「コミュ障」だと言われ煙たがられたり、バカにされる。しかし、「コミュ障」が多数派になると、ちゃんとしたコミュニケーションができなくても問題化しない。言葉のキャッチボールができない人や気にしない人同士なら、コミュニケーションを上手くしなくてもさほど問題にならない。そういうところでは、生産性の論理に基づく窮屈な会話スタイルから解放される。「障害」は個人に内在するのではなく、社会によって個人が「障害」化させられるという障害学の考えが当てはまる。

 

  

5.相手との連続性を意識しない

 

 人と人とは共通点があれば会話がしやすく関係性もつくりやすいと言われる。しかし、知っている間柄であると逆に話すことに制限がかかりやすい。組織やコミュニティにいるとそこでの成員や立場を気にして言いたいことが言えなくなってくる。また、職場では仕事に関係あることや職場の人間関係の話題がメインになり、職場に関係ない話をしにくい。知り合い同士だと、共通する部分に沿った話が展開されやすい。知らない人同士であれば、相手と会話する時に自分との接点(=連続性)を探ろうとする。当たり障りない話をして慎重に相手との関係をつくろうとして、共通点があればそれに話が収斂しやすい。共通点があるほど会話がたくさんできるように思えるが、共通点があるほど会話における話題の幅は狭くなっていくパラドックスがある。むしろ、相手の情報をあまり知らなかったり、相手との連続性がない方が脈絡のない自由な会話ができる可能性がある。街で突然出会った人との会話が楽しいのは、お互い相手の情報を何も知らないから、テキトーに言いたいこと言ってワイワイ楽しむことができるからだろう。相手の情報を知ってると、その情報に会話が方向づけられてしまい意外性が摘まれてしまう。相手のことをちゃんと知ろうとしたら、相手のことをちゃんと知るまで何も話せなくなる。相手のことをちゃんと知らなくてもいいと思えば何でも話しやすくなる。知らない人との方がしがらみがなく自由な会話ができる。いのちの電話の需要があるのはそのためだ。また、出会い系とかチャットもそういったエネルギーで成り立っている。みんな周りに言えないことを誰かと話したいからネットで知らない人とチャットとかをする。わたしは寂しいから街でブラブラしてるおっちゃんと話をする。原理は同じなのだ。自分と共通した人とばかり接しようとするのではなく、異質で未知な人と話すことで、立場や連続性の縛りから離れた自由な会話ができるのかもしれない。

 

 ツイッターでは知らない他人は見えるけど、知らない他人に声をかけにくい。相手に近づくにも相手との連続性みたいなものを示し、相手の文脈に沿った生産性ある会話が求められる。ツイッターほど主流のコミュニケーションを求められるようだ。SNSは交流する人が自分と共通する人ばかりとなり、交流の幅が狭まってしまう。なので、SNSではスピンアウト的な出会いや偶然の発生が難しいだろう。非日常やアジールがつくりにくい。

 

 

6.しょうもないことが言える場が必要

 

 先日、不登校新聞の面白い記事を発見した。小学生からずっと不登校でコミュニケーションや人見知りで苦しんでいた女性が、キャバクラで働き始めたら回復したという話だ。キャバクラに来るお客さんを観察すると、肩書もある立派なオトナが心の鎧を外して、下らないことを言ったり酒を飲んでバカ騒ぎして心のモヤモヤを発散させているのだという。オモテの社会で立派に振る舞うには、立派でいなくてもいい場所が必要なんだと。そういったしょうもないことが言える「はけ口」が生きるために必要なのだ。

 

futoko.publishers.fm

 

 

 日常では中々しょうもないことが言えない。しょうもないことを言ったらひんしゅくを買って自分の立場が危うくなる。知っている間柄ではしょうもないことやトンデモナイことが言いにくい。だが、共同体から離れた遠くの他者や知らない人ならしょうもないことが言いやすい。街で出会って話をするおっちゃん達はアカン事をした経験を話したがる。それが、ガス抜きになっている。逸脱経験を話せて笑いあえる相手を欲している。逸脱を共有することで連帯が深まる。だから、最近はおっちゃんと会話すると「おっちゃん、悪いことしてたやろ?」と話をふる。西成のおっちゃんにとってはわたしはスナックのママなんだろう。ぶらぶら歩いてるママだ。おっちゃんは変な女装したわたしと交流して非日常を感じるし、わたしもおっちゃんからトンデモナイ話や変な話を聞いて非日常を覚える。非日常の交換である。0円非日常、0円カオスである。人の関係はこういう目に見えない交換原理で結びつけられている。西成のおっちゃんは、野宿してたこと、廃棄弁当を転売してたこと、万引きしたこと、スリをしたことなども初対面のわたしに明け透けに話してくれる。しかも、自分のやらかしやアカン事をしたことを楽しそうに話してくれる。アカン事をしたことも含めておっちゃんの歴史であり存在証明(=アイデンティティ)なのだ。そういったアカン事や武勇伝を話せて笑いあえる場がアジールなのだ。

 

 しょうもない事をやったり言ったりして恥をかくことが重要である。引きこもりの人などが置かれてる状況として、失敗が許されない、つまり恥をかくことが許されないというのがある。これが行動の自由度を下げている。恥をかくことは自分に「弱み」や「スキ」をつくだすことになり他者と繋がる契機となる。「恥じ」が関係をつくり、「心地よさ」へ反転する。シッカリした風をよそおうよりも恥をかいてみんなで笑いあえる事が大切なのだ。恥ずかしい事を避けていたら恥ずかしい人になる。恥ずかしい事をしたほうがカッコいい人になる。イタイ人になることで行動の幅が広がる。

 

 

7.一緒にいすぎてはいけない

 

 とは言っても、キャッチボール型のコミュニケーションがしにくい人とずっと一緒にいるのは疲れるだろう。自分の言いたいことを一方的に言うだけでは相手を一方的なケア役割にしてしまうので、関係がもたない。しかし、一般的なコミュニケーションが下手な人を上手くさせようとするよりも、人と適度な距離を置くようにする方が有効な解決になるのではと思う。人の特性やクセで身についたコミュニケーションの方法は中々変えられないから、人との距離の置き方を工夫するようにする方が現実的だ。どんな相手でも人は基本的に一緒にいすぎるべきでない。キャッチボール型の会話が苦手で脈絡のない会話をついついやってしまう人は他人にストレスを与えやすい。衝動的でワ―っと話したがる人もいる。わたしのように会話のキャッチボールができない人と一緒にいたら疲れると思う。だから、ずっといない方がよい。たまに、会ったり電話して、訳わからん話をしてキャッキャッしといたらいい。

 

 

8.思い出だけ残ればいい

 

 引きこもりの人などは他人と会話するのが難しい人が多い。そして、仕事をしていることや生産性を求められる社会では、働いてない人はますます人との接点をもちにくい。そういう人にとっては、相手と共通する部分を慎重に探って話を広げていくよりも、脈絡のないこと言って無理やり相手と会話に持ち込むやり方の方が手っ取り早くなる。先日もドヤのおっちゃんに「おい、もうこんな時間やぞ。唐揚げ食うわ」と突然話かけられた。そうやって突然知らない人と脈絡のない会話をして自分が存在している実感が得られたらよいのではないか。むしろ、そういう主流でないアクロバティックなやり方でしか人と接するチャンスができないのでないか。人の関係はなんとなくつながっていることが多い。価値観や主義が共通していてもいけすかないと思える人もいる。逆に、価値観や主義が共有していないのに何となく関係が維持されている時もある。なぜだろう?それは、フィーリングの問題が大きいからだ。人と人とは非言語の部分で好意を抱く。象徴界ではなく現実界が支配する。オモテに現れる意識の部分ではなく無意識の部分が無視できない。つまり、人と人とがつながる最終的な根拠はない。しかし、みんな人と人とがつながった理由をちゃんと言語化しようとする。近代合理主義的な発想だろう。このように、人の関係に相応な物語を求めたがるのは関係性神話と言える。結婚式のスピーチなども馴れ初めの理由をちゃんとした言葉で説明しようとして会場を沸かせようとする。しかし、人と人との間に連続性(=文脈)を求める発想が新しい人との出会いを阻害しているとも言える。自分の文脈に沿わない他者との出会いが排除されてしまうからだ。しかし、友人であれ恋人であれ関係ができたのは何となくであり、関係が続くのも何となくの部分が大きい。だから、相手との連続性や関係性をあまり気にせず知らない人と脈絡のない会話ができればいい。相手に見返りを求めない。全てを理解しようとしないし、自分への深い理解も求めない。理解するのに徹するのではなく相手の存在や熱量を感じたい。魂を感じればいい。人生とは生温かい思い出を残していくことなのだろうから。

 

 

【過去の関連記事】

◉ 社会的弱者やマイノリティが語れなくなる構造について

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ アジールを見つけることについて

 

nagne929.hatenablog.com

 

ヒッチハイクの思い出

(以前noteに書いた記事を転載)

 2019年8月にヒッチハイクで少しだけ旅行をした。和歌山にて『貧困と差別』についての研修を聞きに行った後に、なんだか和歌山をブラブラしたくなって思い立ったのがヒッチハイクで旅行することだった。

 2日間、ヒッチハイクで合計4台の車に乗せてもらい、和歌山→湯浅→御坊→田辺→白浜と進んだ。計70kmほど交通費をかけずに移動ができた(電車で移動したら1700円ほどかかる距離)。乗せてくれたのは老夫婦の方や、広告屋のおじさん、イケメンのお兄さん、カフェで働くお姉さんなどである。

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 まず、乗せてもらう車を止めるために大きめのノートに行き先をマジックで太めに書き、道路の横でそのノートを掲げて道行く車に見えるようにする。10分でヒッチハイクできた時もあったし、車が全く止まってくれず1時間以上暑い中突っ立っていた時もあった。車がなかなか止まってくれないと諦めの気持ちが湧く。夏の暑い時期や冬の寒い時期は、ヒッチハイクで車を止めるまで外に立っていなくてはならないので過酷である。

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 乗せてもらえれば、ドライバーはヒッチハイクに理解ある人だから基本的に居心地は良い。ヒッチハイクする人はそこそこいるようだ。海外の人が多いという。海外ではヒッチハイク文化が盛んなのだろう。乗せてもらったから何かしら話題を提供しなければいけないというのはあるので、ある程度は話をする。しかし、ほぼ沈黙でもなんともなかった時もある。ヒッチハイクは本当に話が苦手な人には向いてないかもしれない。また知らない人と狭い空間をともにすることが苦であればきついかもしれない。

 歩いて移動するにはお金がかからない代わりに体力を消耗する。ヒッチハイクは車に止まってもらうためのアピールが大変だったり、車に乗せてくれたドライバーとの会話をするなど、それが苦に感じる人にとってはしんどいだろう。ドライバー側もヒッチハイカーに配慮したりと何かと気をつかうこともある。0円で何かをなすことには、様々なところで負担をかけたり人の好意に助けてもらわなければいけない。私たちは面倒臭さや人とのやり取りを金を出すことで省いており快適さを買っているといえる。

 今回のヒッチハイクを思い立ったのは以前ツイッター経由で会った旅好きの青年との会話からである。その人はヒッチハイクでの旅が好きで、四国や九州を車を乗り継いで一周したこともあるそうだ。ドライバーとの会話を楽しんだようである。時には説教されたこともあったというが。また、ドライバーの個人的な悩みなどを聞いて、その人が感極まって泣いてしまい、逆にお礼をされたというエピソードも聞いた。非日常における出会いにおいては、普段は周りに話せない自分の個人的なことを打ち明けたりしやすいというのがあるのだろう。一期一会の面白いところである。今回もこの青年から聞いたやり方でヒッチハイクを試みた。なかなか、体力勝負であるがまた機会があればやってみたい。

 

写真① 湯浅はしょうゆの名産地で蔵が並ぶ地区がある。

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写真② 田辺の海 夕方にぼんやりと

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